(心底愛している人は 苦痛も安らぎも 何もかも与えてくれる人だった) (それを教えてくれたのはあなたで あなた以外 他に誰もいなかった) ドアに付いていた呼び鈴が、外からの来訪者を告げた。小さなバーに、その音が良く響き下を俯いていた中年のバーテンダーが、ゆっくりと顔を上げる。愛想が無いのか、グラスを磨いている手を止めずに「いらっしゃい」と一言つぶやくと、また目線を落とした。客のいない店内は、薄暗い。 布とグラスが擦れ合うなかで、来訪者は迷わずカウンターに座った。外では雪が降っているのか、羽織っているローブには、粉雪が付着している。 雪が完全に溶けることを待たずにして「ねぇ」と来訪者は目の前にいるバーテンダーに問いかけながら、頭にかぶせていたフードを取った。 「あのメニューは、まだあるかしら」 フードから落ちた少量の雪が床に落ちた。店内は暖かいからか、それはすぐに水と化して、じんわりと歪んだ丸が出来る。そして、床に染みを作る。 その速度と同じように今まで鳴っていたわづわらしい音が消えた。バーテンダーの手が止まったのだ。驚きで声が出てこないのか、返事はすぐに返ってこない。 ねぇ、ともう一度来訪者――が言うと、続く言葉を遮るかのようにバーテンダーは一言返答を返し、店の奥へ消えてしまった。 客を一人にして、どうするというのだ。そう思いつつ、は小さく笑うと体からローブを引き剥がした。背中の大きく開いたドレスが露わになる。その格好は、冬にしては寒い格好だった。どこか出かけてきたのか、それともこれからをか、きっちりとしたメイクは崩れてはいない。 は、髪を整えると右端に顔を向けた。懐かしさの残る、空の席だ。昔は、確かにここにいたのだ。 、と柔らかに自分の名を奏で、愛しそうに見据えるあの双眸と声が。 セピア色の映像を虚ろ眼で見ていると、先ほど真上で聞いた呼び鈴が鳴った。強くドアを押したのか、その音はとても大きな音だった。 コツコツと尖りが効いた音が女の後ろを通り過ぎ、見ていた映像にたった今入ってきたばかりの人物と重なる。 「隣、いい?」 そう言って第二の来訪者が指差していた方向は、が見ていた席だった。すらりとした長い指は下を向けている。性別は、どうやら声と手で判断する限り男のようだ。 「どうぞ」 「どうも」 軽く礼をした男は、黒色のコートを脱いで背にある壁掛けのハンガーにかけた。そして手に持っていた本を隅に追いやって、両手を組む。流れるような動作は、まるで決められていたもののようだった。 「ひとり?」 「ええ」 「待ち合わせでも?」 「いいえ」 じゃあ、と男は続ける。 「暇だったら、とあるバカな男の話でも聞かない?」 : 物語の冒頭は、「バカな話だ」から始まった。 半分も入っていないコーヒーを円描くように女はカップ廻す。ゆらりゆらりと追いかけっこのように回りだした黒い豆汁は、この一室を照らしている照明で煌びやかに踊っていた。 その小さな舞を見ている中で、名前を呼ばれた途端に悪戯な手は、ぴたりと止まった。回り出したばかりの液体たちは、丸を作り女に向かって跳ね出したが、それが降りかかることは無かった。 半分も入っていないものは、届かない。無常なことに、まるで今の状況を代弁しているかのようだった。 『…早く出て行って。私は別れようって言ったのよ』 それは唐突に、雨上がりの買い物の最中に見つけた水たまりが決定打だった。 水たまりというものは、溝に雨が溜まることによって出来る。そのまま雨が降らずに太陽が照り付けると乾いてただの溝になる。なんでもないような自然の摂理だが、女にとっては、別れの背中を押す一つになった。 女に対する男の愛情を表すのならば、それは水たまりだ。今まで続いていたのは、定期的に雨が――愛情が降ってきたから続いていたものなのに乾いてしまえばただの溝、他人になってしまう。 