染色体が一本違うだけで、人間は男と女に分かれる。 男女以前に、違う人間だというのに解り合いたかった。解り合えないことを覆したかった。これは子供の我が侭ではなく、ヒトとしての根本的な我が侭だ。いくら足掻いても、ひとつになりはしないというのに。 それでも繋ぎたいと思うのは、一つの説によると男と女は元々ひとつの存在だったからだという。 その一説が正しくとも、不正であったとしても、ヒトはヒトを欲求していたはずだ。その繋ぎめとして愛を用い、溶け合うことを願う。これこそ、人は一人では生きられないことを示しているのかもしれない。 ぎらついた太陽が情熱的に世界の半身を灼いている。まだ夏には程遠いというのに今日はやけに温度が上昇し、コンクリートから跳ね返ってくる熱が抱いている焦燥とは裏腹に足元から一方通行の想いを発していた。何年も前に抱いた、初恋の切なさに似ている。 は、一言「あつい」と呟いて自宅に背を向けて走り出した。 ポケットに財布と携帯を突っ込んで家を出、どうしてか後悔に沈んでいた。待ち合わせ場所も、今日という日も、それ以前にこの何十億と人が溢れかえっている世界で彼を選んでしまった事も、情けなさを吐き捨て悔いに生き走っている。 プライドは、彼を好きになった刹那から忘却していた。幼き恋の延長戦である今も、それは変わっていない。何もかも、この気持ちさえあれば何処にでも行けると信じていた。 その想いこそが幼いという事を、何年も経った今に知る。自身、まだ年齢的にも精神的にも子供だということは百も承知だ。ただ、昔の自分をガキだと言っても良いだろう。10代と20代の壁は、意外にも高い。 とクロロが出会ったのは二年前の夏――は、まだ10代だった。その日は、夏日にしては涼しげな日で今日のように季節感を半分削いだ天気だった。 公園の販売機に内蔵されている、最後のミネラルウォーターが切っ掛けで滑り落ちるように恋に落ち、住む場所は違っても、むしろその距離が二人を燃え上がらせた。 クロロは連絡が忠実ではなかったせいか、はよく気落ちしていた。しかし運命のいたずらのように気持ちが離れそうな寸のところで、クロロは帰ってくる。 初めの頃は「待つことも出来ないのか」という言葉を皮切りに喧嘩をしていたが結局は元鞘となり、これはとある一つの恋愛スタイルなのだとクロロは思い、信じた。もクロロを信じるようにした。ふたりは、二人を信じていたのだ。 待ち合わせ場所の公園には、既にクロロがいた。白シャツに黒のパンツスタイルはシンプルだが、それがより彼を引き立たせている。 めずらしくクロロは写真集を眺めていた。見開きページには、豪壮な海が広がっている。この写真に写る、何処までも続くと思われる地平線では、地球が丸いことを確かめられない。世界でちっぽけなものだと教え込まれる瞬間でもある。そして、この恋もまた、ちっぽけだと言われているような気がしてならない。 「クロロ」 ベンチに座っていたクロロは、名前を呼ばれると、すんなりと顔を上げた。口許には笑みが浮かんでいるが決してが望んでいるものではなかった。は、クロロの作り笑いなど見たくはない。 彼の方へ駆け寄り、問おうとしていることが喉まで来ているが、いっかな声にはならない。目線を下に落とし、苛立ちを押さえ込む。だが、それは無限に沸いての理性を唐突に殺した。 「この前一緒にいた女の人、だれ」 挨拶も無しの、ストレートな問いにクロロの眼元がぴくりと動いたが、それがに伝わるとは無かった。切れている人間ほど、些細なものに気づかない。 「無言、ね…」 嘲笑うような言い方だった。鼻で笑い、首を傾げて片方の肩を一度上げる。 それからは、今さっきクロロが眺めていた写真集に目を向けた。腹立たしい程、青々した海が見開いたままだ。沈黙が加速する。 「オレが誰といようと関係あるのか?」 やがて終止の無言を破ったのは、怒気を孕んだクロロの声だった。言い方か、それとも珍しく感情を剥き出しにしているクロロに驚いたのか、は目線をクロロへと戻した。 ベンチから立ち上がったクロロは、噴水のある方向へと歩き出し、振り向く。