上着の一部を二度引くとYES、一度でNO――これを取り決めたのは誰でもない。何重にも時間を共有してきたふたりだけの空気、その刹那のアウェアネス。

 ――恋をした。途方もなく、往く当てもない恋をした。


「ジン、もう少しゆっくり歩いて」
「んな引っ張んな」
 この遺跡に入るのは二度目の事だった。暗黙の中、懐中電灯の光を頼りに、ジンとは突き進んでいた。一筋の道しるべは、ジンの手許によって忙しなく左右に揺られている。
 ジンが踏みしめた足跡と、逞しい背中。そして親指と人差し指で摘まんだ上着の一部が、この暗がりの中での全てだった。ふたりは、僅かな見落としの可能性として、遺跡の再調査に来ているのだ。
 他の仲間は後から合流する。足手纏いだとジンはを蔑んだが仲間の一人が”ある意味ジンが心配”だということで連れて行くことになった。
 が、実のところジンの言う通り、はようやく念が開花したばかりで”凝”や”絶”が精一杯のため、足手纏いというジンの判断は正しい。加え、”発”を得るには時間を要するだろう、という見解がある。
 この時、ジンは二十代前半。は十代半ばに差し掛かったばかりだった。既にハンターとして功績を残し、後によう様な意味合いを含め、有名人となるジンは着実に最高のハンターとして――無意識ではあるが――階段を駆け上がっていた。未だ十代のは、今回の件に関わっている重大さに気付くことはなく、彼への偉大さも理解できぬままだった。ため口なのは、これに起因する。
「歩くの速いんだって」
「うるせーな。とにかく凝を切らすなよ」
「師匠でもないくせに」
「そこ、段差あるぜ」
 可憐とは言い難い声を上げ、寸のところでは転倒を免れた。誰のせいだと大声で言ってしまいたい衝動に駆られたが、見上げる形で目前の背に睥睨しただけに止める。
 その様子を察したジンが、ついに痺れを切らした。
「な~ん~だ~よ! あー、わかったわかった。もう少しゆっくり歩きゃいーんだろ!」
 つんつんと二度、上着が引っ張られる無言の返答。

 親子ではない。子供では近過ぎ、きょうだいにしては他人行事。ましてや恋人など言うものなら、ジンの両手首は当の昔にお縄だ。
 出会いは遺跡調査の仲間が、念が使える人材としてを連れて来たのが発端だった。あれから何度も邂逅を繰り返し、ジンは欲しくもない名声を、は大人の女性として成長を遂げていった。
 ジン=フリークスという男を知る度に、は好奇心を抱いた。それは身体と共に、すくすくと成長すると興味本位として産声を上げ、両手に抱えきれないまでに膨れ上がってしまった。抱き潰せるほど柔いが、酷く過重だ。名も無きこの感情を塞き止める術など、幼き彼女は持ち合わせていない。
 無名の感情。その証拠品をは大切にしていた。共に出向いた出国手続きの紙切れ、遺跡へ続く景色の写真、ジンと発見した希少動物の羽――他者にとってはガラクタや屑と呼ばれても仕方ない物ばかりだが、どれもこれも皆、ジンとの想い出の欠片だった。誰にも触れられたくない、と独占欲が我が物顔での心を支配している。後に、そこからの念能力が飛来したのかもしれない。
 には癖があった。大切な物たちをクローゼットの奥地、吊っている洋服をかき分けた先にあるキャビネットに想い出の品々を仕舞っているのだ。否、隠匿している。
 大切な欠片たちが十を超えた頃、くじら島を訪れようと決心したのは、彼女が二十歳直前のことだった。

 §

 陽光を一身に浴び、海面が無作為に踊っている。遥か果てでは、厚塗りの積雲が地平線から伸び、高く高く綿雲を積み重ねていた。天気は快晴。雲間から抜けるような青さがを見下ろしている――ここは、くじら島。
 漁港のコンクリートを撫でつける波が、寄せては引くを反復している様子を眺めること三十秒、はしゃがみこんでいた体制を立ちなおし、地べたでへたれていたバッグを持った。
 日に数回しか出港しない。めぼしい観光もなければ、人口も極端に少ない。大自然に愛された漁師の島だと聞いてはいたが、ここまで田舎と思っていなかった、というのがの実直な感想だった。
 しかし、くじら島がどうあれ目的は何一つ変わりない。ジンの故郷、生まれ育った島を見たかった。更なる願意として、とある男の子を一目でも見ることが最終目的だ。
 ジンに子供がいると耳にしたのは、G・Iを制作した一人の男からだった。うっかり口を滑らせたようで、「オレが言ったことは絶対に内緒な」と焦燥しながら無理強いしてきた男。あの様子から、相当プライベート事だとも悟る。放浪者であるジンと毎日一緒にいることはないが、年月だけは重ねてきた。信頼されている、仲間だという認識はにもあったが、この案件はジンの口からへ語られることはなかった。
 幾ら成長したとはいえ、やはりジンからすればは子供のままなのだろう。身長も伸び、胸も膨らんだ。メイクも覚え、性格も昔のような我儘も減った。ジンの口から事実を言われなかったショック故の衝動というには、今回の件は些か理由が希薄だ。
 男の暴露は起爆剤とはなったが、シンプルに惹かれたのが要因だろう。ジンは人として魅力的だ。蠱惑を具現化したような人間、それがジン=フリークスだ。も異性というより人間として、あの男のルーツを模索したかった大勢の中の一人に過ぎない。
「とりあえず、ご飯食べてから考えようかな」
 独り言は潮風に攫われていく。
 眩さに眸を細めながら、は歩を進めた。一歩一歩と、いつかの日、ジンも同じように此処を歩いたのだろうという想像に浸りながら。

