~ End roll ~
彼女らが、あたしの元を去ってから一年が過ぎた。 元の生活に戻っただけだというのに、心にぽっかりと開いた穴をあたしは空虚と呼んだ。それほどまでに、あたしは彼女らと過ごす時間が楽しかったらしい。長年一人暮らしをしていたせいか、それはより濃密に引きずっていた。 一度、彼女から手紙が来た。手紙には、当たり障りのない近状と独神がいなくなったことが書かれていた。 あたしは、近い未来にふたりが離れることを知っていた。あたしだけではなく、独神も知っていたはずだ。無知なのは、彼女だけだった。 独神曰くの定義は、あたしにとって否、人類にとって理解が追いつかない事ばかりだったが、遠回しに独神は言ったのだ。人間に永遠など在りはしない、と。 だからこそ、この手紙が届いたとき、あたしは独神がいなくなったことを悟っていた。 いつも通り、自宅であるビルの一室でデスクに齧り付くほどの仕事をこなす。時おり、外出をするときもあるが、大抵は取引相手と会う場合だけだった。 数少ない外出から帰宅して、あたしを待っていたものは暗がりの部屋だけではない。 「……独神?」 そこには、の手紙で消えたと言っていた独神が佇んでいた。しかし、あたしが驚愕したのはそれだけでは無く。 「ビスケか。久しぶりだな」 「あんた、その格好と声……どうしたんだわさ」 独神はが拾ってきたときと同じく、襤褸布一枚に嗄れ声でまさに今にも死にそうな雰囲気を持っていた。否、死にそうなではなく消滅しそうだと言った方が正しいのかもしれない。 「"食事"は?」 「無いからこうなっている」 「……どういうこと」 あたしは、右手に持っていたトランクを床に置くと、窓辺にいる独神に近づいた。 独神は、あたしよりも小さく、しわくちゃで壁に寄り掛かっていないと今にも崩れてしまいそうだ。 あたしの中で勝手な憶測が過る。恐らく独神は、にこの姿を見られたくはなかったのではないだろうか。 独神の定義など知る由もないが、あたしの目の前にいるこの独神はに対して酷く優しかった。時には親のように、時には兄弟のように、時には恋人のように。 仲の良さは、微笑ましいくらいだった。だからなのだろうと、憶測をさらに肯定する。 「と出会ってから、不思議なことに食いぶちが無くなった。どこを探しても、誰もいない。だからオレは悟った」 「なにを?」 「オレはもう、この世にいるべき存在ではない」 独神は、言葉とは裏腹に喜色満面だ。 「でも、あたしもあんたが見えているってことは、あたしの"不幸"も食べれるんじゃないの。だから来たんでしょ?」 「……ああ、否定はしないよ。以外にオレを認識していたのはお前だけだったからな。浅ましいオレはお前の"不幸"も食そうと思っていた。いや、試そうとした。そして、そして出来ることならもう一度……」 初めて見た。そして初めて知った。 独神の双眸から何かが、涙が顔面の皺を縫って滑りだしている。 「――もう一度、に会いたかった」 背を丸め、独神は、ついに座り込んでしまった。この姿を見て、誰が"神様"だと思うだろう。 ただの人間ではないか。 「は、あんたの姿が変わっても傍にいたと思う。あの子は、孤独を分かっている優しい子だから」 「ああ、オレもそう思うよ。だからこそ、オレは早々に彼女の元を去った。日に日に老いて見えゆくオレを彼女は放ってはおけない。そのこと自体、オレ自身が耐えられなかった」 あたしは、言葉を失ってしまった。何をどう言えばいいのか正直、困惑している。 取り繕った言葉を独神に言っても、慰めにもならない。むしろ失礼にあたるのではないか。 しゃがみ込み、あたしは恐々と独神の背中を撫でた。これが、あたしが初めて独神に触れた瞬間だった。 「ねえ、独神」 上下に摩っていた手を自分の膝の上に乗せる。 「あんた、幸福ね」 不思議と、あたしはこれまで一度たりとも独神に触れたことは無かった。 独神は嬉しそうに笑う。「ああ」 「――400年程前、ひとりの少女がいた」 相槌を打っただけかと思ったが、独神は何を思ってか昔話をしてきた。しかも400年前の出来事など、いかにも"神様"らしい。 「少女は病弱な故に"不幸"の想いは膨大で、オレにとっては格好の食いぶちだった。だが、その少女の死期が分かってしまったオレは、少女を救ってやった」 「良い事じゃない」 「話はここからだ――少女は命を救われたオレに対し、情を持った。そのことを知ったオレは、少女から離れた。オレが傍にいることによって少女は幸福になってしまったからだ。やがてオレから離れた少女は死んだよ。オレは少女を救ったというよりは、長らえさせたに近い。仮初めの健康体を与えたにすぎなかった」 あたしは心のどこかでと少女が似ている、と思ったが、それは独神の一言で全て吹き飛んだ。 