クロロ視点
Act.0
 人間の体は、生まれた直後から羊水の中で培ってきた細胞が刻々と死滅してゆく。必要な分だけ、後の生命を維持するために、ひとつひとつこの身に残り、そして死が訪れるとそれ等もまた消滅を図る。
 これを一人の人生に例えると面白いのかもしれない。オレにとって必要なものは、食料や水は当然のこと、趣味の本、今となってはクモだ。これ以上はキリがないため割愛するが最後に最も重要でいて必要不可欠なもの――オレの半身だ。
 その半身に死が訪れると否応言わず、確実に物理的ではないオレのどこかが消滅を図るだろう。ここでオレはようやく独りを知り、孤独を舐め、また己を得るのだ。しかし、これは半身が死んだ後の妄想であり、願望ではない。死は常に隣人として享受しているが、それを他人に押し付ける術もなく。
 少し、昔話をしようか。

Act.1
 通常、赤子が初めて他者として認識するのは両親らしい。そして物心がつく頃になると、その両親が子供の世界――全て――なのだという。
 しかし、オレにとって自分以外を認識したのは、双子の妹だった。オレたちふたりが互いの環境であり、当然であり、それこそ全てだった。生まれ落ちた時間帯が多少違えど、同日に生まれ同じ時間を過ごしてきた。
 今となっては、どちらが上なのか分からない。ただ性格上か、オレが兄役だ。

 記憶は大分すり減っているが、物心付く頃に言われたのだ。クロロは兄だから妹を守らなければいけないよ、と。
 この口振りからするに流星街の民ではない、流れ者の言葉だったのかもしれない。当時、無垢だったオレは素直に頷き、未だにそれを保持している形だ。オレは、死を迎えるまで妹を守らなければならない。
 オレの与えた食料を口にし、共有するぬくもりで眠り、オレだけの言うことを聞く。オレが育てたと言っても過言ではなかった。オレはオレを育てているのと同義だった。妹はオレの半身なのだ。

 外見は瓜二つだというのに、他人から見るとまるで雰囲気が違うのだという。誰かが太陽と月のようだと比喩した奴がいた。無論、太陽は妹で、オレが月なのだろう。オレたちは、髪色と瞳の色が真逆なのだ。
 本を読みふけるオレとは違い、妹は人懐っこく、天真爛漫で外に出ることを好んだ。時にはオレの手を無理やりに引っ張り、外界に連れ出すその姿に、仕方ないと白旗を上げながら走ったものだ。
 このような時、陽光に溶けてしまいそうな髪を揺らしながら走る後姿を見るのが常だった。このゴミ溜め場で唯一の光だった。『お兄ちゃん!』
 しかし「お兄ちゃん」と無邪気に呼んでいた妹は、もういない。14歳の誕生日を少し過ぎたあたりに、妹はオレを名前で呼ぶようになった。
 14にもなると思春期と呼ばれる頃になり、体付きも丸くなり、女特有のものになりつつあった妹。昔は変わらない身長も数年前からオレが妹を見下ろす形になっている。
 クロロ、と名前を呼ばれることに対し、どこか納得いかなかったのは当然だ。オレは最期の時まで兄なのだ。

