街で一、二を争う巨大ホテルは、都市部から離れている場所にあった。大きさもそう、夜景を楽しむために作られたそこは、街中から距離が置かれているせいか、諸事情がある金持ちが利用していることで有名である。 利用者の中は、政治家もマフィアも成金も、誰もがテレビ画面で見たことがある顔ばかりだ。パーティーと称した資金集めは無論の事、密会に蜜月――挙げたらきりがない。 そのホテルにが悠々と足を踏み入れたのは、夜の9時を回ろうとしていた時間帯だった。 「フィンクス」 シルクのドレスを身にまとった、昔は少女だった女の声がホテルのロビーに反響した。金色の頭が振り向くと、声の主がすぐにわかったのか笑顔で出迎えた。女は数度手を振り、駆け足でフィンクスと呼んだ男の方へと向かっている。 「おう、久しぶりだな」 「久しぶり」 「何年振りだ?」 「うーん……忘れた」 にっこりと笑ってバックを持ち直す。飾りだけのために作られたようなクラッチバックは、シャンデリアに反射して煌びやかにフィンクスの目を眩ませた。一瞬、目を瞑って、目線をへ戻す。 本当に数年ぶりの再会だった。旅団の活動に巻き込まれた哀れな女、それが初見フィンクスの感想だった。それがどうだ、悪運を引力の如く手中に収めたは、あの事件から今日まで生き延び、こうして呼気を繰り返している。 「めかし込んでどっか行くのか」 「内緒」 答えは即答だった。考える素振りも見せずに、人差し指を一本立て紅い口唇に寄せる。 当時、一度だけ今の素振りをされたことをフィンクスは思い出していた。その時も結局答えは貰えず、だががとても楽しそうにしているのを彼は今でも覚えている。本当に不思議に思ったことだったからか、濃厚な印象なのだ。 「…まだクモの活動してるんだね」 「ああ。死ぬまで辞めるつもりはねぇよ」 「ここは仕事で来たの?」 「いいや、護衛」 フィンクスの背後から呼び声がした。フェイタンとシャルナークだ。どうやら撤収らしい。 「じゃあな。運が良けりゃまた会えんだろ」 2人に向かって歩いてゆくフィンクスの背を見据えるの眸には、どこかで懺悔しているような悲しげなものが漂っていた。 フィンクスは、薄々感付いているのかもしれない。遠くで手を振るシャルナークも、じっとこちらを見ているフェイタンも、の様子に。 赤絨毯が敷かれている廊下では、ブレスレットとルームキーが擦れ合っている音だけが鳴り響いている。高いヒールの音は、絨毯の柔らかさに吸い込まれているようだ。鈍く、埋もれるような音しか発せられない。 とある部屋の前で雑音が消えた。キーと受態が合致し、禁断のドアが開かれる。ドアノブを回すと、部屋の奥には一人の男が窓辺にて夜景を静観していた。 半自動的にドアが閉められ、同時に駆けた音がする。抱きつきたい衝動を理性で押し止め、は懐中に突っ込んでいる腕を掴んで振り向かせると、すんなりとその身体は表を向いた。たった今、名前を呼ぼうとしていた人物。 「来たか」 クロロだ。やはりクロロ=ルシルフルだった。 数年ぶりの再会だというのにクロロは無表情のまま、初めの第一声を吐いた。それに連鎖するように、の眉間に力が入る。言い訳か、声を出そうとしたが何も出ては来なかった。 「いや、ようこそと言うべきか?」 「クロロ、わたしは…」 「なぜだ。オレは、あの時戻れと言ったはずだ」 「わたしは、ただ…」 「こちら側に身を置いたことは、まぁいい。それが君の選んだ道ならばな。ただ、意味が分からないんだ」 息を吸い込んで名前を紡ごうとしていた欠片は、呼ばれるはずだった本人の強い口調で遮られる。 「賞金首ハンターになった理由を教えてくれよ」 明らかに怒気を含んでいる口調だった。言葉通り、今にも殺すといわんばかりの殺気と、いつの間にか掴まれていた手首が鬱血していた。の白い手の甲には青い血管が浮き上がり、それを証明している。 「なに、なんでそんなに余裕がないの? こっちの言い分は聞いてくれないの?」 嘲笑うかのように鼻で笑った態度に、クロロは更に血が上ったのか、けれども口許には笑みを浮かべ、掴んでいた手で彼女を引っ張り上げる。 だが数秒後、ふ、と意味深な笑みを浮かべてから開放した。は、赤く熟れた手首を摩る。 「…ハンターなんて、なりたくてなったわけじゃない」 「何を言ってる。現に、君はハンターだろ」 「……わたしを殺す?」 「念を覚えて間もない君がオレを殺れるとは考えられないけど…そうだな」 まるで値踏みするように黒瑠璃の双眸は、の身体を目線だけで上下に滑らせた。それから目を細め、開口する。 「可能性があるなら潰す事にこしたことはない、か…」 死の予感が、ぞわりとの背を這った。だが殺気は刹那にして消え失せ、クロロは鼻で笑う。夜景が彼を呼んでいるのか、再度クロロは背を向けてしまった。 この世界は甘くない、そう言われているような気がした。 「会いたかった」 が夜景を遮るかのように視界に入った。決意を込めた、昔の名残がある顔立ちがクロロの目に飛び込んで来、哀愁も怒気も兼ね備えた表情が背景にある夜景をより一層印象深くする。戸惑い、震えている紅い口唇が揺れた。 「ハンターにでもならなければ、クロロに遇えないじゃない」 は俯いた。