クロロが待っていた部屋に入ると、部屋の真ん中にはテーブルとカウチソファが鎮座されており、洋館の外観からでも分かるように美しいランプなどのインテリア家具が並べられていた。残念なのは、やはり手入れが届いていないらしく、湿気た臭いが充満している。所々、壁が剥がれている様子から、随分と前に草臥れたようだ。 テーブルの上に設置されていた蝋燭に火が灯された。男の面貌が鮮明と浮かび上がると、は息を呑む。 この美しい皮膚で覆われた男がシャルナークの言うA級首の幻影旅団の団長クロロ=ルシルフル。大きな双眸は黒瑠璃を思い起こす。形貌の良い口唇は「殺る」と簡単に紡ぎ出すあれだ。彼は、闇夜にふさわしい独特の雰囲気を纏っていた。 「さて、お前は自分ではなくシャルに会えと言ったわけだが」 言いながら窓際にいた体は、ゆっくりと歩き出した。もまた、歩み寄りをはかる。1メートル程の間隔を開けて、ふたりは同時に止まった。 「シャルナークはどこにいる?」 「ここにいます」 ここ、と指した場所を見据えるが、男はすぐさま諦めたように答えた。 「……うむ。やはり見えないな」 シャルナークは哀愁を込めた声色で「やっぱりね」と呟いていた。ここで、はなぜ自分だけが視えるのか考えていた。 念というものをシャルナークに教わったとはいえ、修行の類はしていない。念の仕組みを教わっただけで、理解は半分も追いついていないのが現状だ。 先ほどクロロは、階段で躓いたを見て「念を使ってる感じはしない」と言っていた事から、シャルナークの体は、無論のことの念ではない。ただ、のみが視える真実。 「団長さん、ちょっと試してみたいことがあるんですけど」 「クロロだ。団員でない奴に団長と――」 「いいから、手!」 「?」 一線の閃きがを突き動かした。試したことは一度もない。だが、試さずにはやってられない。まるで宝物を見つけたようにの双眸は、この暗がりの部屋で唯一輝いていた。 ほぼ強引にクロロの手を取ったは、大きな手のひらを両手で包み込んだ。未だ幼い頃の記憶が切っ掛けだった。 祖母よりも早くに亡くなった祖父――は一度、祖父の死後に彼と会話をしたことがあった。まるで夢のように朧気で、あれは夢だと長い間片付けて仕舞っていた。 しかし、あれは夢ではないと今なら確信できる。祖母の手を握りながら最後、祖父と確かに会話をしたのだ。 「?」 すう、と息を深長したの隣でシャルナークが不思議そうに見ている。両手が熱を持つ。念が込められてゆく。 一人置き去りにされていたクロロは、ただただ静観していた。その視線は、初めの頃のような狐疑は、どこにもなかった。 クロロは、握られている手に念が這うのを感じていた。徐々にの横から、ぼう、と光が浮かび上がる。それは、やがて人型になり、見慣れた姿が鮮明と蘇った。 「……本当に、そこにいたんだな」 の頭上から次々と歓喜の言葉が降ってくる。 「――シャルナーク」 確実に、クロロはシャルナークと言った。の閃きは、成功したのだ。 「団長……オレが視える?」 「ああ。お前は、ずっとそこにいたんだな」 「オレ、ヒソカに殺られちゃったよ。本当、情けないな」 「いや…オレがあの時、ケータイを届けていれば回避できたのかもしれない」 「団長のせいじゃないよ。大丈夫って言ったのオレだし」 シャルナークが笑うと強固な面貌は、ゆっくりと破顔した。団長としてではなく、クロロ=ルシルフルとして彼は存在していた。 「だから、謝らないでよね。"団長"なんだから」 「……わかってる」 「クロロ」 「…久しぶりに呼んだな」 「オレがいなくても大丈夫だよね」 「ああ。オレの仕事が増えるだけだよ」 「うん。良かった」 一体何に、何が良かったのだろう。クロロは皮肉を込めた言葉を吐いたはずだというのにシャルナークは柔らかに笑っていた。