「クロロ」
 初めて名前で呼ばれた日、空は夕闇に染まりつつあった。オレは瓦礫の上で座っているが、妹はオレを見下ろすように突っ立っている。半分、地に埋まる太陽を遮るかのように立ちすくむ妹の面貌は、逆光であまりよく読み取れないが無表情のように思えた。
 読んでいた本を一瞬にして閉じると、オレは声を張り上げて問うた。
「なんで名前で呼ぶんだ」
「みんな呼んでる。クロロって」
「だから呼ぶの? 随分安易な考えだな」
 皮肉めいた台詞と笑声に続き、更に言葉に込める。「罰ゲームか?」
 ぐ、と握った小さな拳が目前で固く作られた。否定か、反抗か、忸怩の念か。幾つもの憶測が瞬時に過ぎる。
「罰ゲームなんかじゃないよ」
「名前で呼ぶ根拠はなんだ」
「呼びたいから呼ぶの」
「名前を?」
 一寸の間を作ってから妹は、ゆっくりと頷いた。兄妹という間柄の中で自分よりも先に生まれた者に対し、唐突に名前呼びする動機を模索してみるが、オレにとって未知のものだった。オレに兄や姉がいるわけではない。
 兄や姉と呼ぶのは、一種の敬意なのかもしれない。それを前提として考えるならば、妹にとってオレはもう尊敬できる人間ではなくなっているのだろうか。
 親鳥が雛に餌を与えるようなことは、妹が大きくなるにつれ、なくなっていた。昼間は女友達とつるむようになっていた。その環境が、兄と呼ばない妹に変貌してしまったのだろう。
 目線を地に落とす。「……そう」
「夕飯はパク達と食べるからいらない」
「…」
「もう、クロロに頼らなくても大丈夫なの」
 オレは閉じていた本を再度、開いた。どこまで読んだのか、捲りながら去りゆく文字を追う――ああ、本当どこまで読んだ――そんなことを考えていると妹の気配は消えていた。
 ようやく見つけたページを穴が開くほど見据えるが、文章が脳内に入り込む様子はない。
 オレがどんな思いをして妹を育ててきたことか。なぜか、全てにおいて否定された気分だった。オレがいないと生きていけない、そう思わせるほど妹にとってオレは必要だったはずだ。世界だった。半身だろう?
 自問自答している最中、ふとオレではないオレが囁いた。

 ——妹がいなければいけないのは、お前の方だろ?

 その問いの先には、暗黙が這っていた。回答を、問いすらもオレは知らない。得てはいけない気がした。
 本日二度目、本を閉じたオレは、それを思いっきり隣の塵山まで投げてやった。眉間に力を込め、沈みゆく太陽を細めた視界に捕らえる。
 眼球が収縮したように、つんとした痛みが走った。眩しすぎるものは毒だ。早く「沈めよ」

Act.2
「今、なんて言った?」
「何度も言わせないでよ。恥ずかしいんだから」
 そう言って頬を桃色に染めた妹は、組んだ指先を弄ばせてから「好きな人ができたの」と言った。続けて「付き合ってる」と言った。
「彼、物知りで外のことをたくさん教えてくれるの。それで、いつの間にか好きになってた。あたし、まだ流星街を出たことがなかったでしょ? クロロがうるさいから――」
「……」
「クロロ?」
 青天の霹靂である。

 あれから数年して、オレは幻影旅団の頭になっていた。ほぼ同時期に、妹には彼氏と呼ぶ者が出来た。
 14の時よりもませては来たと思っていたが、どうやら恋を知ったことにより、拍車がかかったようだった。
 相手は予想できる。ここ数ヶ月ほど、妹の周りをうろついていた奴だ。シャルの情報で外界から来た野郎ということも知っている。
「ほう…」
「……なに? すっごい意味深に聞こえる」
「いや、別に」
「もう、ここは”おめでとう”って言ってよね」
 文句を言いつつも、妹は花開くように笑った。この笑顔を見て、オレは自分でも驚愕するほど、この感情を言葉として表現することは出来なかった。
 オレの知らない妹が、そこに存在している。
(お前は誰だ――?)
「いつか、流星街から連れ出してくれるんだって」
 オレがその男を殺ったのは、妹がセックスを覚えて間もなくだった。

