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第一夜 かみさまの涌いた日
=は、果てまで悲運な女だった。 彼女が物心付く前に、両親は大型トラックに激突されて死亡した。駆け落ち同然だった夫妻の子供などに慈悲の手が差し伸べられる事無く、は施設に預けられた。 これが、15年前の出来事である。 後に養子として迎えられた家は冷たく、家族というものを知らないにとって夢見ていた"家族"像はそこで亀裂が生じた。偶像が崩れなかったのは、幼心に未だ見ぬ未来に期待を抱いて居たかったのかもしれない。 世間体もあってか、高校まで行かせて貰ったことに感謝はしていたが、は卒業してすぐに独断で家を出た。 引き取り先の家族が騒ぐはずは無いとは踏んでいる。それを肯定するかのように、一度だけ通った元家は、まるで元通りと言わんばかりに時間を刻んでいた。 玄関を掃除する義母、寡黙な義父は仕事に、表札からはの名前が消えている。 その様子には心底、安堵した。 もしも義両親が捜索願でも出していたら、未だ表札にの名が刻まれていたりでもしたら――家に戻る自分を棄てられないのだ。 "子供"という哀しい性。血のつながりは無くとも繋がっていたいと信じたいばかりに、純粋で直向きに家族愛を欲していた。 義理でも何でも共に、ひとつの家庭で時間を共用していたはずだ。冷めていようが何だろうが、そこにいる確かなものがあの場所には在った。在ったはずだと思いたかった。 の中の一欠けらの情が音を立てて瓦解する。人は1人で生まれ、1人で死ぬ。どこかで聞いた言葉は尤もだと実感した季節。 それは成人にも満たない、18の春だった。 就職と居住の二つを同時に手に入れることは、容易くはなかった。況してやは女だ。危惧の念を抱くのは女として当然用いるべき危機管理能力であり、また1人の人間が生きることに必要不可欠な危機感がの背を寸のところで引いている。 絶望の淵に立たされたを救ったのは、とある女性だった。これまで何一つ幸福を掴み切れないに"神様"は慈悲を下さったのかもしれない。 止むことの無い雨がコンクリートを叩きつける、ここは路地裏。 「ねえ、そこのあんた」 それは、長く綺麗な女性の手だった。幼さの残る手は、救いそのものだった。 の焦点が、差し伸べられている手の更に奥――女性の双眸に絞られる。 互いの目線が合致すると、まずが首を傾げた。 「そう、あんたよ」 の仕草自体が答えだと思ったのか、女性は頷くと続く言葉を紡ぐ。 「――大丈夫?」 は「何が?」と率直に思った。そしてむしろ、心配そうにを覗いてくる貌が不思議で、それに言い返したいと開口した。 「あなたも大丈夫ですか?」 「あたし? どうしてあたしが大丈夫って聞いてるのに、あんたが聞いてくるんだわさ」 「だって、あなた――」 今にも消散してしまいそうな笑顔では答えた。 「わたしを心配そうに見てくるんだもの」 女性の名前はビスケといった。 ビスケは強引にを自宅に連れ帰ると、洗い晒しのタオルと温かいコーヒーを煎れた。 自宅といっても、通常の一軒家ではない。灰ビルを無理矢理に衣食住が出来るよう改造されたビルだ。 入り口の真横にあった看板は役目を失い、一階はエントランスで占められている。続く二階はビスケの仕事場のようで、そこを素通りした場所こそが二人がいる三階の自室だ。 どうやらビスケは一人暮らしのようだ。ビスケ以外、他人の気配がまるで無い。 は質素な椅子に座らされ、ミルクもシュガーも混ぜていないブラックコーヒーを啜る。その目前でビスケは、濡れた髪をタオルで拭き取っていた。水分を吸ったタオルが色濃く跡を残す。 は、視線をカップに落とした。一体、自分は何をしているのだろうと後悔に似た波が心臓を沈溺させようとしている。 そのとき声をかけたのは、やはりビスケだった。「ねえ、あんたさ」 「名前は?」 「……。=です」 は少し躊躇ったが、鮮明と名を口にした。苗字は以前、養子に入る前のものを口走っていた。 