※10話~11話の間に起きたお話です(クロロ視点)


 時刻は昼の十二時になろうとしていた。
 オレはソファに身を沈めながら、片手には本を、目線はなぞるように羅列された文字を追う。かの国の経済が、なぜ急成長を遂げたのか詳細に記されたこの本は、いわゆる経済学の分類に入る。
 著者は、オレたちがいる街よりも遥かに遠い場所にある大学教授だった。納得というよりも、もはやこういった見方もあると教えられている気分だ。
 一つの意見として取り入れながら一点に集中していると、キッチンから女性には些か品位の欠ける声がした。特に気に掛けることもなく黙々と読んでいると、ついには名前を呼ばれたが、それでもオレは本から目を離さない。二度目の名前を呼ばれ、ようやく声を上げた。
「なんだ」
 ページを捲りながら答えると、つかつかと足音が近づいてきた。背後から本を抜き取られる。「だから…――」
「オーブンが動かないの」
 真横から、ひょっこり現れた彼女は、不機嫌そうに言った。その面貌は、眉をひそめ、少し口を尖らせている。
 彼女は、表情がころころと変わるが、これは友人関係になった後に知ったことだ。この辺については、ま…割愛しよう。
「二度押しでもすればいいんじゃないか」
「それ解凍」
「オーブンのボタンがあるだろ」
「押したけど余熱が出来ないの」
「余熱? そういえばオーブンモードは使ったことないな……何に使うんだ?」 
 彼女は、目を見開いて最終的にはオレの頬を思いっきり抓った。思い切りの良さは嫌いじゃないが、こういった場面で使うのはどうかと思う。
「コーンブレットが食べたいって言ったのは誰でしたっけ?」

 結局、オレが適当に弄るとオーブンは機嫌良く余熱を始めた。隣で軽く拍手した人物も「ありがとう」と言って機嫌は上々。先ほどの不機嫌は吹き飛び、今度はパウンドケーキの型にバターを塗っている。
「何か手伝うことは」
「え? 今更それ言う?」
「…"友人"として当然だろ」
 コーンブリッツの封を切ったあと眉を顰めて言われた。ここでオレは、自分の言い放った言葉のこの言動原理は、どこから来るのだろうと考えた。言葉では友人を建前として言っているに過ぎないと、自分の言葉に怪訝したのだ。
 答えは刹那にして回路を巡り、オレに帰結する。これは友人としてではなく、エプロン姿の彼女に感化されたのだと。人はこれを影響という。
 今日の彼女は仕事着とは違う、Aラインのワンピースの上に嫌味のない花柄をあしらった自前のエプロンを装着していた。髪も横にまとめて、うなじが丸見えである。
「クロロ」
「ん?」
 じっとうなじを見ていたのがバレたのだろうか。唐突に名前を呼ばれ、視点は彼女の手元に移す。
「退いて、ちょっと邪魔」
 ああそうだ。お前は、そういう奴だ。

