深夜のプラットホームは、意外に不気味なものだ。どこまでも続く路線が、夜の闇によってのみ込まれているかように、すぐそこで路が消えている。 上空は黒に塗られた闇で、月が見えない。星もない。雲に隠れてしまったのか、光を失くした空は漆黒に染められている。 照らしている唯一の電灯が瞬きをはじめた。ちらちらともどかしい光に、は仰ぎを止めると大きなため息を吐く。何かに呆れたわけでも、失望してしまったわけでもない。絶望なら当の昔から持ち合わせている。闇に慣れてしまった自分だった。 ホームに並んでいる長椅子に、はいた。決して大きくはないトランクに、新たなる決意と切符を持ち、ここにいる。 光の方へと歩もうとする意思は、本能の内に秘めている一つに酷似している。誰もがそうとは限らないが、何かを求めるとき、人は光の差す方へと歩む傾向がある。 本当に、これでいいのか。迷いはいくらでもあった。 思いもよらぬ人生の曲がり角に、一人勝手に歩む身体を止める術は持ち合わせていない。身体とは逆に、心の奥底には躊躇いがあった。だが、躊躇という言葉は、この場で無意味なものだろう。本能なのだ。 人は、時間には逆らえず、この瞬間も前に進んでいる。それと同様、今はただあの光へ歩むしかない。無意識に、手に力がこもった。 削り落とされた音が、の耳に鋭く届いた。目線を落とすと、座っている長椅子のペンキが剥がれている。擦れたような、意図的に削ったようなものまで様々に傷跡が見えた。真新しいのは、たった今が付けた爪跡だ。 治るはずでもないと言うのに、は疵口を、そっと撫でる。手先から3センチほどの場所では、誰かが座った。 反射的に顔を上げると、そこには一人の男がにっこりと笑ってを見ていた。ブロンドの髪が揺れ、その拍子で垣間見えたアイスブルーの瞳が酷く綺麗だった。 「聞いたら失礼かもしれないけど、どこへ行くの?」 とは、さすがに言えない。会ったばかりの一般人に、これはないだろう。 あまりにも突然降ってきた質問に、は眉間に皺を寄せるが、すぐ元に戻した。開けた口から出たものは、自分でも良く解らないものだった。 「探していたものに会いに行くんです」 「探していた……ああ、それでは見つかったんだね」 見つかった、と断言していいものだろうか。むしろ、この言い草では光を探していた事になってしまう。刹那の自問自答を繰り返し、はとりあえず頷くことにした。 「良かったね」 言いながら足を組み返した男の端正な顔には、未だ笑顔が張り付いている。 男は、から目線を外すと、空を仰いだ。厚い雲に覆われている暗闇を眺めているその横で一人、は笑いを押し殺していた。 の様子に、男は眉を顰めながら問う。「なにかおかしな事でも?」 首を振っただったが、耐え切れず声を上げて笑った。腹を抱え、時には、くつくつと懸命に抑えもしたが、やはり最後は大口で笑ってしまった。一通り笑うと、ようやく目線を絡める。 「もういいよ」 仕方ない、といった投げやりな言い方だった。 男は、きょとんとした顔をしていたが、徐々に顔つきを変えてゆく。同じく口許を笑わせると、長い前髪を掻き分けた。が言葉を繋げる。 「――クロロ」 首筋にアンテナが刺さっている。シャルナークの携帯を借り、どこかで操作しているのだろう。 「ばれてた」 「最初は分からなかったよ」 「ふーん…でも、なんで?」 悔しさを押し込めた口調でクロロが問うと、はにっこりと笑い、得意げに言った。 「足、組み返したでしょ? クロロの嘘をつく時の癖だよ。それに、どうあってもおかしいじゃない」 目を見開いたクロロは、数秒黙る。それから小さな笑いをしたと思うと、今度はクロロが声を上げて笑い出した。「はは」 「完璧だと思ったんだけどな。