ビスケの双眸が、小さくなっているを真正面から捉える。気配を感じてか、は顔を上げて注がれている視線を自分のものとぶつけた。 の眸には、どこにも迷いは無かったようにビスケは悟った。迷いも何も、は迷う道すら無かったように思えたからだ。 「そう、っていうの」 「色々と、ありがとうございました。もう少ししたら、出て行きますから」 「ちょっとお待ち」 精一杯の笑顔を向けたに的確でいて、確信に真実を塗られた問いが投げられた。 「いったい、どこに行くっていうのさ」 「あの、ビスケ…さん?」 首を傾げたの仕草が元に戻る事無く、勢い良く前進してくるビスケは迫り来る軍勢に酷似していた。それほど、近づいてくるビスケには気迫を発していた。 「!」 「は、はい」 両肩を掴み取ったビスケの双手。長い爪がの衣類にめり込んでいる。 は、痛いとは思わなかった。むしろ手に持っていたコーヒーが零れ、指に付いた熱の方が勝っていた。 だが、それよりも気にしたものがある。 今から流れるだろうビスケの台詞は、が生きてきた18年の中で群を抜いた転機なのかもしれない。 「そんな寂しそうな目をして、そんな空っぽの心を持って。行くところがないならここにいればいいでしょ!」 ぽかんと開いたの口は緩めるばかりで――「え、えっと…その……」 大分途惑った後、は、イエスと答えたのだった。 二階の廊下にはドアが二つ並んでいる。一つはビスケが仕事場として使う場所、もう一つは物置として使われていた6畳ほどの小さな部屋だ。 部屋の中は大きな家具が陣取っており、それさえ退かし掃除をすれば十分に住めるところだった。 どうやら家具等は捨てる予定だったらしく、翌日の午後には物置部屋がただのワンルームと化していた。 ビスケのお陰だろうか、部屋には埃ひとつ無かったが、幾つか取り残されたものがある。シングルベッドとソファだ。 「あたしのお古だけど使って」 「いいんですか?」 「どうせ棄てる物だったしね。それに今は棄てるにもお金がかかるのよ。それを思えば得をしたのはあたしの方だわさ」 鰥寡孤独だったの新生活が始まった。 § ビスケの紹介でレストランのアルバイトをするようになった事を皮切りに、多忙と心地良い疲労からか瞬く間に時間が経過していった。 奇妙な同居生活とアルバイトにも慣れ、は束の間の平穏を幸福と読んだ。 本当に束の間だったのだ。 いつもの、アルバイトの帰り道には出会ってしまう。回避しきれない出会いを、これは運命と呼ぶのだろうか。 この出会いが幸福か不幸かは、この時――否、終わりの果てまで誰も知りえなかった。 「――す、けろ」 自宅であるビルの、ガラスドアの前で言われた言葉は抑揚無く、ふたりの間を突き抜けた風によってかき消された。よっての耳は拾えずに、首を傾げる。 「大丈夫ですか?」言いながら、は近づく。どこかで聞いた台詞ではないかとデジャヴを憶えていた。 違和感は一瞬、記憶は柘榴のように弾けた。が問うたものは、ビスケに問われた台詞そのものだった。 しかし返ってきたのは以前、がビスケに問い返したものではなく、また素直な返事でもない。大丈夫そのものの事柄だった。 「……なぜ、大丈夫なんだ」 「え? だって、傷だらけじゃないですか」 予想外な返事には戸惑ったが、真正面から覗いた姿を今更ながら上から下へと視線を滑らせると躊躇は一気に吹き飛ばされた。 横転したのか、顔全体には無数の擦り傷がある。墨のような泥水を吸った衣類がさらに拍車をかけた。 額は簡易な包帯で巻かれている。その真白だった包帯も汚濁している。 「……救急車は呼ぶな」 「でも…」 「このままではオレは消えてしまう」 嗄れ声が嘘偽りないことを語っているかのように、彼は――老人はそのしわくちゃの手を伸ばした。赤黒く染まった五指が顫動し、の無垢な肌に触れる。 途端、何事かと逡巡しているの両腕に縋るようにして彼は倒れた。 ずっしりと魂の重さを掛け持った身体は、死人のように冷たかった。 が血相を変えて部屋に飛び込んできたときは、さすがのビスケも驚愕した。数多の理由はあるが、一番はの両腕に引っ付いている存在だ。 