クロロは一度仕事を終えると、団員だろうが誰だろうが行き先を告げることなく行方を眩ます。仕事とプライベートをきっちりと線引きし、またパーソナルスペースも設けている。
 ここで一時ではあるが団長という肩書きが外され、ようやくクロロ=ルシルフルに成るのだ。その日もクロロは仮宿で一人、本の虫だった。

 ――至急連絡をください。

 コルトピからの連絡を受けたのは深夜。クロロは起きていたが、本に夢中だったため、気づいたのは朝方、ベッドに腰を下ろしたときだった。
 めずらしいな、と思ったのがクロロにとって率直な感想だった。幾つかの仮説を立て、思案する。誰かに操られているのか、ヒソカに脅されているか。はたまた、真実か。
 クロロが返信したのはその日の午後、起床して直ぐの事だった。

 何度か連絡のやり取りを経て、コルトピがクロロの元に来たのは既に夜の10時を回っていた。コルトピは無言のまま、クロロが座っている長ソファに近づくと、そっと横に座った。クロロは本から目を逸らすことなく問うた。
「どうした、コル。お前からこういう連絡をするのは、めずらしいな」
 コルトピは、じっとクロロを見据えた後、近場にあったテーブルの上からリモコンを取った。チャンネルを次々に変えている。
「…お前はメールで"言わない"んじゃなくて"言えない"と送ってきたな。それが今の行動と何か関係あるのか」
「団長、今日のニュース見た?」
 コルトピはクロロからの質問には何も答えず、毎度の調子で聞いた。本当に、まるで何事もないように――しかし、それはどこかマリオネットのような不整合さがあった。
「…いや、まただ」
 ここでリモコンのボタンを押し続けていた手が止まった。女性アナウンサーが無表情でテレビ画面に映っている。ニュース番組だった。本日、これから世界中で起きた事件が報道される。
 番組は始まって直ぐに、今日一番の事件をキャスターが淡々と告げていった。コルトピは、何かを待っているように、食い入る様に見つめている。
 その様子にクロロもまた、持っていた本を放り投げてテレビ画面を眺めた。恐らく今は何を詰問しても無駄なのだろうと悟ったのだ。

 ――程なくして、その事件は流れた。まるで些細な事件のように、路地裏で起きた事件は、短絡な内容を並べられると容易に次の事件に移り変わる。
 ここでテレビの電源は切られた。クロロが切ったのだ。
「……コル、お前はこれに関与してるのか」
 コルトピは純粋な眼で、もう一度クロロを見据えた。その眸には絶対的な何かを伝えたがっていた。
 クロロは組んだ両手を握り締めると、更に強固する。その双手は白い。
が死んだのか、そうか…」
 やがて緩んだ手を、だらりと地に指して目線を落とす。無表情のまま再度「そうか」と呟いた。
 しかし、抜け殻のような顔付きになったかと思えば、今度は口許を手のひらで覆い思考に潜り込む。団長のペルソナを被っているようで、間違いなくその面貌はクロロ=ルシルフル本人だった。クロロは一個人として、己のためだけに脳内をフル回転している。
 誰のためでもない。クロロが生きる中で、ここが自分に戻れる瞬間なのかもしれない。
「…が死んだから、また11番は欠番」
「! …………そうだな」
 クロロの口許が三日月に模られる。
「もう、はクモじゃないよね?」
「ああ。安心したか、コル」
「うん」
「……お前はの念能力によってオレに何か言えない命令をされているな。そしてお前の足…これはのルージュの跡だ。足に塗られたということは、"逃げろ"もしくは"行け"……つまり、その場から離れることをお願いされている」
 コルトピはの念によって頷くことも返事をすることも出来ない。
 除念師がいたのなら、簡単に取り除かれるだろう。の命令は、クラピカの念ほど根深くない。コルトピは、クロロが自分の状況を見て把握すると信頼を寄せていた。そして、見事にクロロは髄を当てている。
「メール内容と今の会話で察するに、が何者かによってクモを抜けなければならない状況に陥ったというのが妥当だ。もし自身が抜けたいなら、こういった小細工をするような奴じゃない。つまり、は操られているか、何か危害を加えられている可能性が高い。そしては……死んでいない…! ――そうだろう?」
「……」
「あの死体はフェイク。お前がここにいることが何よりの証だ」
 クロロは、この上なく歓喜した。死んだと報道された画面が出てきたときは、心の臓が融解し、刹那に無くなったと思った。
 だが、コルトピの会話、メール、そして態度で憶測を真実にする。は生きている――。
「団長」
「どうした」
「あともう少し待って。除念したらすぐに言うから」
「OK」
 ソファから飛び降りたコルトピは、この部屋に入って来た時のような、陰気な雰囲気はなかった。足取りは軽く、まるでスキップでもしてしまいそうだ。
 ドアノブに手をかけたところで、振り向いた。その先にいるクロロは、もうコルトピのことなど気に留めることなく熟考の虜だ。
「団長」
「…今度はなんだ」
はまだ、あの本を読み終わってないよ」
 ――だから、返しに来るよ。また、会えるよ。
 これはコルトピなりの激励だろう。
「ああ、そうだろうな」
 ふ、と笑みを零したクロロはソファに身を預けた。