Act.3
 ――胸部に念が込められた拳が何度も往復している。妹がオレを本気で撲っているのだ。避けることはしなかったが、念のガードは当然した。こんな事で怪我など一体なんのメリットがある。
 一蹴するならば、「くだらない」のだ。一人の男を殺ったくらいで、なぜオレが怪我をしなければならない。だが、妹の感情だけは抱きとめる。それが、現状だ。
「どうして殺したの…!」
 金切り声が酷い。
 妹を見下したオレは眉を顰め、それから溜息を吐いた。理由など数多にあるが、それを言うつもりはない。恐らく、否、結局――妹はオレの理由を理屈として処理し、否定し、受容できないだろう。揚棄は皆無だ。
 あの男と付き合ってから、妹は変わってしまった。オレが植え付けてきた概念が欠落されてゆく。万物が流転するなどという言葉は、ここで使いたくない。
 恋愛というものを経験すると、どうやら相手の影響力は絶大のようだ。生まれてから刷り込みのようにしてきた事柄が、短時間で瓦解し始める。
「黙ってないで答えて!」
 重圧なパンチは、やがて弱弱しく緩やかになり、固くなっていた拳がオレのシャツを掴んでいた。額が胸板に押し付けられる。
「…答えてよ……っ」
 そう言って、妹はオレの胸の中で泣いた。ここ数年、妹が泣くところは見たことがなかった。クモを結成してから、オレが多忙で流星街にいなかったこともある。
「…オレが死んだらどうしてた?」
 涙でぐしゃぐしゃの面貌が表を向く。「なん…て…?」
「オレが死んだらどうしてたか聞いてるんだ」
 冷徹な言い回しに見えるが、これは真実のひとつだ。
 あの男は、オレを殺そうとした。妹が誰よりも優先するオレに嫉妬し、独占力の塊となってオレに刃を向けてきた。最期、悔しそうでいて諦めた表情を今でも思い出せる。
 あの瞬間、オレは優越感を得たのだ。
 もしかしたら、あの男も妹と恋愛したことにより、豹変してしまった被害者なのかもしれない。
「イヤだ……どうして今そんなこと聞くの? クロロまで死んだら、あたし…」
 大きな双眸から、まだ涙が溜め込まれた。涙の道筋が導くように、またその路をまかり通る。
「生きればいい…オレの分も背負って。心臓が動く限りな」
「ううん、無理。きっと呼吸の仕方を忘れちゃう」
 男の口振りから薄々感じてはいたものの、ここで確信を得たオレは、知らずの内に口許を弓形に撓らせた。男は言ったのだ。『誰よりも兄を優先する、その兄であるお前が憎い』
 瓦解したものは、まだ積み重ねればいい。
 オレは、懐中に突っ込んでいた両手を取り出すと妹を引き寄せた。戸惑ったようにオレの名前を呼んだ声がしたが構いやしない。
 腕の中に、すっぽりと収まってしまった身体は、まるでオレに抱きしめられるためだけに生まれてきたようだった。自惚れでもなんでも、そう感じてしまった。
 くぐもった声が、胸に響く。「嫌い」
「クロロなんて大嫌い」
「本当に嫌なら突き放せよ」
「あたしの大好きだった人を殺したクロロが、憎い」
「一生憎めばいいんじゃないか? 出来るならな。オレは全てを受容してやる」
 どん、と念の込められていない拳が左胸を叩いた。
「そういうこと言うから完璧に憎めないんじゃない…! クロロが兄だから、あたしの兄なんだから……」
 悪態を吐きながら妹は再度、声をあげて泣いた。オレの腰にしがみ付き、離れることを許さない必死さがあった。目線を下げ「そうか」と呟いたオレは、片方の手を妹の後頭部に置いて更に力を込める。
 兄なんだから――その後に続く言葉をオレは知っている。これはいわゆる一つの言い訳であり、全てに帰結する魔法の言葉だ。この言葉さえあれば片付けてしまえる、なんと狡猾で簡略的。
 "兄だから"「憎むことは出来ない」ということだろう?
 憎悪も愛情も手中に収めた瞬間だった。

Act.4
 あの日を境に、妹はまた生まれ変わりを果たした。殻を突き破った雛が成鳥になるように、それは確実なる成長だった。誰であっても経験を経てレベルアップする。ここで重要なのは、その経験を踏まえ、どう生かし、次にどう繋げるかだ。
 経験を知識として捉えよう。果たして、会得した妹だけの知識をどう解釈してこれからを選択するのか。