中身は渇き切った。だがそれは、太陽のせいではない。女自身で水を掬い上げ、空にした。 女は、いつまでも待っていられるほど健気ではなかった。それは男自身も知っているはずだと思っていた。 『どうしても?』 女にとって予想外なことは、男が執着を見せる台詞を吐いた事だった。 確かに遊びで付き合ったわけではない。しかし将来を共に、というほど深くも無かった。 ふたりの間にあるのは糸。だが、それは決して赤色ではなく、だからこそどうにかすれば切れる。今まで女が切ろうとしなかったのは、理由が見つからなかっただけの話。 『……どうしても』 静かに笑い、小さく相槌を打った男は、前髪をかき分けた。やがて一人だんまりを決め込む。 女は、こうして男が思考の波に埋まる時間が好きではなかった。特に喧嘩の時は、正論を言うあの口唇が憎くてたまらなかった。だが、あの口唇こそ愛しさを生む一部だと言うことも知っていた。 『理由を聞いてもいい?』 随分と時間を吸い寄せてから放った言葉は陳腐な台詞で、女は失笑してしまった。答えは簡単なはずなのにと。正解はこちらにとっても陳腐なのだ。 『頭の良いあなたなら簡単に答えられるはずだけど』 『買いかぶり過ぎだよ。オレは恋愛に関しては初心者だ』 『童貞でもなかったのに?』 『性欲と愛情は別物だ』 ボツン。屋根から大粒の雨音がする。 『最低ね。出てって』 女は勢いよく立つと、二人分のコーヒーカップをぶん取る形で片付けた。未だ中身は入っていたが、それをシンクに流す。もう男の顔は見たくなかったのか、そのままスポンジを取ってカップを洗い始めた。 『――オレなりに愛していたはずなんだがな』 背後からの台詞は、あがったはずの雨が流してしまった。 『……傘、忘れてるよ』 重い腰をやっとこさ上げ、玄関先に突っ立っている男に女は聞いた。玄関に入ってくるはずの雨水は、恐らく男の背に飛び散っているだろう。そんな事を思いながら言ったのだ。 男が持ってきた傘など不要以外何ものでもない。これは同情だ。 『いや、いい。処分してくれ』 歪んだ口唇から流れた声は、どこか棘を持っていた。ずん、と痛んだ心臓を女は知らないふりをした。名残惜しいと心だけが叫んでいた。 『そんな顔するな』 男は、最後に笑ってくれと強制はしなかった。それが女への情けなのかもしれない。 『元気で、ね』 女は自分でも驚くほど、ありきたりの言葉を並べた。言葉が見つからない。彼女にとって何も無かったのだ。 ふたりの間に、さよならは不必要だった。そして、別れを選んだ。 別れがさよならとは限らない。 『最後に聞いていい?』 『なに』 『オレのこと好きだった? オレはちゃんと恋愛してた?』 もしかしたら、と女は思う。今日のように雨が降り、水たまりが出来るかもしれないし、自ら作り出すのかもしれない。 溢れんばかりに溜まった雨水は、いずれ均等を求め太陽を促す。清んでいるほど雨水は綺麗に光りだすに違いない。泥交じりのない、淀むことを知らない無垢なあの頃に彼女は戻るのだ。 こうした未来予想図の矛盾さに女は腹が立った。未だに未練があると言っているようなものだ。 しかし今はふたり、別れなければならない。こうでもしないと、女自身が壊れてしまいそうだった。依存してしまいそうだった。弱さを持つ自分が恐ろしくてたまらなかったのだ。 『もちろん。私がただ、耐えられなかったの。自分の弱さに』 下を俯いて言った言葉が雨に飲まれているといいと女は願った。あまりにも情けない言葉と姿は、付き合っていた10分前なら見せていたはずの弱さだ。 ふたりは他人に戻った。 『…なんだ。同じだったんだな』 意を決して上を見上げた時には、ドアが閉められていた。 