ゴンとの約束を皮切りに、は有言実行を果たす。釣りが好きだというゴンにルアーを、最近訪れた某国のお土産を――心地よい憂悶と共にゴンの誕生日を祝うため、くじら島に出向いた。 その間、無論ジンとは会っていたが、くじら島に訪れたこともゴンと会ったこともは一度も口にしなかった。理由は彼女でも分からなかったが、今ではないと女の勘が働いたのかもしれない。 なぜかその度に秘し隠した思いの先には、クローゼットの奥にあるキャビネットが浮揚と散逸を繰り返していた。この疑問をが咀嚼するのは、少し先の未来だ。 § 二十歳を超え、あれから数年してからも、はゴンへのプレゼントを毎年欠かさず贈り続けていた。 陽春。この時期になると、必然とプレゼントを考えるのは、もはや通常となっていた。今年は何を贈ろうか考えている最中、ジンに言われた。 「なにニヤニヤしてんだよ。気味悪ィな…男でも出来たか」 「してないし、彼氏なんていないよ。セクハラもいい加減にして」 まさか、「あなたの息子の事を考えてる」など言えるはずもなく、は目前にある荒野に視線を持って行くと、砂が混在した風を身に受けた。咄嗟に被っていた帽子を押さえながら思うのは虚無だ。グレージュの世界は、ただひたすらにむなしさが込み上げる。 「色気付きやがって」 「…どこが?」 ジンが何を指しているのか、初めは分からなかった。不思議に思いながらも、帽子に乗せていた両手を外すとジンの目線が何かを追っていることに気付く。眉を顰めたもまた、視線の先を追うと、それは己が身の指先であった。 几帳面なまでに切られている爪は、発掘や遺跡調査で爪先に砂が入らないようにしている配慮だ。均等に整えられた長い爪に憧れは抱くが、優先されるものは仕事。だが、やはりも女だ。両手の末端には、スカーレット色が塗られている。白魚のような美しい指先に、それはよく映えていた。 「ねェ、ジン。わたし、もう二十歳超えたんだけど?」 「それがなんだよ」 「出会った時みたいな子供じゃないんだからね」 「オレから見たら、まだまだヒヨコに決まってんだろ」 ジンと同じ二十代――ピンキリではあるが――に乗ったのはいいが、到底追いつけない。追いつけど追いつけど、更に遠くなる背中に焦燥感が加速する。 なぜならフリークス親子と時間を共にし、気付いてしまったのだ。胸に置かれた針は鋭利な刃へと蔓延う闇黒――背徳の贄は、自身だった。 ジンに子供がいるということは、大半の確率で彼が女性と性行為をしたという事。ゴンの存在が、ゴンのひとつひとつに、は無性に嫉妬したのだ。ゴンの存在を否定しているわけでもなく、悪いわけではない。そこに行き着くまでのプロセスに、痛恨の念が嘲笑う。 女っ気もなく、がさつでモテる要素は見当たらないのにも関わらず、出会う前には事後であった。が無性別に近しい時、地球のどこかでジンは他の女性とハグをし、キスをして行為に及んだ。 ――なぜ、あの頃わたしは子供だったんだろう。 暗然たる思いは、終局を知らない。 ――もっと早く出会っていたら、全てが違っていたのだろうか。 誰にも知られることなく、無垢な笑みを貼り付け、この世に産み落とされた時間軸を呪った。例え早く生まれたとしても、ジンとの未来が約束されている訳ではないというのに、彼女は全てを理由にしてしまいたかった。 ジンが女性としてを見ていないことは、彼女自身、至極理解している。空回る四肢、宙ぶらりんの心、果て無き渇望。全てに嫌悪した時もあった。大きく成り過ぎているのだ。 卑しくも浅ましい、醜悪な感情を育てるには、立派な苗床をは持っている――人間という器皿だ。 欲望は尽きない。 純朴な振りをして問うた。「どうしたら隣に並べるの?」 無意識の内に弄っていた爪先が、かちりと音を立てる。 