その様子を見下ろしていたクロロは、やがて目前を手のひらで遮断する。指の隙間から辛うじて見えるのは、カーテンレールと花柄の天井だ。 出会い、別れ。数日にも満たない2人の季節は、クロロが仕事完了と共に逃亡することで幕を下ろした。何とでもない仕事のはずだった。ただ予想外のことが数多に生まれ、それを打破できたのは唐突に念能力の目覚めた一般人であるだった。 2人の別れは、クロロがの家の窓辺から進入し、言葉なく体を抱き寄せた、呆気ない終わり方だった。 念能力を盗むか、連れ去るか、殺すかの選択があったが、クロロはに凡人の道を誘導させた。前者は発動条件が本人すら分からなかったため、盗ることは出来なかったのだ。 しかし根本にあるものは、念に目覚めたからといって一般人である女を囲うことは足枷に他ならない。既に団長という立場をに見られた。どんな言い訳も効かない。流星街との世界での考え方も違う。融通が利かなくなるのは考えるまでもなかったのだ。 手に入れたい願いと恋情とは、果たして同一なのだろうか。クロロの中では、否だ。そもそも、恋情とは、人間の欲とは、まずそこから順を追ってクロロ自身が解き明かさなければならない。 だからこそ手放した。返戻は至極簡単だった。 あの日、クロロの胸に芽吹いたのは「オレと出会う前の、あの無邪気な笑顔が散るのを見たくも下すことも出来なかった。とんだ甘ちゃんになったものだ」己を嘲笑うことでしか慰められない日々は、澱み捲かれる渦だ。 その渦に一滴の蜜を加えたのは、シャルナークが偶然ハンターサイトでの名前を見つけてしまったからだ。後に裏を取ると、真実の既知だった。 一滴、甘美が注ぎ込まれた。そして、なぜと結局は渦を早めるものとなったのだった。 クロロにとって日時とルームナンバーが示してある紙を届けさせた時は、こうして口論するためではなかった。昔の想いを掘り起こす気はなかった。悲しませるために呼び出したわけではない。清算するためだったというのに――全ては、誤算だ。 「……会うだけなら、もっと他の方法はあったはずだ」 「世界中を飛び回ってるクロロを、どうして見つけたらいいの」 それはまるで砂浜で砂金を見極めろと言っているのと同義だ。 「ふ…そういえば君は、突飛的な行動しか取らなかったな」 呟きながら、ゆっくりと手を貌から下ろし、目の前の細腰へと向ける。がなすままに黙っていると、引き寄せられた。 あの日と変わらない抱き方で今度は言葉を繋いだのはある意味、進歩かもしれない。 「あの時、ハンターにさせるために別れたわけじゃない」 クロロがの頭に頬を摺り寄せると、背に手が回った。何も言わない、あの日のクロロのようだった。 ガチャン ドアが閉められた音がすると、支えられていた腕がなくなった身体が崩れ落ちる。大きな双眸には絶景が映し出されているが、には見えていなかった。ホテルからの帰路、あの暗い道をクロロが歩いているのかもしれない。 クロロがこの部屋にいる時、涙を抑えることに必死だったが、耐え切れずは一粒の涙を落とした。逢えただけでも嬉しいのに、逢った後はどうしてこんなにも寂しさが巡るのだろう。そんなものは当たり前だ。クロロは、ここにいない。 ふわり 一つの黒影が振り返る。だがやはり、その姿はから見れば何も見えない。街灯を避けて歩んでいたクロロは手を翳し、手を振るかのようにホテルの窓を撫でた。否、を撫でた。泣いているだろう、見えない涙を拭うクロロの優しさだった。 白い息を吐くと、粉雪が降って来る。涙など感傷的なものは今流すべきものでもないし、情緒など無稽。舞う雪は、涙の代わりにクロロの頬を濡らした。の分でもあった。それから振り返ることなく、クロロは歩き出す。 「おい」 ふらふらとした足取りでロビーを歩いていたに声をかけたのは、先ほど別れを告げたばかりのフィンクスだった。「泣いてんのかよ」と話しかけてくるフィンクスに、は無理矢理に笑って見せると、やはりもう一度泣いてしまった。 「うぜぇな。泣くなよ」 「……ごめん、なさい」 果たしてそれは、ハンターになってしまったクロロへの謝罪だろうか。それともクロロに遇いたいというふしだらな理由だろうか。今、フィンクスの前で女の武器を流したせいか。 もはや、どれでもいい。ハンターになると啖呵を切ったあの日から、見えない謝罪ばかりが付きまとうのは覚悟の上だった。肉親にも友人にも、団員にも――クロロにも。 『ハンターにさせるために、別れたわけじゃない』 先ほどのクロロの声が過ぎった。 「でも、別れるために出会ったんじゃない…」 では何のために? とが誰かに問われても答えられない。一つ反論するのなら、その問い自体が間違っている。それらを模索するのは、これからだ。 次が、もしも次があったのなら再度あの選択肢が、クロロの脳内に並べられることだろう。念能力を盗むか、連れ去るか、殺るか。 更にIFを重ねた時、第4の選択肢があるのかもしれない。 全ては、旅の途中。今は、目前にある路を歩くしかない。悲涼を感じたら振り返り、大人と称されたら立ち止まり、そして遇えるまで歩けばいい。今、二人が向かう路は違っても同様の結末だ。未来だ。 Blue vortex |
(20170408)