やられた…今回は完敗」 「じゃあ、見逃してくれるよね」 「それとこれとは別問題だ」 クロロが一刀両断すると、が小さくため息を吐く。予想通りの即答だったのだ。本気で言ったものの、クロロが見逃してくれるはずは無いとわかっていた。 はフリーの殺し屋だが、ほとんどの依頼人はクロロだった。同郷、そして半端無い金の額や年齢が近いからか、気が合う。男ではどうしようもない場所や人物、鮮やかな殺戮。の役目だといっても過言ではなかった。 クロロは、が好きだった。もまた、クロロが好きだった。勘違いしてはならないことは、互いに依頼人と殺し屋としての話だ。依頼者として、がもう仕事をしてくれないのは惜しい。 彼女が旅団に入らないことは、深く考えなくともクロロは熟知していた。彼女は自由を愛し、そして自由に愛されている。自由を奪えば、彼女は自分の元から完全に去ってしまうだろう。 だが、予想に反しては故郷を捨て、且つもう会う切っ掛けを断った。それはクロロにとって、鈍器で殴られたような衝撃と誤算である。 、とクロロが呼び慣れた名を呼ぶ。 「お前は、いつの日か安寧に苦しむ。上手く取り繕っても、もうこちら側だ」 「普通になりたいだけなの」 「……戯言を」 「本気よ」 ちらついていた電灯は、いつの間にか消えていた。暗雲から顔を覗かせた月が、の顔を照らす。本気だと言ったの眼光が鈍く放っていた。 人を殺めるときと同じ顔をしている。クロロは、この顔が好きだ。ぞくりと背筋を振るわせる感覚がたまらない。 「その顔が好きだった」 辺りにいる人は疎らで、誰も二人を見ようとはしなかった。夜を襲う寒さに、自分を守ることで必死だ。 クロロの意外な言葉に、は微笑むと「ありがとう」と素直に告げた。自惚れに近い感情に恥を覚える。クロロなら必死で自分を止めるかと思っていたからだ。 遠くから最終列車の到着を告げる足音が聞こえてくる。ここでは眩しすぎるライトが、すぐそこで道を割り、これからを照らしていた。完全に止まると、は立ち上がってトランクを持つ。 「もう会うことはないね――さようなら」 ひらりと手を振って、背を向けた。あっさりと身を引いたクロロに不思議さと寂しさを抱えたが、はそれら混ぜて列車に乗ると同時に捨てる。 これは情だと、言い張りたい。気づいてはならない感情だ。 車両に足を踏み入れると、意外にも人が乗っていた事実に驚いた。列車を待っていた人々は、を合わせても5.6人もいなかったはずだ。 深夜だからゆっくり出来ると思ったが、とんだ予想外れに仕方ないとは席を探した。相席は勘弁したいが、立つのはしんどい。 ようやく見つけると、顔を伏せたまま無言で座った。気さくな人間が多いこの地では、話しかけられることが少なくはない。こんな時は、目さえ合わせなければいいのだ。 トランクを足元に置いて、ふとは目の前にある両足を見た。偉そうに組み、ほっそりと長い。流れるようにして目線を上げる。 「また会ったな」 「……………………嘘」 今度は本体のクロロが、どっしりと構えていた。 あまりにも出来すぎた運命を呪いたい衝動に駆られた。先ほど捨ててきた寂しさの名残が一気に吹き飛ぶ。不思議さの謎は解けた。余裕をぶっこいていたはずだ。 「な、なんでいるの……わざと? 呪い? 電波?」 「酷い言い草だな。残念ながら、どれも外れだ。第一に、座ってきたのはお前だろう」 確かな言い分に、は黙る。 トランクから手を離し、上半身を起こして息を整えると、もう一度確かめるようにクロロを見据えた。やはり脳内でどう足掻いてもクロロだった。 「これは運命だ、と言ったら惚れてくれるか?」 ときめきを通り越して呆れたは、空笑いで返すとクロロから目線を外し、窓の外を見た。遠くで明かりが、ポツリポツリと見える。首都から外れにあるここからでは、夜を彩る光は無意味だ。 