「ジンは、ずっとわたしのことを子ども扱いしてるけど、それがすごく嫌」 の片方の手が、ジンの上着を引っ張っていた。いつもより強く、意志の強さに比例しているように見える。 数秒、ジンは口をへの字に曲げ、を見下ろしていたが最終的にはいつも通りだ。 「オレの隣に並ぶなんざ百年はえーわ。オメーはオレの後ろをうろちょろしてりゃいーんだよ」 そう言いながら、の両頬を片手で抑え込んだ。女性に向けるにはあまりにも酷い仕打ちだった。の面貌は縦に潰れてしまっている。 ジンの手を振り払ったは、以前から影で言われ続けている事に啖呵を切って暴露した。「嫌だよ!」 「わたしたち、周りからなんて言われてるか知ってる? カルガモ親子だよ?!」 「はァ? どう見てもオレのオプションだろ! どこのどいつだ、一発ぶん殴ってやる」 「怒るとこそこじゃないからね! つか、オプションってなに? わたしジンの選択式特典なの??」 握ったこぶしがジンの腹部に命中するが、本人は蚊に刺された程度のようで大木のように微動だにしない。鉄板を殴打しているような感覚に陥ったの方が逆に痛そうだ。 衣類を剥がせば鋼鉄のように、そして雄々しい肉体があることをは知っている。以前、大雨に見合われ、羞恥もなく颯爽と半裸になったジンを見たことがあるからだ。 手の甲の熱は、そこから来ている――そう思うだけで、まるで自分が痴女のように思えて来たは、頬を赤らめた。先ほどの感傷はどこへやら、今はジンの体のことで頭はいっぱいだ。 「なに赤くなってんだよ」 「…なってない」 ジンが真っ赤に熟れた頬を摘まむ。「あっつ」 「ガキは体温たけーな」 一人の男性に十年近く一筋で、男を知らない初心と純潔を兼ね備えた乙女は、やはりジンにとってはヒヨコなのだ。 「ガキじゃない…!」 鼻で笑ったジンは、喚くを置き去りにして颯と歩き始めた。 触れられた頬をは手のひらで覆う。鈍痛と熱が甘い余韻を残し、彼女を放してくれそうにない。「…ジンのばか」 § くじら島に上陸する度、辛苦を舐めている――この苦しみに気付いたのは、ゴンにプレゼントを渡すこと通算、四回目の事だった。 目の前で歓喜しているゴンは「ありがとう!」と元気よくお礼を述べている。場所はゴンの部屋、信用を得たは太陽のように笑うゴンの笑顔に、なぜか釘付けとなっていた。今更、二人でいることに違和感など感じたことはない。 「さん」 「な、なに? ゴンくん」 「元気ないね。具合、悪いの?」 「…ううん、そんなこと――」 誤魔化そう、と思いよりも早く口唇は否定したがゴンがそれを見破っていた。「さん。オレ、はじめからずっと不思議に思ってたことがあるんだ」 「どうしてオレに会いに来てくれるの?」 天真爛漫だが確信に切り込む、その真っ直ぐさは誰かを連想させるには、十分な材料だった。ゴンは確実に、ジンの子供だ。 「…ゴンくんと、もっと話したいって思ったから――だけじゃ納得しない?」 「うん…ちょっと、ね。オレ、親父のこと知ってるんだ。生きてるんでしょ?」 ゴンにとっては、カイトに出会った以降、初めて吐露した胸の内は、輝きに満ち満ちていた。父親を知りたい、父親の 「最高のハンターだって聞いたよ!」 動揺を隠しきれないは、ゴンの射るような眼差しに誤魔化し出来ないと悟る。ジンと同じ双眸の奥にある、何と皓々たる事だ。 「…誰から聞いたの?」もう限界だと根を上げたのはだった。 「カイトって人。さんのこともカイトから聞いたんだ」 カイトという名前を聞き、は脳内に長身の男を思い浮かべていた。数年前まで、ジンと共にいた帽子を被った男。スラム街でジンに助けられた弟子は、立派なハンターとなり、今もどこかで活躍しているという。 