「もう、好きな人は作らない。出来たとしても付き合わない」
「なんだ、突然…付き合いたいなら付き合えよ」
 ベッドのスプリングが戦慄いた。オレたちは、壊れかけのベッドを分け合って座っていた。オレは本を、妹はペティキュアを塗っている。
 くるくると蓋を回して、最後には漏れないよう閉じた。それから妹は折り曲げていた足を伸ばし、出来具合を確かめている。
「だって付き合ってもクロロに殺されるもの」
「……簡単には殺らないよ」
「本当?」
「簡単には。…だから100%じゃないな」
 背中に愛おしい体重が圧し掛かってきた。言うまでもなく、オレの――。
「やっぱり作らない」
「殺られたとしても、また作ればいいだろ」
「あたしは彼氏が欲しくて言ったんじゃないの」
 では、どう言った意味で――? と聞こうとしたが止めた。なぜならオレたちは分かり合えない。双子だとしても、半身だとしても、別け放たれて個々に存在している別物だ。
 ただ予測は可能である。恐らく妹は、死によって分かつことを恐怖として捉えている。体が朽ちるともう会えないと、昔ぼやいていた。
 死んだからとて、なぜもう会えないと思うのだろう。死後は皆、平等。どこかで邂逅を果たせる機会があるかもしれない。この肉体では叶わないが、また別の形に成って――これはオレの願望なのか、はたまた死後の世界を思ってか、判別は否に難しい。なぜならオレは、まだ死を経験していないからだ。
 唐突に、声のトーンを落として妹はオレの名前を呼んだ。「…ねぇ、クロロ」
「そろそろ名前で呼ぶのはやめろよ」
 確かにオレはクロロだ。クロロ=ルシルフルであり、しかし、この背に愛しい重みを抱えている兄なのだ。
「もう他人ごっこは満足しただろ」
「……」
 首に両腕が巻き付けられた。背後から妹がオレを包んでいる。背中に胸が当たっているが、気づかないふりをしよう。
「そんなに、お兄ちゃんて呼ばれたい?」
「オレは兄だからな」
「あたしにとっては、そんなに拘ることじゃないんだけど」
「オレにとっては些細じゃないんだ」

 オレは、オレたちは兄妹だ。天地がひっくり返ろうとも、変わることがない間柄だ。
 もしも、もしもオレたちが他人であったら、オレはここまで”この人間”を大切には思わなかっただろう。オレは兄だからこそ共存し、当然に空気を吸うが如く隣に置く。
 だが、これはIFの話だ。それはあり得ないのだから、結局のところ妹がオレの世界の土台を作っている。