幼い頃から変わらない、 ひゅうひゅうと風穴音が会話をしていた二人の下から響いていた。だ。やはり念を極めていない体に長居は無理のようだ。苦笑したシャルナークは、の肩に手を置くと「もういいよ」と言った。 「で、でも…もっと二人で……話し、たい…でしょ? シャルはもっと、もっと……」 「ということで、が限界らしいからここで」 「そうだな」 「じゃ、またね」 シャルナークが、ひらりとクロロに向けて手を振る。クロロが口許に笑みを宿して答える。「ああ」 「オレたちはクモだ。オレたちは、」 寸の所で、クロロの視界からシャルナークは消えた。瞬く間の再開、思いもよらない会話。会いたい、とシャルナークが言ったにしては、救われたのはどちらだろう、とクロロは考えた。 クロロの下では息切れしているが深呼吸を繰り返している。余程疲れたのだろう。床に座り込み、汗が首筋を伝っている様子から立つ事も儘ならなそうだ。 「大丈夫?」 「ごめん、シャル…わたしにもっと念が出来たら」 しゃがみ込んだシャルナークは、を覗き込む形で心配していた。胸を押さえ、床に視線を落としたまま、会話も辛いだろうがは懸命に声を上げた。 「せっかく会えたのに…もっと、話を……」 「いいんだ、。もう、いいんだ…ほら、見て」 が顔を上げると、穏やかに笑うシャルナーク。そして、シャルナークの体が光に満ち満ちていた。これが何を示唆しているのかは本能で理解した。もう、シャルナークはいってしまうのだ。 「シャル…の体、光って……」 「すごいんだ。心が満たされて、今なら何でも出来そうってくらい清々しい気分なんだ」 「あ……」 伸びてきた手をシャルナークは自分のもので絡め取った。思えば、ふたりは満足に触れることすらしなかった。触れるという行動を必要としなかったからだ。 無体温の大きな手のひらはを、ぐっと立ち上がらせて引き寄せた。胸板に頬を寄せると、一度だけ強く抱きしめられた感覚が全身に伝わるが、それはほんの刹那。次にの目に飛び込んできたのは、至近距離のシャルナークだった。 「オレに話しかけてくれてありがとう。もう一度チャンスをくれて、団長と会わせてくれてありがとう。感謝しても仕切れない」 「…やめて、最後みたいな言い方しないで」 「ほんと、すごいバカだよ君は。オレのために命を覚悟してくれたんだ。何十、何百人も殺してきたオレのためにね」 シャルナークから発せられている光が強くなると同時に、両脚が光の泡に包まれ消散されていく。それは徐々に上へ上へと昇ってくる。 「シャル、わたし…なんて言ったらいいか分からない。分からないくらい、たくさんシャルに言いたいことがあるよ。車の中に残したフィレオフィッシュのこととか、温くなったビールのこととか」 「もっと他にあるだろ。ほんと、君はこんな時でもバカだな」 「3回も言わなくても分かってるよ」 「こういうときは、行かないでとか、また会おうとか言うのがセオリーだよ」 は、どこか納得したように笑って頷き、離れたシャルナーク手をもう一度握り締め、力を込めた。「じゃあ、」 「この手を、離さないで」
シャルナークは困ったような笑みをすると「仕方ないなぁ」と一つ頭を掻いた。 光泡が迫る。辛うじて、繋がれていた双手だけは、宙に浮いていた。 胸から顔へと向かったところで、は悲愴の表情を浮かべ、やがてくしゃくしゃになった顔で呟いた。 「シャル、視界が滲んで何も見えない」 「――それ、単なる涙だよ」 親指で涙を拭う仕草があった。シャルが次々に溢れ出す涙を払っているのだ。薄れゆく声は、近距離にいるの双耳ですら、あまり拾えない。 やがて、の手は空を掴んだ。指の隙間から光が漏れる。 「そういえば本気で好きな子にあげようと思っていた物があるんだ。今もデスクの3番目の引き出しに眠ってる」 「……」 「あげるよ。