何度か会ったことはあるが、それは本当に短期間だったため、は躊躇しながらも頷いた。 「ジンの弟子ね。帽子を被った、線の細い男でしょ?」 「うん! 親父を探してるって言ってた。それが認めてもらうための最後試験だって」 「あはは ジンらしい試験ね、それ」 なるほど彼らしい、とが笑っていると、ゴンもつられるように笑顔になった。 やはりお見通しなのだ。表面上だけで取り繕っていたとしても、決して楽観的ではない感情がにあることをゴンは感じていた。 「カイトから聞いたけど、さんも教えてよ」 続く景気の良い声は、好奇心に富んでいた。「親父のこと!」 それからは、出会いから今までジンとの想い出話を聞かせた。くじら島に来島した目的も、虚言なく話し続けた。共に出向いた遺跡での出来事、巨獣との戦闘、人が踏み入れることの少ない荒野、そして想い出を取って置きのキャビネットに隠匿していること。 ある程度、話したところで一息つくとは「どうだった?」とゴンに尋ねた。ゴンは、屈折のない笑顔で返した。 「さんは、親父のことが好きなんだね!」 心身、硬直したは思考回路が停止したようだ。何食わぬ顔の無垢な質問――いいや肯定か――はを過去に置き去りにした。 どういった意味での”好き”なのか、は判断できなかったが、何をどう捻じ曲げたところで、このゴン=フリークスの前では無駄なことは承知の上だ。 故の肯定。「…うん、すき」 「――大好きなんだ」 困り眉で、くしゃくしゃの笑顔を作ったは、そう答えたのだった。 「ごめんね…お父さんのことが好きな女が目の前にいるなんて嫌だよね」 「そんなことないよ」 即答は真実か、子供なりの気遣いか。 「…ごめん、ごめんなさい」 ゴンに謝罪したというのに、どこか違和感が払拭できない。 当然だった。謝罪だけでは足りないのだ。出会うべきではなかったと後悔がレギオンのように押し寄せてくるが、全ては後の祭りだ。 ――今日の出来事を、出会いさえ、この子の中で無くなることが出来たのなら。 無意識にあのキャビネットが浮かぶ。自分は忘却したくない、だが相手には消えて欲しいと願う便宜さ。そんな事ができたのなら、どんなにいいだろうとは思う。 すると、の目の前に朧気と何かが浮かび上がって来た。ゴンは不思議そうに名前を呼んでいるが、彼女は無反応のまま、浮遊されているそれを眺め続けている。 ゴンが不可思議に思うのは当然だった。が見据えているのは、念なのだ。 やがて、それはクローゼットの中にある、あの小さなキャビネットに具現化されていった。 ――これに大切な記憶を仕舞えるのなら。 全身に纏っていたオーラが膨れ上がっていく。師匠やジンと共にいて、念を練り上げることだけは真面目にしてきただ。五年以上の月日を経て彼女は、ようやくここで覚醒した。 「……ゴンくん、ありがとう」 「さん?」 「わたしのこと、わたしといた時間全て持ってくね」 具現化したキャビネットの引き出しが開けられる。記憶と思わしきものが吸い込まれるように入っていくと、自動的に引き出しは閉じられた。 眩さに目を瞑っているゴンには微笑むと、光の洪水の中、再度「ごめん」と呟いた。 「…また会おうね」 ミト達に知られることなく、家を出たは見上げた先にある窓に向かい、独り言を吐いた。大空を満たす陽は、失墜の時まで後、数時間かかることだろう。 心とは裏腹に清々しい空が彼女を見下ろしていた。目蓋を閉じると思い出す、夕飯の匂い、林檎、そして眸の輝きも何もかも。初めてくじら島を訪れた日の、真青の空すらもだ。 そう青い――初めてくじら島を訪れたあの日の、青だ。 |
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(20180902)