「なぁ、オレは前から壮大な計画があるんだ」
「なに?」
 首を傾げて、オレを覗き込んだ面貌が近距離にある。妹の方を向けば、それはあまりにも兄妹にしては近すぎて、しかしながらオレたちにとっては当然の距離だった。
 口唇が、あと数センチで重なり合いそうだ。が、特にこれと言って性欲が沸くわけではない。これは、遺伝子がそうさせるのだというが、どうやら本当だ。オレは、妹に性欲は沸かない。
 だからこそ、この壮大な野望がある。
「早く孕めよ。相手は誰でもいいから」
「は?」
「そしたらオレも、適当な女に孕ませる」
「…うん?」
「で、その子供たちに子供を作らせよう。そうしたら、その子はオレたちの子だ」
「なんでそんなこと思いつくの?」
 ついでに「頭おかしいんじゃないの」と付け加えられ、オレは声を上げて笑った。この計画は実に合理的で倫理観を覆すことはなく――そもそもオレに一般と言われる倫理観などあるのか?――言うならばオレたちの集合体だ。
 オレたちの血を宿した子供がようやく、ひとつに成る。これ以上のものはないだろう。
「なんで、か……そうだな…」
 顎に手を当て、妹を見る。半身は、オレの答えを待っている。
「もしかしたら、オレは還りたいのかもしれない」
「どこに?」
 ふ、と笑うと肩に力が込められた。妹の手が、オレを逃がさないと言わんばかりに、しがみ付いている。
 (――いかないよ、どこにも。妹という存在を置いて、死が訪れるまで)
「……腹の中に。もう一度、ふたりの世界に生きたいんだ」
 一寸の間があった。妹は何か考えているのか、固まって動けそうにない。
 やがて背後からオレの前に移動すると、再度オレを抱きしめた。オレの視界は、妹の鎖骨とフローラルな匂いに包まれていた。
「3回だけ」
「…………ん?」
「あと、3回だけ”お兄ちゃん”て呼ぶ権利をあげるね」
「その3回が過ぎたら?」
「もう呼ばないよ」
「……」
 どうしたのだろう。今までの会話で何か妹を困惑させることがあっただろうか。そう思わせる何かを背負わせてしまったのだろうか。
 ただ、恐らくこれは妹なりの譲歩という慰めであり、オレが今一番に願っていることの他なかった。
「呼んで」
「…お兄ちゃん」
「もう一度」
「お兄ちゃん」
「もう一度」
「……もう、1回しかないけど」
「いいんだ。呼んで」
「――…お兄ちゃん」
 数年ぶりに実感する。奮い立たせる。オレは兄でいる限り、全力で妹を愛してしまうのだろう。故に、この身に包まれているぬくものは死ぬまで忘却できそうにない。

 どうしてくれる。
 どうやらオレは、冷たいようであるから、無機質であるようだから、本当の自分など手探りであるから人の体温は、物理的でしか感じられなかった。石ころのように数多にいる女たちが言ったのだ。冷たいのね、無機質みたい、本当の感情はどこなの。そんなものオレが知りたい。指先に感じるものは、温度計で表示される数値のみだ。
 それがどうだ。このか細い両腕は、皮膚だけではなく精神的にオレに訴えかけてきている。これは双子だからか、ただひたすらに、あたたかいのだ。
 どうしてくれる?
 自分を知ることを、こんなにも恐怖として持ち得たことはなかった。なぜ、なぜだろうか。このぬくもりが恐ろしくてたまらないのだ。ならばと、ここで完璧なるアンサーが脳裏に浮かんだ。簡単なことだ。
 もしも、このぬくもりが一生味わえなくなったのなら、オレはもう一度生まれればいい――妹と共に。

Act.5
 この到達点デスティネーションこそ、オレたちにふさわしい閉幕ラストシーンだ。

Act.6
「完全に反抗期だったよね」
 缶ビールを片手に隣にいるシャルナークは、けらけらと笑いながらそんなことを発した。だろうな、と微かに呟く。
 他人から言われると確信が色濃くオレの記憶を灼いた。14を過ぎたあの頃から二十歳に至る今まで、妹は成長の過程で大半が通る道を渡ったわけだ。
 今更の場景だ。なのになぜオレはこうしてシャルナークと妹のことについて話しているのだろうと考えて、これは映画でいうエンドロールだ。もう反抗期を終える妹の、そしてそれを納得した証明なのだ。