凛と立っている姿で、こちら側に睥睨を投げている光景がの双眸に映っていた。惚れた男の絵画である。 「確かに世間一般からしてオレたちは付き合っているけど、毎回いつ誰といたかなんて言う必要があるのか? キリがない」 「付き合っている人が自分以外の女といるのを目撃して黙ってろってこと?」 「毎回似たようなことで喧嘩してるのがキリがないって話だ」 「あたしは女の人は誰って聞いてるの。携帯、見せて」 「じゃお前も見せろよ」 「……」 「なんだ見せれないのか? …ま、オレといる時も手放さないしな」 完全に嫌味が入っている言い草に、の脳内で何かが切れた音がした。図星だからこそ切れた事を、本人であるは気づかない。怒りだけが、彼女の脳天から爪先までを支配している。 けれども、が放った言葉は、呆れた返事一つだ。「ああ、そうね」 言うと、は尻ポケットに突っ込んでいた携帯を無理矢理引っ張り出し、強く強く握る。ギチギチと無機質な声が小さく泣いた。 「これでいい?」 勝ったと言わんばかりに、握っていた携帯をは噴水へと投げた。つい最近買ったばかりの最新機種は、高く半円を描き吸い込まれるようにして落下を目指している。 ドプン、と鈍い音が聞こえたと同時にが口を開けた。 「その大切な携帯を投げたわけだけど、じゃあなたは?」 片手をクロロに向ける。混沌とした表情のは、毎度の笑顔とは真逆の面貌だ。 本当に同一人物なのかと、クロロは腹の中で驚きつつを見た。 自然に込み上げた言葉は、さよならを意味していた。 「棄てるなんて逃避と同じだな」 言葉を吐き捨て、クロロは背を向けて颯爽と去っていってしまった。 は、追いかける素振りを一つもしなかった。追いかける術を、知らなかったからだ。そして、体もまた、動かなかった。 彼女は、逃避するために携帯を投げたわけではない。明確ではないが、クロロが自分の携帯に男の番号が入っていることを嫌悪しているからだと勘付いた判断だった。 クロロは付き合ってこの方、一度もの携帯について咎めたことは無い。ただ皮肉を言っただけだ。 こうして裏目に出てしまうことが幾度かある。勝手な解釈で傷つけ、傷つけられたりもした。だが、ここまで二人の亀裂を走らせることは無かっただろう。 ぎゅう、と両手に拳を作る。「もう…」 呟いた言葉と、手のひらの痛さが今のの全てだった。クロロという存在がの全てだった。 有機的な時間の流れは、の中で妙に遅い気がした。毎日の日課であったクロロへのメールや電話、クロロの都合で会う休日。 分け合った時間帯がなくなれば、それもそうだろう。の一日は、クロロによって彩色されていたのだ。日常の中における、一部だった。 クロロと別れた今も、は他の男へと完全に靡くことはなかった。ありきたりな言葉を並べられ、少し引っかかることもあったが結局は振り、端から無視したこともある。 どちらに転んでも後味に残る想いは、いつも同じだった。巡り繰り返される言葉は、ただ一つ。 「今ごろ、クロロは何をしてるのかな」 馬鹿じゃないかと思う程に憶えている携帯番号に一度、かけたことがあった。 また新たに買いなおした携帯を片手に、コールを数えながら待つ。5回なっても、あの愛しい声は聞こえなかった。10回目になると、留守電に切り替わった。 本当にあの日に終わったのだと、目の前にあった甘い夢が消える。例え喧嘩をしても、別れたことはなかった。は、クロロなら許してくれると、またやり直せると―― あれから一年以上だ。一年と4ヶ月が過ぎていた。 : 休日の本日、友人にキャンセルを告げられたは、仕方なしに小腹を満たすため、公園内で構えているベンダーからホットドックをテイクアウトした。存在感のあるウインナーが中央にドンと居座っている。 8月が過ぎても、まだまだ熱い。突っ立っているだけでじわりと汗が滲み、そして喉に渇きをもたらして来る。 故に木陰が覆うベンチに座り、は、もくもくと食べていた。ついでに飲み物を一緒に買えばよかったと思いつつ、ようやく食べきると自販機を探すために立ち上がった。 ――求めていたものは、すんなりと見つかった。早速バッグから財布を取り出して、札を押し流す。ボックスにボタンランプが点灯する。 どれを飲もうかと目線を迷わせている最中、クロロとの出会い時に買ったミネラルウォーターと同じ銘柄のものが目に入った。 いつもは紅茶を好んで選ぶはずなのに、どうしてかあの時は普段飲むことのないミネラルウォーターのボタンを押した。自身すらも判らない不思議な気まぐれだった。そして、クロロと会話が進んで付き合って――。 は、切なげな眸のまま口許に笑みを作ると、人差し指をミネラルウォーターのボタンへと近づけた。 「……やめた」 が、押す間際に方向を変えて隣のボタンを押す。落下音が聞こえると、屈んで冷たいペットボトルを手に取った。早くも結露が出来上がってくるそれが陽光に反射して光っている。立ち上がり一歩踏み出すと、光の向こう側に何かが見えた。 持っているボトルを落としそうになった。会いたくて、会えなくて、求めていた人物が目の前にいる。 「…なんだ」 その人物は近づいて自販機を一通り見、声を上げるとに背を向けて歩き出した。反射的に手を伸ばしたが掴んだものは黒シャツの端で、口から漏れた言葉は自身すらも驚愕するような告白だった。 「こ、これ譲りますから付き合ってください! 付き合ってくれたらあたし、死んでもいいです!」 汗を掻いているペットボトルを突き出して、は赤面した。この台詞を聞いた刹那、振り向いた顔は、小ばかにしたように歪んで呆れている表情であった。 「"オレと付き合ったら死ぬの? 無意味だね"」 口許を撓らせた面貌が、もうひとつ付け足す。「初めて出会ったときと同じ台詞だな」 は、ゆっくりと顔を上げた。その表情は、先ほどまでの赤面ではなく、必死で彼女にしては真面目な作りと情熱に燃えた焔を双眸に宿している。 「やっぱり好き。あなたと出会ったときから今までの過去も、これからもずっと」 「の、そういう確証のないところが苦手だった」 「…ごめん」 「勝手に人のこと疑ったり」 「……ごめん」 不敵に笑う口唇。「オレは一度、お前にチャンスをくれてやったからな」 「………ごめん。ん? なにが?」 まるで小さな子供のように謝罪していただったが、含みのある言い方に疑問を抱いた。その様子を見つめた後、クロロは言葉としての返答をするわけでもなく、大げさにため息を吐いただけだった。 「…知らない番号からの着信がのだって、なんとなく気づいてたよ。どうせオレの番号を暗記してたんだろ」 「……うん」 「バカだな、オレに捕まって」 「なにそれどういう意味? ていうか、返事聞きたい!」 「…1から出直して来い、」 シャツに引っ付いていた手を振り払ったクロロは、もう一つ何か呟くと足早に去っていった。その様子を呆然と見ていただったが、我に返るともう一度手を伸ばし、小さくなりつつある背を追いかける。 「ま、待ってよ――クロロ…!」 一年前の出来事など何も無かったように接したクロロが許しを与えたわけではない事は、自身、至極熟知している。 しかしながらクロロが1からと言ったのは、現在の蟠りをリセットし、またやり直すチャンスを見せたクロロなりの気持ちだった。 1からというのは0からではない。あの頃よりも一歩前進し、全てをリセットできない事を了知している上でのコングだ。最後に「」と我が物顔で呼んでいたのが良い証拠である。 ――もう逃げれないよ。 最後にクロロが呟いた言葉がこれだ。 彼は、チャンスを2度与えた。関係性のやり直すチャンスと、住む世界の違う彼女に平穏な世界へと戻してやったチャンスだ。だが、後者に関しては何度でもクロロを求め、何度でも掴むのだった。 後にクロロが幻影旅団の頭という、人生をひっくり返されるような真実を彼女は知ることになる。 懐かしい恋心に踊りながら、は走る速度を上げた。無意識に投げたペットボトルが鈍い音を立て地面に転がり、陽光に光る。 が押した自販機のボタンには、売り切れの文字が浮かんでいた。 恋するAndrogynous |
(20170220/再録)