そう、違う。と少女は違う。「少女は、脆い存在だった」 「死の間際まで少女はオレを待っていたんだろう。死体から吸い取った"不幸"は空だった。そこらに"負"が蔓延しているというのに。生きているもの以外、オレは食すことができない故、漂う"負"に焦燥感が芽生えた」 「…あんた何が言いたいの?」 「つまりオレは、オレが離れることによって少女が不幸になることを知っていた。知っていたからこそ離れ、"不幸"が育つまで虎視眈眈と待っていた訳だ…最低だろう?」 あたしは、独神の逆を考えていた。独神は、が少女と同じように自分が去ると"不幸"が膨れることを知っていたはずだ。ならば、なぜの傍を離れなかったのだろう。 数多の思考に、ひとつひとつ、ともし火が浮かんでくる。 「……――は、少女と違ってあんたがいなくなっても不幸にはならない…?」 ようやっと掴んだ独り言は、どうやら正解だったようだ。「ご名答」 「なぜだろうな。悔しかったんだろうか? がオレを欲していない事に。だからオレは、この世に存在出来なくなったのかもしれない。ぬくもりを知ってしまったから、人間たちを不幸に突き落としたから――だが、何よりもは真っすぐで美しかった。オレの額の秘密を言っても彼女は最後、オレに何と言ったと思う?」 独神の秘密など、あたしにとって知る由もない。そう思えば、よくよく見てみると独神の顔全体を見るのは初めてだった。 額に十字の模様。 「"あなたにとって今は美しく見えているかもしれないけど、わたしも人間だから醜くなるかもしれない。それでも、いつかもう一度わたしを見つけてね"――と、彼女は極上の笑みでオレに言った」 独神から紡がれるの台詞が、声としてあたしの脳内にリフレインしている。 ならば言うだろう。あの子は優しく、人の痛みを知り、そして人間であるから。 「居た堪れなくなったオレは無言で姿を消した。オレに次は無いのに、あいつは未来を語った。なんて人間なんだろう」 はらはらと独神は、また涙を生んだ。 は別格、独神に何をしたというわけではない。 何かと問われれば、星の数ほどある独神の食いぶちにのような人間は存在しなかった。いつしか、独神が「最低の人間ばかりだった」と言っていたことを思い出す。 すると、独神の手が透けていることに気がついた。驚愕したあたしは、思わず手を伸ばしてみたが虚しさしか掴めない。 「独神……あんた、もしかして」 「…消滅が早まったのかもしれない」 まるで他人事のように言う独神に「それは?」と聞く。 「あいつから"不幸"ではなく"幸福"を食した――今までにないほど仕合わせな一時だった」 蹌踉とした足取りで独神は立ち上がると、窓辺を擦りぬける形で外界に出た。 窓を開け放つと、頼りなくとも宙に浮いている独神が、あたしと向かい合わせになっている。 もはや両脚までも透けている独神に時間など無い。永遠を生きてきただろう"神様"には、時間が足りない人間の気持ちが分かっただろうか。 「…………ねえ、独神。あんたなら、あたしを――」 「残念だが、オレは魂を天に帰す術は知らない」 「……」 「彷徨える魂。そろそろお前も満足しただろう?」 あたしは、まるで独神に返事をするように、ひっそりと溜息を吐く。それは希望を蹴落とされた失墜のものではなく、どうしてか安堵の溜息だった。 「最後に聞いてもいい?」 「なんだ」 「――あんたは、本当に"神様"だったの?」 独神は、皮肉に笑うと青年の時と同じ仕草で肩を上げておどけてみせる。「さあ?」 「どうだろう。想像に任せるよ」 あたしは、独神に胡散臭さを感じていた。だからこそ問うたというのに、肯定も否定も無しに曖昧にされては、苦笑しか洩らせない。 すると、独神は瞬く間にあたしの視界からも消えて無くなった。聞こえはしなかったが、独神の口からあたしの正体が暴かれる。「亡霊、ね」 今の今まで一言もそんな素振りはなかったというのに。"亡霊"から"不幸"を吸い上げられない事は承知の上で独神は、あたしの前に現れたのか。 ――あの独神のことだ。ひっそりと姿を消したまま、の隣で永遠を手放すのだろう。独神の幸福の地は、の在る場所だから。 人間には理解できない、永遠を生きるということ。もしかしたら独神は、永遠を放棄したかったのかもしれない。 から聞いた、独神との出会いはあたしたち人間の運命であること。けれども、あたしはその既定に異議を唱える。 独神にとってとの出会いこそ、運命であったのではないだろうかと。 人間は肉体を失っても魂は輪廻するという。 独神。あんたがもし生まれ変わったら人間になるといい。 永遠ではなく、人間のように輪廻をして生を全うして欲しい。 数分後、あたしは遠くで、大きな光が渦巻く空を見た。 ――さようなら。 独りを運命られていた、"かみさま" (あたしも、そろそろ輪廻の環に戻ろう) ゜ ゜ ゜. . . お前はベッドで泣いていた。子供のように、ぬいぐるみを抱いて泣いていた。オレは一度たりとも、お前のそんな姿を見たことは無い。そうさせたのは――自惚れてもいいか? きっとオレだな。 頬に伝う、涙というオプションが止むことは無い。 でもオレは、この時のために涙を貰ってきたわけではない。お前と歩む、共に流す涙の時間を共用したかった。 お前は、時間を重ねるとオレを良い想い出として片付けしまうだろう。忘却の彼方に追いやってしまうのだろう。 それでいい。オレは、独神だから。 独りが淋しいわけがない。孤独に在り続けることがオレの意義。人間が猿以前の時からオレは形を変えてこの世に在り続けた。 だがお前はそれを、たった一年程でひっくり返してしまった。 "神"よ、笑うがいい。 オレが人間に近しい感情を持ってしまったということ。ローマ神話で言うオレの これであんたの目論みは消し飛んだ。それでも何か、これを知っていたのなら、あんたは随分と悪い人だ。否、神だ。 オレには時間というものが、まさに無制限だった。時を止めて欲しいことなど、ただ一度もなかった。それがどうだろう、今のオレは別れを惜しむ人間同等だ。 そろそろ"みえる"ことすら消滅しようとしている。 最初で最後の願いだ。神よ、もう少しだけ待て。 顫動した手を伸ばす、この堕ちた神の言葉を聞いて欲しい。想いを汲み取って頂きたい。の傍に行きたいのだ。 に寄り添うと、無感覚の躯にぬくもりが灯される。貌を覗きこめば、未だ大粒の涙を生んでいた。この涙を拭う術を今のオレには持ち合わせていない。 この枯れ枝のような指では、この無彩色の姿では、どうすることも出来ないのだ。 オレは彼女の眸が、声が、仕草も、悪たれも、上げたらきりがないこの全てを天に持ち還りたい。いっそ宿してしまいたいほど。 そうか、オレは人間で言う「を" "」。 美しいお前の全てをこの身に隠して、オレは瞼を閉じる。 ゜ ゜ ゜. . . |
「どうだ? オレのお勧めの本」 「……」 「これはハッピーエンド。唯一の存在で天に還った独神の話だ」 「ねぇ、クロロ」 「なんだ」 「……涙が、涙が止まらないわ」 「…オレも初めこれを読んだ時、泣いたよ」 「わたし、この本を……ううん、このお話を知ってる」 お互いに座っているソファが戦慄く。身体ごと体重を乗せて、わたしに迫るクロロは、少年のように微笑んだ。そして、わたしの涙を優しく親指で拭う。 「奇遇だな。オレも知ってるよ」 手元にある、年季の入った本。数日前、とある屋敷からクロロが盗んできたものだ。もはや古書レベルのこの本は、百年近く前のものだそうだ。 著者は女性。名前は――。 「それと――」 わたしは、どこかデジャヴを感じていた。次に続く文字を脳内で構築させる。 しかし、クロロの口唇から紡がれる言葉は、わたしの予想ではなかった。"ごちそうさま"じゃない。 |
『じゃあ、かみさまがもし人間だったら好きな人に好きって言わないの?』 『いや、言うと思うよ』 |
「――お前のことなら、何でも知ってる」 きっとこれが彼の中の"愛してる"なんだろう。 |
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了 後書 |
2011年に打ち、当時他キャラとして公開していたものをクロロとして改稿しました。 一人称と三人称(もどき)の雰囲気が2016年に公開している連載と文体が少し違いますが、それは私が今現在一人称としてを胸に配慮させて頂いています。 神様パラレルと思いきや蓋を開けてみると転生ものかよ、て話でした。テーマは幸福論。 直してみたら案外クロロが人間って面白いなとか、人間ってなんじゃらホイみたいなこととか思ってんだろうなと想像したら妄想が膨らみ、一部直しています。 クロロが神神言ってますが、彼は無神論者ぽいのですけどね。その辺の理由とか踏まえて人間になるまでクロロ視点で打ったら面白いかもしれませんが、それはまた別のお話。 ビスケの正体が彼女視点での最後に暴かれていますが、あの後、ようやく(色々なことに)満足して昇天したと思います。 神様という非人間的存在は、色々な在り方があると思います。ただ、私の中でひとつ揺るぎ無いのが「平等の元」ということでした。 ヒロインに対して平等になれないクロロが神様失格になる。まるで生命の誕生のように美しくも外れている。 相違に対する存在は、まっさらな状態から生まれゆく。神が人間になるには難解でいて、とても簡単な出会いでした。 ありがとうございました。 (20160626/H田) |