 滞在中のアジトは街中から離れた幽霊屋敷と呼ばれている一軒家だ。周囲には鬱蒼とした木が生い茂り、もはや存在は忘れ去られていることだろう。まさしく、幻影だったように。
 オレたちは世界各地に点在しているアジトの一部屋で、祝福のアルコールを呷っている。今回の仕事はシャルナーク一人いれば十分だったため、随分と久々に二人きりだ。幻影旅団を結成してから、皆各々と自由に動いていることもあり、あまりこういった機会はなかった。また、オレは大抵、仕事の最中は団員二人を傍に置くのも要因の一つだ。
「2人で飲むの、久しぶりだね」
「そうだな」
「昔から団長の傍にはいつもがいたしさ」
「反抗期に入ってからそれはなくなっただろ」
「そうかな? なんだかんだで電話したり、呼んだりしてたよ」
 ああ、そういえばと。一人納得したオレは、ふいに笑いを込める。流星街にいたとしても、外界に出たとしても、ほぼ毎日妹とは電話をしていた。用事がなくても、もはや存在確認のためのようだった。たかが10秒、妹の声が聞ければ満足していた。それは、今も変わっていない。
 何年か前、誰かが――確かフィンクスあたりが――オレのことをシスコン呼ばわりしていたことを思い出した。その言葉に怒りを覚えたのは他の誰でもない、妹の方だった。あれもまた、反抗期の一つだったのかもしれない。
 クロロはシスコンなんかじゃない。否定に否定を重ねた、水掛論を繰り広げていたことを思い出す。
「団長」
「ん?」
「口許、緩んでるよ」
「……そうか」
 言って、口角を更に上げたオレにシャルナークは「これだから」と言って前髪をかき分けた。
「団長って妹のことになると人が変わるよね」
 至極簡単に否定はしなかった。「そうかもな」
「ふーん」
 曖昧な余韻を残して、シャルナークはそれ以上、黙り込んでしまった。めずらしく歯切れの悪い様子に不思議と思ったが、オレは模索することなく、ビールを咽喉に流し込む。シャルナークもシャルナークなりの考えがあるのだろう。

「じゃあさ…クモと妹、どっちを優先する?」
 やがてシャルナークがようやく紡いだ言葉は、シャルナーク一個人ではなく、純粋に団員としての、否、もしかしたら全団員の心の奥底に根深くあった杭だったのかもしれなかった。酷く渋面に、しかしながらエメラルドの双眸は、痛いほど純朴だった。
 オレは毒気を抜かれたように、ただひたすらシャルナークの疑問を脳内でリフレインさせている。クモと妹、どちらも必要不可欠だ。
「…なるほどな」
 ふ、と笑いを転がしてしまった。答えなど、当にあるのだ。
「それは、お前が…いや、お前たちが懸念していたことか?」
「……少し、ね」
 飲干してしまった缶を目前にあるテーブルに置き、溜息とは別物の息を一つ置いた。ソファの下に隠されたスプリングが戦慄く。さて、どう説明してやろう。
 オレは両手を組み、やがて目線は木目のテーブルに注ぐ。シャルナークは、マイペースにオレの返答を待っている。
「――決まってる」
 オレと妹との関係性について、どうやら何か誤解をされているようだ。