 腹ごしらえを済まし、飲食店を後にしたの両脚は軽やかだ。市場に行くか、奥地に行くか悩んだが結局は赴くままに歩いている。川沿いの街並みを歩いていくと、徐々に建物が疎らになっていった。
 ここで引き返すかどうか、またもやは岐路に立つが、呑気にしていられない。三日以内には、くじら島を出て行く予定なのだ。この後、念の修行も待っている。
 一度、止めた足を前進させたは、時折すれ違う島民と会話しながら、くじら島の探索を始めた。
 出会いは必然とやってくる。とゴンが出会ったのは、翌日の夕刻だった。

 くじら島はバスの本数も少なければ、車すらあまり見ない。というのも、獣道が多く、大半が整備されていない地だ。故に徒歩で山越えし、集落に辿り着いたの身なりは、酷いものだった。
 さすがのも一人きりの野宿には堪えたようで、早々に宿屋を探し始めた。
「すみません、このあたりに宿はありますか?」
 通りかかった老婆に問うと、案外あっさりと宿屋は見つかった。この集落は、大抵の店は揃っているようだが、宿屋は一つしかないようだった。
 親切に教えてもらった道を手探りのまま歩いていく。所々、家の煙突や窓から夕飯の香ばしい匂いがの鼻先を掠めていった。この世界に充溢する、ただいまというありきたりの挨拶、子供たちの笑声、帰路へと急ぐ足音。
 穏やかなる朗々――ジンは、この地で育ったのだ。
「あ」
 が大きく息を吸い込んだ途端、何やら急加速で迫りくるものがあった。反射的に手を伸ばすと、手元に吸い付いたのは真っ赤に色付いた林檎だった。一つのみならず、二つ三つと近づいてくる林檎を、は慌てて拾い上げた。
「す、すみません」
 どこからか飛んできた幼子の声に、地面に貼り付いていた目線を上げたの双眸には、小さな女の子が立っていた。お使いか何か、手には籠を携えていた。
「大丈夫? あと何か足りないものはない?」
 少女の視線に合わせるよう、は両膝を折って声をかけた。外界の人間はめずらしいのか、慣れない様子で少女は小さく頷く。は安堵の微笑みを向けると、林檎を少女に渡した。
 だが、小さな両の手が塞がっていることに気付く。察したが、「ごめんね」と一声かけてから林檎を籠に詰めてみるがはみ出てしまった。林檎が転がってくるはずだ。この現状に不憫を覚えたのだろう。
「おうち、近く?」
「…うん」
「一緒に行こうか? カゴに詰めれないし」
 少女は戸惑いながらも再度、素直に頷いた。もまた頷くと、歩き出すために腰を上げた――時だった。
「ノウコー!」
 今度は、少年の声が飛んでくる。ほぼ同時、二人が振り向くとそこには黒髪の少年が少し驚いた様子で、こちらに駆けて来た。
 ツンと天を面する黒髪、夕陽に照らされた茶褐色の双眸は燦然としていた。幼いながらも眸の奥に、意思の強さを感じる。口軽の男から聞いた情報によれば、ジンの子供は六、七歳には成長しているという。何もかもが合点する。
「お姉さんがノウコを助けてくれたんだね」
「助けたって程じゃないけど、ね」
「ノウコがこぼしちゃったリンゴ、拾ってくれたんでしょ? ありがとう!」
「…どういたしまして」
 これが、とゴンの出会いだった。同時に、背徳のはじまりでもあった。