 逃がさない、と告げた。どこまで行っても離すつもりも無い。例え距離が遠かろうが、そんなものクロロにとって些細だ。
 生きてさえ居れば会える。死ねば、死後にまた会える。どこまで行っても、どこまでも捕まえに行くことが出来る。
 なぜならクロロは――蜘蛛、だからだ。




 ――甘怠い軟禁だな、とは思った。
 彼女が今居るのは、まるで礼拝堂のように純麗な場所だった。ここが、あのビルに隠されている部屋など、一体誰が思うだろう。
 この一室に窓はあるものの、そこは鉄格子で括られていた。僅かな月明かりが、その隙間から何層も部屋を照らしている。それが今宵、唯一の光だった。
 最奥には緋の目と鮮やかな生花が飾られている。数日前、初めては、この部屋に踏み入れた。そして、この造りや祭壇を見て悟る――ここはクラピカの中における、聖域なのだと。
 クラピカは誰一人として、この部屋に一歩も足を踏み入れることは許さない。でさえ、入れたのは最近のことだ。否、入れたとは違う。強制的に入らせられたのだ。

 有限実行。クラピカはを傍に置いた。緋の目の情報集めや、日常で外出するときは必ず組の誰かを同行させた。それ以外は、この場所かクラピカの部屋にいる。
 その度に、は甘いと思った。逃げることは常に可能だった。同行する組員を撒くことも倒すことも、には出来る。
 しかし、それをしないのはクラピカの顔が脳内を横切るからだ。
「……痛っ」
 腰から臀部が疼く。
 あの日、犯人不明のままが死亡したと報道された後、死体は真っ先に同盟しているマフィアからクラピカの元へ輸送された。
 24時間後、それは跡形もなく消失した。もクラピカも、その様子を見届けた。事件は未解決のまま終わりを迎え、闇に葬られたように見せた。
 その直後、蜘蛛の刺青はレーザーで焼かれた。元の状態ほど綺麗にはならないが、クモだということは無くなったのである。
 ここで、に当てた念が消えるかと思ったが、それはなかった。今でも念の鎖が心臓に絡みつき、刃が突き刺さったままだ。まるで、クラピカの思念のように、それは根強く残存している。
「痛むのか」
「…おかえり」
 窓の外を眺めていたの背後からクラピカの気配が出来た。は、「少しだけ」とも答え、腰を摩っていると、その手を絡め取られる。
「医師を呼ぼうか」
「いいよ。何も変わらないもの」
 が振り向くと、微笑を浮かべたクラピカの面貌は月光の下で美々しくも不明瞭に浮かんでいた。金色の髪が光と溶け合い、浮世絵染みた雰囲気がそこにはあった。
 この綺麗な皮を被った嫉妬の化け物は、あの日以来、剥がれていない。クラピカは、彼女が傍にいることで安堵したのか徐々に昔の自分を取り戻しつつあった。

…私には迎える人も、帰る場所も何一つ無い」

 絡められた手が持ち上がると、そこに優しいキスが当てられる。これが本来の尊敬の意を示しているものか、羞恥を隠しているものかには判断できなかった。ただ、手に押し当てられた口唇が予想以上に柔らかく、跳ね付けてしまったのなら、消散してしまいそうなほど儚く思えた。
 目線を地に落としたままで、クラピカがを見ることはなかった。毎度の覇気も眼差しも、秘し隠してしまっているようだ。
「クラピカ…?」
「だからこそ願う。もしも同胞を、緋の目を全て取り戻したら、その時は――」
 まるで懺悔のようだとは思った。
 眉を顰め、ようやく目線を合わせたクラピカは必死にを乞うているようで、恐らく、彼の人生の中で一世一代の告白だろう。

「私にとっての出迎えてくれる女性で、帰るべき場所になって欲しい」

 は何も言えなかった。瞠目した眸が何度か瞬きをし、何か答えようと試みるものの、いっかな声は咽喉を鳴らさない。
 すると、握られていた手が小刻みに震えていることに気付いた。この場で誰よりも沈黙を恐怖に変換しているは、クラピカだけだった。が指先に力を込める。
 その仕草で、クラピカは表情を緩ませた。そして、今まで我慢に我慢を重ねた想いが湧き水のように溢れ出す――今から言う台詞は、想いを止める術をクラピカが手放した瞬間だった。

「……抱きしめてもいいだろうか。嫌なら止めよう」

 断る理由は、どこにもなかった。「いいよ」
「おいで、クラピカ」

「…――――」

 何か、共通語ではない言語がクラピカから発せられる。訳も分からず、しかしその疑問を彼方に追いやって柔らかには微笑んだ。両手を広げれば、すぐさま飛び込まれ、衝撃がの体を振動させるが、その腕は懸命に抱きとめている。
 出会った頃よりも身長が少し伸びたようだ。爪先立ちをしてでも、クラピカには届かない。が手のひらでクラピカの身体を擦ると痩せたようにも思えた。
 痩せて当然だった。常に神経を削り、同胞を集めることしか頭に無かったクラピカだ。未だ二十歳にも成らないこの青年に、一族の復讐は重すぎる。
 クラピカの目的は同胞を集めること、そしてクモを根絶やしにすること。頭をもぎ取っても動き続けるクモを止めるには、全団員の死だ。
 ここで、はようやくクラピカの本当の意図を理解してきた。彼女の脳髄では、それ等が密やかに産声を上げる。
 をクモから外す前に彼女を利用し、一人でも多くのクモを殲滅することが出来たはずだというのに、それをしなかった。
 それをしなかったクラピカは確かに甘かった。には、とても――彼女の哀しむことは、しなかったのだ。