「クモだ。オレが団長をしている限り、当然クモを取る」 

 横目でエメラルドを見据えながら言えば、その眸は少し驚いたように見開き、しかし矛盾を孕んだ歪みを持ってオレを見た。それはどこか、哀愁も兼ね備えている何かだった。
「安心したか? いや、意外だったかと聞くべきか」
「…なんだ、分かってんじゃん」
 シャルナークは、勘弁したかのように言った。「そ、意外だったよ…その返答は」
 満足気に、オレは口許を撓らせる。
「何か誤解を招いているようだが、オレは旅団にいる限り団長だ。これに私情を持ち込むことはしない。全てを投げ打ってでも、クモをやると決めたことだからな」
「…うん、そうだったね」
「しかし兄でもある。団長の時でも、オレは同時に兄でもあるが、そもそもの根底が違う。もはや団長と兄という役割を天秤にかけること自体、間違っている。
 ……オレはな、シャルナーク。いくら妹と物理的に離れていても、距離を感じたことはまるでないんだ。妹は常に、ここにいる」
 オレは自分の首元を、ゆるりと撫でた。指先に脈打つ鼓動は、体が現世にいる、つまり生きていることを指しているわけだが、それだけではない。
 この体に流れている血が、細胞が、妹がここにいることを指しているのだ。
 誇らし気に言った。「あいつはオレの半身だ」
「例えお互いが死んだとしても、互いのどちらかがこの世にいる限り、現世に在り続ける。そして、もう一度ふたりで生まれたいと願う。それがオレたちだ」
 気が付くとシャルナークは黙殺したまま、オレの言葉に聞き入っていた。オレの論したことを理解するかどうかは不明だが、これらは間違いようがない真実だ。
 では、ふたり共々死を迎えたらを考えて見る。答えはパスタにフォークを使うが如く安易で、当然だった。
 オレたちの霊魂は、交じり合う。肉体的なものに縛られることなく、オレたちはようやくここで、全てに繋がるのだ。
「しかし”ここにいる”と認識はしているが、ご覧の通り今も妹にコールしたい気分なんだ」
 懐中に潜んでいたケータイを取り出した。電源を付け、誰からも連絡がないか確認しているように見えて実際は妹からの連絡を待ち望んでいる。
「ここで矛盾が生じていると思わないか?」
「…団長が生きている限り、離れていてもがここにいると分かっていても、コールするし、会いにも行く」
「そうだ。近くにいたら会いたいし、距離があったらせめて声を聞きたいと思う。人間とは、欲張りだよな」
 己の欠片を拾っているように見せかけて、今オレは人間が欲深き生物だということを改めて感慨深く頷いた。
 すると、見計らったかのように妹から連絡がきた。チョコレートが食べたい、とブランド名まで書いてある。オレは苦笑し、「分かった」とただ一言打って送信した。
から?」
「ああ、チョコレートが食べたいんだそうだ」
 ケータイをテーブルに放り投げて、咽喉で笑っているとシャルナークは呆れたような声を上げた。
「…よくわかったよ、団長。つまり惚気だってことが」
「なんとでも言えよ」
 隣には先ほどまでの陰影さはなく、晴れやかに笑うシャルナークの姿があった。それから缶ビールを、もう一本突きつけて渡してくる。受け取れば、缶は人肌よりも少し低い程度に上昇していた。
「…ぬるいな」
「団長の惚気が長いからだよ」
 爽快な音を鳴らしてプルタブを開けたシャルナークは、オレが待っている缶に自分の物をぶつけて「乾杯」と言った。明らかに上機嫌だ。
 安堵したのだろう。恐らく、クモにとって妹は目の上のたん瘤だった。好感や人物としてではなく、存在が怖いのだ。オレを、ただの兄にしてしまう妹が目障りでいて、恐怖でしかない。それは、オレが一番よく理解している。
「シャル」
「なに?」
「聞き流してくれても構わない」
 プルタブを開けて、ぬるくなったビールを呷った。不味い。
 別格、酔いの勢いで吐露するわけではない。
「オレの弱点は、妹だ」
 瞼を閉じて、暗闇の中に朦朧と浮かんだ妹を想う。
 コールをすると、億劫そうでも返答の声は心地よく、わがままメールですら歓喜が、この無体温の中で沸き起こる。直に会えば、世界がオレの思い通りに色彩が音を立てて拡大する。妹の周りだけが、別世界なのだ。オレの帰る場所は、妹の在る場所だ。
(と、思いながらも)
 団長という立場になってからというもの、兄という役割は旅団を動かす上での障害に他ならなかった。仕事の最中は、妹という存在を遮断しなければならない。しなければならないのだ。
 オレはどこかで妹という存在を否定していた。それは身が引き裂かれる想い同等だった。
「…………妹だけには弱いんだ」
 本当に聞き流したのか、返答がない代わりにシャルナークは盗ってきたカプレーゼを今更のようにテーブルに置いた。
 モッツァレラチーズとトマトを一緒に摘まんで口に入れた。バジルはプラスチックの皿に置いてきてしまった。エンドロールが終わりを告げようとしていた。
「…知ってるよ。何年ふたりを見てきたと思ってるんだ」
 皿にはFinという斜体文字が描かれている。

Act.7
 なあ、シャルナーク。
 そのエメラルドグリーンを通したオレたちは、ハッピーエンドに見えるか?