 人生において、初めて邪魔者扱いされたオレは、元のソファに戻り、放置していた本を再度開いた。暫くすると手際よく包丁がまな板を叩く音、ベーコンを焼く音に乗って仄かにニンニクの匂いがした。この仮宿にて初の情景である。
 今日は、この間食べたカルボナーラが忘れられなくて彼女に頼んだのが切っ掛けだった。決して上質な材料を使ったものではないが、舌に残るあれをもう一度食べたいと素直に思った。あと、コーンブレッドも。
 基本的に、オレは他人を部屋には入れさせない。社員は別として、昔の女も数える程度しか足を踏み入れさせなかった。理由なんてものを聞かれても到底困る。
 では、なぜ友人関係を結んだ夜、彼女を家に招いたのか――この辺についても色々とネタバレになるので割愛しよう。
「クロロ、ビール飲むの?」
 そこへ、キッチンからビールという単語が聞こえてきたため、オレは即座に開口いた。「いや、いい」
 夜に車を使いたいからだと付け加えたかったが、今言う必要はないため、それ以上は黙した。
「そう?」
 彼女の返答は、室内の壁に吸い込まれてゆく。すると、オーブンから機械的な音が鳴った。コーンブレッドが焼きあがったのだろう。
「もう食えるのか」
「まだ。粗熱を取らないと」
「パスタは?」
「もう少ししたら茹でるよ。だって、コーンブレッドと一緒に食べたいでしょ?」
 そうだな、と小さく相槌を打つと、なぜか、ばりばりと謎の音が聞こえてきたのだった。
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 その後、ダイニングテーブルでオレたちは向かい合わせに座っている。ばりばりと聞こえていた音は、どうやらサラダに添えてあるレタスのようだ。
 カルボナーラとコーンブレッド、それにサラダも加えて、ようやくオレはランチにありつけた。朝はコーヒーしか飲まなかったため、食欲に拍車がかかる。
「いただきます」
 目前の彼女は、律儀に一言そう言ってサラダから食べ始めた。オレはというと、フォークでパスタを巻き口に含む。確かに、この味だ。まだ温かさの残るコーンブレッドをちぎる。
 以前、どこかのランチでコーンブレッドを食べたことがあるが、それとはいくばくか味が違うと思った。決して、不味いわけではなく。
「どう? コーンブレッド、うまく焼けてる?」
「ああ。朝食にいいだろうな」
「残りは完全に熱が取れたらタッパーかラップで密封して冷蔵庫に保存すれば一週間は持つよ。でも、なるべく早く食べてね」
「案外、保存が利くものなんだな」
 他愛ない会話をしている最中、ぼそぼとした――貶しているわけではなく――舌触りを楽しみながらオレは一人納得していた。恐らく、否きっとこれが家庭の味なのだ。
 どんな高級ホテルで味わうものよりも、また食べたいと思える意思を、動機を起こさせる。これが手料理というものなんだろう。
「…笑ってる?」
 なぜか問われた疑問に、オレも疑問を持つ。笑うとは、どういうことだ。オレは、笑ったつもりはない。「なんで?」
「口角がすごかったよ」
 どこまでだ、と思ったが彼女が愉快そうに笑っていたため、オレはそれをパスタと共に飲み込んだ。
「ねぇ、美味しいって……受け取ってもいいの?」
 ああ、そういえば、オレは一切その言葉を口にしていなかったことに気付く。彼女は恐る恐ると聞いてきたため、気にしていたのだろう。オレは、小さく笑みを浮かべる。
「……ああ、美味い」
 緩やかで穏やかな時間。正直、レストランの料理には負けるが十分にうまい食事。日差しがリビングに降り注いでいる室内は、彼女一人いるだけで、心なしか光が増した気がする。この流れるような時間は、有意義で片付けるには惜しい。
「久々、贅沢な時間を過ごしたよ」
 この後、お礼としてディナーにでも誘おう。そのために、お楽しみのビールはお預けしたのだ。まだ、もう少しこの時間を延長するのも悪くはない。
「ところでエビチリは作れるか?」
「エビチリ? 中華は自信ないな」
「エビチリが食べたいんだけど」
「食べに行く?」
「いや……じゃ今度作るか。手伝えよ」
「ええー…」

 彼女は、いつの間にかオレの中で数多に生まれる難題を消散し、魚が当然の如く水面に飛び込むよう、するりと心の隙間を埋める。何ら不思議さがなかった。嫌味などなく、これは恐らく思惑や下心といった感情がないからだろう。なるほど友人とは便利でいて、態のいい言葉だ。
 せっかく結んだ友人だ。オレは心底、この友を、関係を、大事にしてやろうと思った。



「――と、いう休日を過ごしたわけだが何か問題でもあるのか、シャル」
 翌日、ランチの目前に社長室を訪れたのはシャルナークだった。なぜか開口一番に、昨日彼女といたことを指摘されたため、簡易的ではあるが事の顛末を伝えた。
 淡々と起きた出来事を言っただけだというに、途中シャルナークの顔は歪み、今は、どこか呆れたような表情だ。
 オレは、「どうした」と返答を促した。シャルナークは、なぜか咳払いをひとつ。
「社長……」
「言いたいことがあるなら言えよ。今この部屋にはオレとお前の二人だけだ。他の社員がいるわけじゃない」
 だから、遠慮なく迅速にはっきりと言え。
 頬杖をついて、言葉を待つ。シャルナークは一度目線を泳がせた後、なぜか笑いながら言った。

「ふたりって付き合ってんの?」
 付き合うってなんだ。

(シャルは皆の代弁者)
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(20161111)

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