第二夜 かみさまの住む家
青年は、まず非礼を詫びてきた。「驚かせたみたいだな」 無論、それはに向かって言ったのはいいが、いかんせん顔が近い。青年の両手はの頬を包み込み、貌を近づけると極上の笑顔のままで言い放ったのだ。 吐息が拾えるとはまさに今の状況下であり、は硬直して動かない。 「お前がうまそうだったからな、つい」 だが固まった身体が動かなくとも、続く言葉で脳内はゆっくりと巡り始めた。 「う、うまそう?」 「ああ。お前はオレの予想通り、うまい奴だ」 1つの生物のように、の間近で優良な口唇が弧を描く。それは美しさを超え、不気味さも兼ね備えている何かのようだ。 「お前の"負"はその辺にいる人間を凌駕している。だからこそお前にはオレが見え、オレはお前を選んだんだろう」 「?」 「しかし驚きだな…これほど不幸なことがあっていいのか。いや、オレにとっては幸福か」 「???」 いよいよ混沌と意味深長に成ってゆく台詞に、は訝しげな表情のまま青年の貌を見据える。 彼は、どこか満足げに微笑んでいた。そして、ぺろりと紅い舌先を口端に覗かせて更に貌を近づける。 「ごちそうさま」 鈍光でいて、蠢いている湿った舌がの口唇を舐めた。の弾力のある上唇が捲れ上がる。ベロリ。 そして悲鳴。 「こうみえてもオレは神なんだけど」 の口唇を堪能した矢先、女たちの悲鳴に顔付き一つ変えず、彼はベッドに腰掛けて目前に佇む二人に言い放った。 二人とは無論、とビスケである。ビスケはを守るかのように彼女の肩を抱き、奇異を物申す彼を睥睨していた。 といえば、先にされた行為と言葉に混迷しているようだ。 「何を言うかと思えば、あんた変人ね!」 「不躾だな。と、まあ言っても簡単には信じないか。オレにもよくわかる」 「逆に理解されても困るんだけど」 ビスケの指先が無意識にの腕に食い込む。その様子を見、青年は、ふ、と笑っている。 「あの…」今まで口を噤んでいたが一歩前進して青年に近づいた。 「さっきのお爺さんは、あなたですよね?」 至極簡単に青年は頷く。「そうだ」 「オレはさっきも言った通り、神だ。蓄積している力の量によって老躯にも小躯にもなれる」 「つまり、わたしが見つけた時、力がなかったってこと?」 に、と微笑んで青年は肯定した。「ご名答。理解が早くて助かる」 「これは想像によるが、お前は人より何倍もの不幸を背負って生きてきた。そうだろう?」 「……たぶん、いえ…わかりません」 は、ぎこちなく首肯したが、己を不幸だとどこかで認めたくはなかった。はなりの意地がある。 不幸だと嘆くことを止めたのは、いつだったか。自身、曖昧にしか認識していない。不幸だ不平だ理不尽など、どこまでも没意義だ。 それでも、強く心を保持しようとしても時々、己の境遇に頬を濡らすこともある。世界的に比べたらどうってことない、と自分を励ましながら。 「オレはさっき、その"不幸"を食べた。人の不幸こそオレの唯一の食事であり、力の源。不憫なことに人類全員の不幸を食べることはできない……ああ、安心しろ。お前には無害だ」 「本当?」 「ああ。オレは、"かみさま"だからな」 まるで己に言い聞かせるように、彼は――神様は、もう一度「かみさま、だから」と言った。 刹那に垣間見えた憂愁をは見逃さなかった。瞼を伏せて、震えるまつ毛の、ひとつひとつを。 「お前には、まだまだご馳走がありそうだ」 一変して打って変わり、神様は舌舐めずりをして斜めに身体を傾けると、の貌を覗く。 老躯の時と変わらなく、神様の額には包帯が巻かれていた。どこまでも深い漆黒の双眸が一点を差している。心が読めない表情というよりも、掴めない。 「喰わせろ」 神様が住みだした。 § あの日からの部屋に神様が住み着いた。 神様の言うとおり、存在は無害で時おり姿が見えない時もあったが翌朝になれば何事も無く居座っている。がアルバイトで働いているときは、街を散策したり読書をしたりと自由な生活を送っているようだった。 また、神様だ何だと得体の知れない存在を目の前に置いても、は驚くほど受容している。