Act.∞
 あれから5年以上の月日が流れた。
 妹はホテルの一室にあるベッドで、背を丸めこんで睡眠を貪っていた。既に二十歳を超えたというのに、寝顔だけは幼さが残っている。
 そ、と顔にかかっている髪を梳くと小さく声が聞こえた。起きたのかと思ったが、どうやら違うらしい。未だ夢の住人のままだ。
 ベッドが少し揺らいだと同時に、身じろいだ体からシーツがずれる。それを無造作に直し、オレは、ゆっくりとベッドに腰かけた。そして、そのまま体を横たわらせると、目前には半身の顔が近距離にあった。
 普段は何も感じないが、まるで鏡を見ているような錯覚。オレとよく見た面貌は、街をふたりで歩く度に兄妹だと見抜かれる。
 オレの半身。この身が朽ちてもオレがいた存在証明は、この半身が生きている限りあり続ける。それはまるで永久に燃え続ける火焔のように。

 あれから「お兄ちゃん」と呼ばれていない。
 あの時の抱擁が、あの凝縮された刹那がオレたちの全てだったのだ。
 後悔のないよう全力で生きている。団長を勤めている。兄を務めている。
「……
 早く目を覚まして、少し遅い、おはようの挨拶が欲しい。その些細なひとつひとつが幸福なのだ。
 この後、数日もすればヨークシンで、でかい仕事がある。その前に、ただの兄でありたい。
「…ん」
「おはよう」
 妹にとってオレは親であり、兄であり、さながら恋人のような存在なのだろう。あれから恋人が出来た話は聞かない。オレにとっても、それは同様。仕事がないときは、こうして共にいる。食事もショッピングも、娯楽も全て妹と為す。妹さえいれば、事足りるのだ。
 世の中、男と女しかいないと誰かが言った。その言葉の裏側には欲情が潜んでいるはずだが、今のオレには何てことない世界のように思える。オレにとって世界とは幼少期から変わらぬ、抽象的に言えば妹とオレだけの世界だ。

 何年の月日が流れようとも、互いに寄り道し、破棄するものがあろうとも、オレたちは不変だった。

「……手、出して」
「…どうしたの」
 寝起きも拍車がかかり、妹は、ぼんやりとしたままオレに問いかけてきたが、願い通り手を差し出してきた。オレは細く、無垢を持つ手を握ると自分の心臓へと導いた。
 定期的に打つオレの心臓はいつからか"死"というものを隣人にしてしまい、足早に脈打つことを殺した。今はただ、生きるための脈動を奏でている臓器だ。
「オレは生きている。生きているよな」
「…ま、死んではないよね」
 欠伸を噛締めながら言われた言葉にオレは苦笑すると、そのまま手を引っ張り上げて身体を密着させた。抱き寄せたという甘い行為ではない。当然、抗議の声が飛んでくるが聞かないふりをする。
 ベッドの上で寝そべりながら重なり合うオレたち。記憶の底にあるはずだ。オレたちは生まれる前からこうしていたと。「存在意義だ」
 10年ほど前までは、ずっと、ひとつになりたいとばかり思っていたが近年、少しばかり考えが移り変わった。まるで色とりどりを巡る四季のように、それは眩くオレの背を押した。
 オレたちは、元々ひとつだった。生まれたときから同一の父母から受け継いだこの血が、この世にこれ以上のものなどなかったのだ。
 どんなに縁切りをしようとも、この血を全て入れ替えたとしても逃れられない。離れられない。
 オレは、の兄でいることを何よりも尊く思う。
「また考え事…?」
のことを想っていることが考え事というなら、それは正解だな」
「……なーんだ、いつものことじゃん」
(――ああ、花だ)
 覚えたての恋を知った、あの頃の微笑が今度はオレに向けて咲く。オレは、これを接受するため今ここにいる。
 今後これからも、この胸の中で咲く花はオレだけのために笑う。

(And they went on eternal)そうしてふたりは永遠になりました

(20170727~0803)

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