現代に想像しがたい襤褸布一枚を着、げっそりとやせ細った面貌は色黒く、少しでも圧力をかければ折れてしまいそうな腕が、手が、だらりと地を指している。 「病院に連れて行ったほうがいいのかもしれないわね。その前に警察かしら」 白魚のようなビスケの指が触れようと近づくが、それはすぐに振り払われることになる。 「…触るな」 今の今まで死んだように瞼を閉ざしていた老人が目を覚まし、そして冷血な微笑で言い放つ光景に寒気がした――とはいうものの、悪寒が走ったのはビスケ一人である。 指先を丸めこみ、すぐさま手を引いたビスケは「お湯を沸かしてくるわ」と言うとその場から去った。 は首を傾げ、ビスケの背を眺めていたが、両腕にしがみ付く重みに我に返ると急いで自室を目指した。廊下に響く足音は、の知らない世界へ誘っているカウントダウンのようだった。 ベッドに骨ぼったい躯を横たわらせると、詰まっている羽毛が曖昧に人型を模った。その様子を見据えながら、は何をすべきか必死に考えている。 ビスケの言う通り、病院に連れて行ったほうが賢明なのだろうか。どこか痛むのだろうか。お腹は空いているのだろうか。この人は誰なのだろう。 様々と織りなす選択は最後の疑問で途切れた。 「……お嬢さん」 震えながらも懸命に手を伸ばし、その矛先は無論へ焦点を絞っている。 は躊躇無しにその手を両手で包みあげると「なに?」と微笑んだ。 「君は心の清らかな人だ。こんなに皺だらけで、小汚いオレを助けてくれたのは君だけだよ」 「倒れている人を見かけたら、助けるのは当たり前のことですよ」 少し照れたようにはにかむは、数ヶ月前のとは到底結びつかない。 それほどまでに、この数ヶ月間が彼女にとって何にも縛られることなく自由で、それまで不幸だった証であろう。 だからこそはこの老人を助けたに違いない。不幸や苦労を味わった人間は、全く同じでなくともその痛さを共感できる。もしくは、近づくことができる。"できる"から助けたくなる。 相手にされない、独りは――寂しい。 「君に恩返しをしたい」 「いいえ、大丈夫です。気にしないでください」 「大丈夫じゃないのに、大丈夫だと君は微笑むんだな」 その辺に転がっている台詞のやり取りは唐突に壊れた。同時に、の笑顔も綻んだ。より違う意味で、これは崩壊だ。 「ああ、怒ったかい? それとも哀しい? なんにせよ、オレは君のそんな姿を見たくて言ったわけではなかった。許せ」 「い、いえ。許すも何も、ちょっと驚いただけで…」 咄嗟に老人から目を逸らしたは、髪を耳裏にかけて少しだけ微笑んだ。微笑は、斑の板が並ぶフローリングだ。無意味でいて、そして徒労。 しばし、無言の時が流れた。窓から抜ける風がの体温を奪い去ってゆく。 は寒いかもしれないと立ち上がった、その時だった。 突然、背後から腕を引かれなすがままに身体は反転した。そして、意志さえも脳髄に通じないコンマ秒数で老人はを抱きとめていた。 何が起きたのか、は理解するまでに些か時間を要した。 一人では立てない非力な老人が力強くを引き、両腕の牢獄に閉じ込めているなど、一体誰が予測できただろうか。 「ちょっと、何してんの!」 混乱の中、凛とした声がドアから発せられた。 すぐにビスケだと判断したは、老人から離れようとしたのだが体が思うように動かない。せめて声だけでもと口を開けたが無意味に終わる。 「あんた誰!? ここにいたじいさんはどこに行ったの!」 ビスケが何を言っているのか、はまたもや理解するまでに数秒ほどかかる。 「が拾ってきたのは、あんたじゃないわよ。さあ、答えなさい」 目前にある胸が数度、隆起して楽しげな笑声が降ってくる。 が恐る恐る顔を上げると、横顔が見えた。端正で、滑るような鼻筋がくっきりと浮かぶ。その貌が、ゆっくりとへ振り返った。 大げさかもしれないが、人々は彼を見てこういうのかもしれない――神に選ばれし美貌だと。 「誰?!!」 素っ頓狂な声をあげたに、老人だった青年は再度、咽喉で笑った。 <<< >>>第二夜 |