彼女の人生を辿れば、何が起きても――例え神様が住み着いても――不思議はないのだろうか。 ビスケが毎日のように安否を確かめると、はあっけらかんと答えた。 どこか投げやりな生に、とんだサプライズが到来した――それだけだと、は己に言い聞かせているらしい。 視点は少しずれ、当初はさすがに見た目が男なため、着替えや風呂に気を使い、狼狽する場面もあったが一か月もするとは慣れたようだ。理由は、どうやら神様というものは性欲がないらしい。 「食欲はあるけどな」 「ねえ、かみさま」 「なんだ?」 弦月が我が物顔で黒塗りの空に浮かぶ夜、神様は片手に収まっている本のページを捲くった。出窓のスペースに腰掛け、その長い両脚を壁側に向けて躯を収めている。この格好と場所が神様の定位置になっていた。 部屋はテレビの明かりなど機械的なライトは一つも無く、降り注いでくる月明かりのみで薄暗い。それでいて閑散とした路地に建っているこのビルの周辺は大変物静かなものだった。 故に、神様が捲る紙音が室内中に良く響いている。時々沸くふたりの声と、それだけが部屋に反響していた。 はベッドにうつ伏せで寝そべり、両手を開いてそこに顎に乗せ、神様の横顔を眺めている。 ふと、持ち上がった疑問だった。「かみさまに名前はないの? ××神とか」 一寸、間があった。 「……ああ。そういえば、そんなものもあったな」 何か爆弾を踏んだのかと、通り過ぎた間に思い返してみても、後の祭り。神様は、に目線を向けること無く返事をしたが、どこか表情に翳りが見える。 恐る恐る、は更に疑問を重ねた。 「聞いたら怒る?」 「いや、構わない」 ぱたり、と本が閉じる音がした。今まで眺めていた横顔が振り返り、視線でを捉える。 「大抵、オレと出会った奴はオレのことを"死神"だ"悪魔"だ、そんな呼称を付ける」 「ええ?」 が驚愕したのは理由がある。 一つ、は神様に命を取られるようなことは一切無い。また、悪魔のように悪事を働く様子もなければ、他人に危害を加えるようなことも無い。 敢えて苦し紛れに理由を述べるなら、悪魔のように危うい秀麗な姿形が目を引いてしまう。 無害だと言い張る"食事"に関しては、初めて会ったあの日以来していない。どうやら、まだ満腹とのこと。 「そんな風に見えないけど…?」 苦笑する声がの双耳にへばり付く。神様の貌は逆光でからは到底見えなかった。 「お前には、そんな風にしてないからな。いや、そんな必要が無かった。必要が無いほどお前は不幸を持っていた」 「どういう、こと?」 床が軋む音がした。窓辺から神様が地を付いて歩き出しているからだ。 無論、の方へと。 「幸せ不幸せは、ある程度人間は皆同じ容量で出来ている。そうだな…例えば、金持ちを羨む人間がいるとする」 うんうん、とは頷く。 「しかし、金持ちも金持ちなりに苦悩がある。それは羨む奴とは違う次元で出来ているが、大小関係なく悩む点については同じ。人間だからな。よって、人により幸せの相違が出てくるがオレたち神からすれば、それは全て平等の元なんだよ。ここまで理解できるか?」 「えーと、つまり羨むことは自然であるけど無意味ってこと?」 意外な返答だったのか、神様は思わず失笑した。 まさか、そこを持ってこられるとは思ってもみなかったのである。 「まあ、それもあるが…用は不幸だなんだと言っても結局、人はいつの間にか些細なものでも幸せを手にしている。ただ、それに気付くかどうか問題だ」 ずらずらと述べる神様の長い説教は、どこか脳内の片隅で理解出来ているような――具体的なものがあまり浮かんでこないのがの正直な感想だった。 「…………うーん。はい」 曖昧な返事をしたは、真横にあった枕を引っ張って頭を乗せた。軟い枕がの頭ひとつ分凹型を模る。 「ここからが本題だ。人には幸と不幸が半々で出来ているが、人間が不幸をどう思うかによってオレが食す量が変わる。ようやく出来たパートナー……まあ、言ってしまえばオレの食いぶちは、その人間の不幸に対する気持ちによって、全然違う。