 ――熱がほとばしる。
 が目前にある肩に顎を乗せると、擦り寄る形で更に密着してきた。クラピカの腕に力がこもる。それに応えるよう、背に回している白い両手が、くしゃくしゃになるまでスーツを掴むと逆に掻き抱かれた。ふたり、息が止まる。
 この想いに窒息しそうなのは、一体どちらなのだろう。


 まだ仕事があると言って、クラピカは出て行った。独り置き去りにされたは、持て余している熱を身に抱きながら隅にあるバッグを手に取ると、中から一冊の本を取り出した。それは数ヶ月前、クロロから借りた本そのものだ。挟まれた栞は3分の1程度のところで顔を覗かせていた。
 この物語は、カフェの店員が客として来た影のある男性を徐々に紐解いていくミステリーのような恋物語だ。が読んだページでは、未だふたりの未来は未知数に思えた。恐らくこの状況からラストまで結末は分からないだろう。
 は、追憶に一人笑う。やがて意を決したよう、月光を頼りにラストページを開き、躊躇無く破った。ルージュを具現化させ、それに念を込めて文字を想い描く。そして一心不乱にページを使って何かを折り始めた。

「…少し不恰好かな」
 数分後、の手のひらに乗っているのは、折鶴だった。何年か前、仕事でジャポンの姫から教わったものだ。の言葉通り少し歪んでしまっているが、鶴と認識できる。
 窓辺に手を寄せて、隙間から鶴を放つ。「いってらっしゃい」
「"お願い、あの人に届けて"」
 鶴は鉄格子をすり抜けて外界に飛び出した。真夜中を飛翔する鶴は、目的の人物に辿り着くまで飛んでいく。そういう風に念を込められている。

 鶴の中身は、緋の目の青年への返事か、逆十時を背負う黒影への想いか、はたまた第三の選択か。
 最後のページを削られた赤表紙の結末。もう、その行方を知ることは出来ない。
 また、この物語の結末も今まさに読み終えた貴女しか知り得ないのだ。


‘わたし’は飛翔する
想いを包み、どこまでもゆく

貴女の飛ばした‘わたし’は
これからの物語を紡ぐ

この物語の終焉は
貴女の中で終わりを迎える

さぁ、貴女の行方は何処に存る?



Fin.

(201703015)






Afterword
 最後までお読み頂き、ありがとうございます。
 恐らく大半の方が「これで終わり?」と思われますが、私がこの話を打つにあたり最初に思い描いたのがラストシーンでした。これに至るためにヒロインの念能力やキャストをチョイスして出来上がったのが、0の相殺です。冒頭とラストの鶴が言っているように、この後の展開はHappy・BAD・メリバ…自由に妄想してくださいませ。どうにでもなるように色々な伏線を置きました。
 こういった話を更新した後に時折「管理人の中ではどうなっているのか」と聞かれる事がありますが私がそれを言ってしまうと正解になるような気がして敢えて詳細は語りません。正直言うと5パターンほどの展開があるのですが、どれも正解でいて、どれも不正解なような気がします。

 クラピカに対しては同胞への想いを、クロロに関しては原作を意識して旅団に対しての想いとか詰め込む予定でしたが、中途半端になってしまったのが残念であります。
 題名の0の相殺の意味は、0とラブをかけまして愛が相殺して0になるという意味で付けました。ゲームシステムで例えるなら、クロロもクラピカも好感度が上下して最後はどちらの度数も同一になり、さぁどうするって形です。
 クラピカ優勢なのに対し、中盤以降は怒涛のクロロの追い上げ。念を受けてクラピカの好感度は下がるものの、ラストの告白で同点になるという、打っている最中はまるでひとり競馬の気分でした。ダークホースはリンセンです笑
 個人的にお砂糖を足したので、私的には所々甘くしたつもりです。また、クロロから渡された本は連載中のEMANONをイメージしました。特にこれだという本がなかったもので、ただのお遊びです。

 駆け足で突っ走ってきました。話が穴だらけなのが少し悔やまれますが、これにて完結です。
 冒頭シーンの一つに、私はこの言葉を添えました。「結末は、あなた次第。これを紐解いた後、あなたは何を思い、何を選択するのか“わたし”は楽しみでならない」
 気が向いたときにメルフォにて読み手側様の中でどうなったのか、こっそり教えて頂くと飛んで喜びます! また、お時間がありましたら1話の冒頭シーンを今一度目を通して頂くとラストと繋がるかと思います。
 最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

(20170315/酷な物を生み出してしまったH田)



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