 翌日の昼過ぎ、は森の中で独り頭を抱えていた。
 一目見たいだけだったというのにゴンと出会った後、少しの欲が出た。この子と、もう少し話がしたいと。だが再度、会ってジンの事を言うつもりはない。家庭内事情に首を突っ込むほど野暮ではないからだ。
 ノウコを送り届けてからゴンも家まで送るという名目で居場所を掴めたのはいいが、まさか翌日に会いに行くのもいかがなものかと、こうして頭を抱えているのである。数メートル先では、ジンの生家があるというのに。
「ミトさん、手伝うよ」
 そこへ元気の声が飛んできた。は、しゃがんでいた体制のまま、恐る恐ると草木に隠れながらも窺うと、洗濯籠を両手に抱えて歩いているゴンがいる。すぐ後ろでは、ミトさんと呼ばれた女性が「ありがと」と微笑んでいた。
 一瞬、は女性がジンの何者かと思考を巡らせたが、それは瞬く間に消散される。ゴンは、女性を名前で、しかも”さん”付けで呼んでいた。母親なら確実に違和感を抱く呼称だ。つまりは親族の可能性が高い。
 あれこれと思案していると手際よく女性の手伝いをこなしている姿が眸に映った。小学生に上がったばかりだろうか、小さいながらも懸命に動いている。
 波打つ白いシーツ、小さなTシャツに靴下、エプロンが二枚――仕合わせの象徴に見えた。こののどかな環境でジンも過ごしてきたのだろう。
さん、おはよう!」
 不意打ちにも程あった。
「さっきから、かくれんぼでもしてるの?」
 遠くから放たれた声は、確実にの名前を呼んだ。しかも、さっきからという台詞によれば、ゴンは初めから分かっていたようだった。の背に、冷や汗がまかり通る。
「み、道に迷って…」
 草木から顔を出し、咄嗟に答えたものは何とも安っぽい嘘だった。

 ミトさんと呼ばれていた女性に挨拶をし、不審者の疑念を拭ったところで、ようやくは安堵した。しかも、アフタヌーンティーまでご馳走されるという、予想以上の展開だ。通された部屋はダイニングのようで、ミトが紅茶の準備をしている。
 舞い込んだチャンスを逃すはずはない。は、不躾と思いつつも周囲を見渡し、ジンの気配を探った。
「――(あ)」
 音にすらならない声を吐息で殺す。やはりあったのだ。ジンの欠片が、ここに。
 生活感に溢れたダイニングにチェストが置かれている。その上には花瓶に挿している花々やオブジェ、そして一枚の写真が飾られていた。
 その写真に写っている人物こそ、まごう事なきジンだ。単車と青空を背景に、あの憎まれ口を叩く口唇を僅かに撓らせ、こちらを向いていた。今よりも、またが初めてジンと出会った頃よりも若い。
「その写真の人、オレの親父。もう死んだみたいだけど」
「え?」
 あまりにも凝視してしまったからか、が何かを聞き出す前に、ゴンから暴露してきた。
「事故だったんだって」
「…ごめんね」
「ううん、いいんだ。親父のことはなんにも覚えてないし」
「そうなの?」
「うん。それよりもさんのことも教えてよ! オレ、くじら島を出たことがないから外の世界を知りたいんだ」
 沈痛な面持ちをしたを気遣ったのだろう。ゴンは、会話を切り替えると、早く早くとダイニングチェアに案内した。そして向かい合わせに座ると、質問を投げかけてくる。
 純粋で正直、人の痛みを感知できる子供。ジンの子供とは思えない程、真っ直ぐに育っている。無論、ゴンの隣で微笑むミトという女性と後に合流したジンの祖母のお陰だろう。この環境が今のゴンを育てた。
 は、妙な安堵を覚えると同時に、胸に置かれた針を何と呼ぶべきか、その名前を探していた。鋭利なその針は、何れ刃に成りうると仄かな予感を残存させたまま、談笑は続く。

「夕飯までご馳走になって、すみません。ありがとうございました」
 玄関先で頭を垂れたに対し、ミトは「いいのよ」と笑顔で答えた。その横では、ゴンが上目遣いでを見ている。どこか哀愁が漂ってはいるが、別れを覚悟しているようだ。
「明日、帰っちゃうんだよね?」
「…うん」
 影を落としたのはゴンよりもの方が色濃い。だからなのだろうか。
 努めて明るい声だった。「ゴンくん、お誕生日はいつ?」
「五月五日だけど、どうして?」
「また来ていいかな? 今度はプレゼントを持って」
 出会って間もない人間に誕生日を祝われるのは不可思議と思うだろうか――幾つもの可能性をは脳内に正立させた。
 は素直にゴンと話したいと思った。会話を通して窺えるジンへの気持ちもそうだが、それをなくしてもゴンに好感を持てたというのが本音である。
 出来ることならジンの生存、多少あれだが尊敬の念を伝えたい所だが、からそれは出来ない。逆にジンにゴンの事を伝えることは出来るが、それはジンが望んでいるとは限らない。
 様々な思いが交差する中、ゴンの返答を待っていた。彼は瞠目していたが、やがて笑顔で頷く。「うん!」
「待ってるね! オレ、さんのこと待ってるから」


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(20180902)

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