君は本気で好きな子じゃないけど、本気になってくれた子だから」 「そんなの…貰えないよ……」 「団長のことよろしく。ああ見えても泣き虫なんだ」 が最後に滲んだ世界で見た光景は、あの日の公園で見た、金色の髪をした普通の青年だった。 「シャル! シャルナーク…!」 スパークしたと思えば、周囲は光に溢れていた。光泡をかき寄せるようには手を伸ばして手繰り寄せた。しかし胸から、ふよふよと逃げる光はの腕を掻い潜る形で天に昇ってゆく。全ての光が無くなると室内は正常を取り戻した。 残されたのは、呆然と立ち尽くすと今まで見ていたクロロだけだった。ふたりを繋いでいたシャルナークは、跡形もなく無くなっていた。 沈黙が支配していた世界を壊したのはクロロだった。「シャルは」 「最期になんと言っていた?」 天を仰いでいたが、ゆっくりとクロロに向けた。その顔は涙で濡れている。拭うこともせずは少し途惑いを見せてから言葉を紡いだ。 「……団長のこと、よろしく」 「…」 「ああ見えても泣き虫なんだって」 「そう、か…」 がよくよく見ると、クロロの頬には一筋の涙が流れていた。黒瑪瑙だと称した光の無い双眸から、朝露にも負けないほど美しい雫が、頬を縫う形で再度渉っている。 「泣き虫なんだね」 「…どうかな。なぜ泣いていると問われれば、幾つか思うところがあるけど」 「……シャルの言った通り、あなたは独特な人。そして泣き虫なんだわ」 ようやく頬を手のひらで擦り上げたは、背負っていたリュックからハンカチを取り出し、そっとクロロの頬に当てた。爪先立ちをしなければ届かない、美しい面貌が、ぴくりと反応する。 それは驚愕なのか、反射なのか、他の感情からか。幾つかの想定をしてみたが、は全てだと思った。 「…自分で使えばいいんじゃないか」 「わたしはいい。シャルが拭ってくれたから」 「…」 「あなたの涙を拭ってくれる人は、ここに、わたししかいないから」 フッ、と瞼を閉じてクロロは笑う。「初めてかもしれない」 「感情を共有したのは初めてだよ」 爪先立ちを止め、一歩後ろに下がったは持っていたハンカチを握り締めた。それは仄かに湿っており、流した涙が虚偽ではないことを表現していた。 誰もが慄く幻影旅団――その団長、クロロ=ルシルフルが泣いた。今さらながら、その事実には動揺した。昨日、死を覚悟した程、憂惧の塊とこうして一つの部屋にいるなど奇妙な感動を憶える。 「…………話をしないか」 「え?」 「今は本を読むよりも、ビールを飲むよりも誰かと話したい気分だ」 これはクロロなりの、慰めなのかもしれない。 目許を赤く腫らしたが面食らっていると、クロロは部屋にあったソファに座り出した。どうやらの返答など聞く耳を持つ気はないらしい。彼は、が目前に座り込むのを、鋭利な視線を寄越しながら待っている。 いつかの、シャルナークの言葉が思い出された。あれは飛行船で過ごしていた日々の一ページの中、クロロについて、こう言ったのだ。『無表情の裏で感情を殺しているように見えても、誰よりも哀しみ、喜び、怒りを表す』人だと。シャルナークの言う「よろしく」の意味をどう受け入ればいいのか分からない、のだが。 どこか諦めたかのように、もう一つのソファに腰を下ろしたは、ゆらり揺れる蝋燭の焔を見る。蝋燭と人の命を例えたのは、一体誰だっただろう。 「……泣いた赤鬼、ていうお話…知ってる?」 「いや」 「祖母の国に伝わる童話なんだけど」 傷の舐め合いなど真っ平だ。"過ぎ去る"と書いて"過去"と読む昔話をするには、幾許か躊躇われる。 「この童話、すごく胸に来る物語なの」 「ああ、聞こう」 シャルナークが居なければ出会わなかった出会いだ。いつか、彼の人を時間と共に受容出来るその時が来たら、ふたりで彼について語り合うのも悪くはない。 亡人を哀しむのは、もう少し先でいい。 .