運が悪ければデザート程度なものしか喰えないこともあるんだ」 「……"神様"って予想外に大変なんですね」 思わず呟いたの言葉を逃すことなくとっ捕まえた神様は、少年のような笑顔で答えた。「まったくだ」 どうやら本当にそうらしい。おまけに「つくづく不憫だ」と神様が嘆く。 「そこで、オレは自分の食す分を確保するためにパートナーである人間をどん底に突き落とす」 しれっと恐ろしいことを笑顔で言う神様は、どこまでも神様だ。もはや、恐悦の域だ。 「悩めるパートナーを宥めつつ、不幸を食べる。時には自殺や殺人に手が及ぶ者もいた。それでもオレは食べる」 「……」 は、ついに黙殺してしまった。そして、死神だ悪魔だと言われる所以を理解した。 恐らく、この神様は時によって自分が仕組んだ陰謀を自ら暴き、恐怖にひきつる人間から不幸を絞り取っていたのだろう。 ビジョンが嫌でも浮かぶの背中に冷や汗が、つ、と流れた。 「だが不思議なことにオレが創った"不幸"では腹が膨れなかった。何度試してもどんなに不幸にしても偽物の"不幸"は無味で最後に虚しさだけが残る」 無表情の神様は、何をどう思っているのか神様以外分からない。 「ここでお前との出会いに戻る。運悪くパートナーを見つけられなかったオレは衰弱して老体のまま彷徨い、ついには座り込んだ。道行く人々、オレの姿など見えない人間たちが素通りする中でお前に出会った」 「わたし、に……?」 「そう、お前に」 男にしては小奇麗な手が伸びて来、の頭を撫で、髪を優しく梳く。 「オレの唯一無二の喰いぶち……――神名を聞いても後悔するなよ」 指先が頭皮を伝って本体に冷たいと教えた。まるで不安を取り去るように、の鼓動が治まるまで神様は、その行為を止めなかった。 やがて、が落ち着いたことを確認すると、神様はの横に座った。一昔前のマットレスだからか、痛んだスプリングの音が戦慄く。 「オレの神名は、"独神"」 神様の名前は、独神――ひとりがみ。 「独りでいることを存在付けられた、独り神だ」 例えば日本は、世界で一番神様が多いと言われている。否、神様がいると信じられている。 八百万(やおよろず)の神など、日本人ならば多く耳にしたことがあるだろう。 なぜ世界で一番多いのか、それは古来の日本人は自然や物、場所に至るまで神様がいると感じ、祀ったことから始まる。 八百万、という文字だけでも知っているは、哀しそうに存在する神様など考えてもみなかったが現にこうしているのだから信じざるを得ない。 だとしても、この存在を神様と呼んでいいものか、は自問していた。だが、それは八百万という言葉に帰結する。 一つくらいこのような神様がいることに、どこか納得もしていった。 「かみさまが人間の不幸を食べなくなったらどうなるの?」 まるで女の手のようだ、とは今の今まで己の頭上に置かれていた独神の指先を凝視している。質問しながら、何とでも無いことを思いながら。 指先一つ造り替えているだけなのかもしれないが、独神はと同じように頭があり、胴体があり、四肢がある。見た目だけは人間そのものだ。 「さあ? ただオレが消えて無くなるだけじゃないのか」 「神様も消えてなくなるものなの?」 「恐らく。だが心配には及ばない」 無垢な質問だったが、独神にとってのそれは憂慮に見えたようだ。 微笑む面貌。数か月ほど共にしてきたが、変わらぬ美麗な破顔がここにある。この綺麗さだけは飽きないと、は勝手ながら自負している。 「人間の不幸は尽きない」 そして、この拍車をかける畏怖感が忘却を許さない。 不可思議な会話をし、ふたりの夜は明ける。 空は黎明だ。やがて曙の光が出窓に座る独神を照らし、逆光で占められた身体は陽に溶けてしまうのではないだろうか。この独神と名乗った神様は太陰が似合う故に、朝陽に持って行かれそうだ。 は、必然と独神に手を伸ばした。独神が、不思議そうに差し出された手を見据えている。 やがて、その小さき手を取ると独神は「おやすみ」と呟いた。 ――こうして少しずつ、は無意識の内に独神の心を暴いてゆく。 <<< >>>第三夜 |