黒の窓から反射したクロロの口許が動く。「考え直せ」 「無理だよ。もう決めたんだもの」 「そうか」 会話の最中、クロロの目線はどこまでもだった。逸らすことなく、瞬きで遮断する以外闇色の双眸は常にを映していた。それがにとって苦痛であった。 あの眸には、有無を言わせぬ力がある。負ける気はさらさらないが、少しでも揺らいでいる心に不安が圧し掛かっているのは事実だ。 「じゃ――」 話を切るような始まりを言うと、クロロはたっぷり時間を置いた。それでもは、振り向きもしない。 「これからを、最終駅まで一緒にどうだ」 何を言うかと思えば、列車のことか。 は、最終駅まで乗らなくてはならない。クロロが何を目的で、この列車に乗ったのかは判りかねないが、にとってどうでも良いことであった。 頷き、「ご勝手に」と突き放した返事を投げた。それを聞いたクロロの口許が撓る。の眸には、窓に反射した黒のクロロしか見えない。 「返事をしたな。忘れるなよ」 意味あり気なことを言うと、クロロは上機嫌になった。が顔を顰めたが、クロロは変わらず笑っている。 「…なに、なんで笑ってるの? 気味が悪い」 「オレにここまでずけずけ言う奴はお前くらいだ。嬉しいから笑ってるんだけど」 は、さらに訝しげな表情を見せた。その顔は、言葉に表さなくとも「なにが」と問う疑問が浮かんでいる。察したのか、クロロの口からはすぐに答えが飛び出た。 「たった今、はオレの人生を死まで共にいてくれると返事をしただろ?」 なにがどうなってそうなって言っているんだ、この電波は。 がようやくクロロへと顔を向けると、本人は満足気に薄く笑っている。何の勝ち負けかは不明だが、明らかに勝者の笑みを浮かべていた。 「もしかして勘違いをしていたのか? 誰も列車のことなんて言ってない。最終駅とは死ぬまでのことだ」 「(おお、思わせぶりにもほどがある…)いや、わたし、普通に戻りたいんだけど」 クロロは、先ほどとは違い、けろりと言って退ける。「戻せるわけないだろ」 「お前はこれからも殺し屋だ。オレ専属のな」 「専属? 依頼なんて受けないよ。クロロの命ならいくらでも狙ってあげるけど」 「それでお前と会えるなら本望だ」 売り言葉に買い言葉。どんどん可笑しな方向へと行く話に、は頭を抱えた。 「お前を繋ぎ止めたいと、さっき気がついた。いなくなると理解した瞬間に気がつくなど、やはりオレも人間か」 互いに、依頼人と殺し屋として好きだったはずだ。確かに、寂しさなど哀愁が沸いたが決して恋愛に結びつけるものはなかった。否、結び付けたくなかっただけかもしれないが。 熱っぽい声と表情でクロロが告げる。 「お互い愛しているのに、敵同士だなんてロマンチックだな」 「(あ、愛し…?)……そういうもの?」 「ああ。殺し合いをした後にオレたちは愛する……言い換えれば、愛するために殺し合いをする。美しいと思わないか?」 「ねぇ、わたし、完全に人生の選択肢を間違えたよね」 列車が、ガタリと一際大きく音を立てた。クロロが、「さぁ?」と分からないといったように肩を上げておどけて見せる。それから突然、思いついたように声を上げた。「ああ、」 「好きだよ」 様々な問答を頭の中で巡らせていると、突然降ってきた言葉に思考と揺れていた身体が停止する。ぎこちなく顔を上げれば案の定、今日は取れないだろう笑みが懲りずを覗いていた。 ぽかんと開いた口が閉まりそうにない。 「オレを愛せ」 なんて、なんて貪欲な男なのだろう。好きだと言って、愛してくれと要望した。 は、乾いた笑いを零すと額に手を当て、やはりもう一度笑った。その様子に、クロロは不思議そうな顔をした後、とりあえず自分も笑ってみせた。 アナーキストの理想論 |
(20160612/再録)