曖昧な記憶を頼りに、ようやく行き着いた家は、何も変わっていないように見えて変化は乏しくもあった。まず、玄関の壁に付いていた機械は無くなっていた。続いてリビングに行くとシャルナークが叩いていたノートパソコンは無く、2階のベッドルームに鎮座していたパソコンと携帯も消えていた。・ 。 . ・. 家具はそのままにも関わらず、機械的なものは一切見当たらないのだ。が出発間際のことを思い返したとしても、シャルナークは何も変わった様子はなかった。ただ、が気づかないだけだった。 恐らくの寝ている間に全て片づけてしまったのだろう。あの時のは、早くここから出ることで精一杯だったのだ。 は、ベッドルームにある、唯一の窓に手をかけた。なかなか開かなかったため、今度は力を込めて押すと埃が舞いながらも、窓はようやく開け放たれる。下を眺めると、子供たちが笑声を上げながら塵山に向けて駆けていた。昔はシャルナークも、ああだったのだろうとは一人笑う。 夕闇がそこまで来ていた。平筆でなぞったような雲は遠くの方で朦朧と在る。橙と青のグラデーションは見事に世界を匿っていた。 幾度も見たこの空の中、たった数日間。同じ空の下に、シャルナークは確かにいた。 「……」 は窓を閉めると、背後にあるデスクへと反転した。右側にある縦に連なった引き出しを上から目線だけで数え、3番目の取っ手を掴んだ。 すぐに開くだろうと思っていた物は、鍵がかかったようにビクともしなかった。しかし鍵穴は無く、試しに2番目の引き出しを引いてみたが、それはすんなりと開いた。 「……からかわれた?」 誰もいないことに、呟きは案外大きい。 ヒントはないか、部屋を一望して考え込む。やがて、デスクに納まっているチェアに座り込み、は長息を吐いた。シャルナークと出会い、これまでを反復してみる。 あの頃と違うのは度胸と肝が据わったこと。無職になり、新たなる職――否、使命に就こうとしていること。宛のない旅のようでも、教えられた念能力があれば、生きてはいけるだろう。 「ねん……」 念、ともう一度口にする。 だれていた身体が飛び上がると、は3番目の取っ手を掴んだ。そして、念を込めると案の定、呆気なく引き出しは口を開いた。 (こんなことも出来るんだ…念って深いな) 歓喜と探求心に揉まれながら中を覗くと、手のひらサイズの四角い箱があった。躊躇なく手に取り、中を確認するとの顔が綻ぶ。 「…シャルって案外ロマンチスト?」 箱の中は、繊細な細工が施された指輪が一つあった。天辺にはエメラルドだろうか、シャルナークと同じ眸の色をした宝石が嵌っている。はそれを手に取ると窓辺から洩れる光に翳した。光彩がの双眸に映る。 「シャル…シャルは本当に約束を守ってくれたんだね」 シャルナークの言う全財産をあげる、を本気にしていた訳ではない。しかし、後日が口座を確認すると、彼女が何度人生をやり直しても敵わない程の大金が振り込まれていた。日時を見る限り、この家に辿りついた夜、シャルナークがノートパソコンを叩いていたあの時だろう。金の大半は税金に搾り取られるだろうが、にとって身に余る金額だった。 血塗られた金は、これから思念救済のために使われる。なんて皮肉だろう。 「ありがとう、シャル。ありがとう」 ――やがて満足したのか指輪をはめることなく、元の箱に戻し、3番目の引き出しの中に仕舞った。 ぱたん、と取っ手を押してはドアに向けて歩き出した。最後、振り向き、部屋を見回す。 シャルナークが座っていたチェア、潜り込んだベッド、哀愁を宿すシャルナークの面貌。瞼を閉じると、何もかも昨日のように甦る。 振り切るように前を向き、ドアノブに手を回すと風もないというのに、髪先が触れた感覚がした。最後の日、車内で髪を掬われたあの感覚に酷似していた。が振り向くと、窓は閉め切ったまま、そして誰もいない。 「……シャル、わたし行くよ」 は笑った。初めて出会ったあの日の彼のように、春の日差しのようだった。あの微笑みの意味を、今なら解る気がしたのだ。 後にが、この部屋に訪れることは一度もなかった。 始まりのないふたりの関係性を何と言おう。 恋ではない、友情でもない。しかし、彼は確かに彼女に感情を持っていた。 これは恐らく、絆や宝物といったうつくしい例えの他言い様がなかった。 彼は確かに、彼女の事を――。 |
Epilogue |
(20160829)