女は、キッチンの前に立つと未だコーヒーの香る、色違いのカップを手に取った。そっと顔へ近づけると、コーヒーの香ばしさに隠された男の気配があった。無性に涙が込み上げる。 『私も、す』 寸止めした言葉は、本人に届かない。何もかもが、遅すぎた。女がお揃いのカップをゴミ箱へ棄てると、ゴトンとやけに重い音がなる。 割れなかったのだ。 その後、女が泣き崩れたことを男は知っていた。だが、例え今戻ったとしても、駆け寄り抱きしめたとしても、何も変わらない。あの女なら自分がいなくともやっていけるだろうと。 男の欠点は幾つかあったが、一番の欠点は、このように女を過大評価し過ぎたというところだ。どんなに強く見せていても、結局は人間で、そして女なのだ。特別出来過ぎているものなど、もはや人間ではない。 各地を点々とする男が、一つを拠点にすることはとても珍しいことであった。ひとつに執着をしない。手に入れたら一通り愛でて棄てる。人も物も、これは飽き性ではない。貪欲なのだ。 ひとつに絞るということは、視野が狭くなる。融通がきかない。らしくない。理由は、様々にある。それを突き破るほどの女が男にとって、その女だった。それだというのに、手放した。 : 「そこでオレ思った…なんで弱さを曝け出せなかったのか。ありのままを見せていたら違う未来があったのかもしれない」 そこまで男が言うと、奥に引っ込んでいたバーテンダーが顔を覗かせた。知り合いだったのか、男が手を上げるとバーテンダーは微かに笑む。 数秒して、バーテンダーは、手に持っていたシェイカーを上下に振り始めた。独特の音は、男に沈黙を守らせる。否、今は言葉など必要なかったのかもしれない。 そのまま黙っていると、カクテルグラスには色鮮やかな液体が注ぎ込まれる。それを見た男が、自分でも気づかなかったように言葉を漏らした。 「…それ、まだあったんだな」 は黙っている。聞いているのかいないのか、反応は何も無い。 白魚のような手が差し出されたグラスを取った。紅の引いた口唇から喉に流し込むと、甘めの味が口いっぱいに広がりを持つ。 一口だけ飲んで、は静かにグラスを置いた。反動で、中身の液体が揺れる。 「ドレス、似合うよ」 が流し込んだ酒は、ふたりでオーダーした特別のものだった。着ているドレスは、男が最後にプレゼントしたものだ。男の名は、クロロといった。女の名は、だ。 「あのときオレがその選択をしてたら、お前の隣はまだオレだったか?」 頬杖をついてへと向けていた双眸が、ようやっと欲しかった瞳と合う。 数秒見つめ合い、やがては微笑む。それから逸らすように前を向くと、目の前にある酒をいらないとばかりに離した。 「お勘定、お願いします」 立ち上がり、言われた金を出しては去ってしまった。振り向きもしない、凛とした背筋は、昔と全く変わってなどいない。突き放せば寄り添う。近寄れば逃げる。猫のような女だった。 男――クロロは、くっと喉で笑うと、手で顔を覆った。 こういう女だ、だからこそ惚れた。手に入れたとしても、また逃げられる。そう思いながら苦笑する。 「なにも変わっちゃいないねぇ」 突然、一部始終を見ていたバーテンダーが、そう言い出した。 なにも、という言葉にクロロは目を見開いた。なにも、なにも。なにも変わっていないのならば。 クロロは立ち上がると、金もコートも本も忘れ、急いで店を出た。持っていたのは、あの頃と変わらぬ感情だけだった。 左右確認して粉雪によって作られた白の絨毯を見、残された足跡を追う。軌跡は、店から出てすぐにある曲がり角で消えていた。 白い息を吐きながら、女の名を呼ぶ。待て、と願いを馳せながら手を伸ばす。そうでもしなければ、ならない。なぜなら猫は、あの曲がり角で、しゃがんで泣いているだろうから。 路地裏の猫 |
(20160612/再録)