第三夜 かみさまの晩餐


 更に数カ月が過ぎ、ようやく独神は腰を上げた。上げたというのは物理的な意味では無く、"食事"に関してだ。
 バイトから帰ってきたが部屋のドアを開けた途端、普段は定位置である窓辺でを出迎えることが多々な独神なのだが、今回ばかりは違った。
 両腕を広げ、獲物を狩る猛獣のように待ちかまえている。それでも、口許には笑みだ。
 独神は幾つか笑みの種類があることにが気付いたのは、つい最近だ。
 何かある――と、は瞬時に気付いた。ドアを閉めることなく、室内に踏み入れることなく、少しづづ後退りをするが既に敵わないことは熟知している。
 しかし、まだ諦めたく無くないのは、これまで彼女が生きてきた短い人生の中で培ってきた宝だ。
「逃げるな。ついに来た」
「な、なにが?」
「聞こえないのか、腹の音が」
 なぜだか独神が言うだけで格好良く見えてしまうのは、自分だけだろうか。
 そんなどうでもいい思いを巡らせながら、耳に届く、ぐるぐるという音に気付いた。だが、が危惧の念を抱くに、それだけでは役不足である。
 いつしか、独神はに"人間に触れることで食事をする"と言っていた。故に、もしも初めて出会ったあの日のように、男の腕に包まれるのかと思えば素直に喜べない。つまりは羞恥心が勝るのだ。
「勘違いするな」
 一変して鋭利な顔付きに成った独神が動く。半年以上は過ぎた今日、二度目の食事が到来したようだ。
 瞬く間にの許に現れると耳元で囁いた。
「――いただこう」頬に触れる指。
 廊下、否ビル一帯にまでの叫び声が反響した。乙女の悲鳴とは言い難い、残念な雄叫びであった。

「ごちそうさまでした」続けて「それにしても」と会話を繋げる。
「もしもオレが神じゃなかったら鼓膜が破れてる」
 独神の食事など一瞬、もはや一桁の秒数で完結するため、を手放したのは早かったのだが上記の通り、の悲鳴――否、雄叫び――は酷いもののようだ。ただ、頬に触れただけというのに。
 顔色一つ変えず、ご機嫌の独神は満腹だというように腹を摩っている。元来、独神はそういった仕草をするわけは無い。また、腹の音が聞こえたのは、独神なりの演出である。
「…………前日から言っていただくとありがたいです」
「大丈夫だ、慣れとは恐ろしくなる」
 つまり、独神は慣れることが恐ろしくなるほど、この行為は続けられることを遠回しに言っている。
「何なら練習でもするか?」
「イエス、て言うと思う?」
「思わないな」
 きっぱりと言い放ったものは即答だ。
 両腕で自身を抱いているは未だドアの前に立ったままだった。その様子を眺めながら、独神が楽しんで言っていることくらい、でも分かっている。
「では、特別にとっておきの情報を提供しよう」
 すると唐突に人差し指を立て、口唇にそれを置く独神。まるで"神様"には見えない。
 だけではなく、誰しもが思うだろう。このやり取りは、ただの男女の戯れだ。
 この言葉でさえ。
「別に触れなくても"食事"は出来る」
 付け加えて「どうだ?」とおどけてくる。
 途端に不愛想な表情になったが、ようやく発した言葉はこれだ。
「…………触れ損?」
「オレは得だったよ。欲情はしないがな…つまり気持ちの問題という訳だ」
「前から気付いてたけど、かみさまは何気にこの世を楽しんでるよね」
 ふ、と独神が微笑む。どうやら肯定らしい。
 は、重苦しい溜息を一つ吐いて自室に一歩踏み入れた。すると、今さらのように独神が一声をする。「言い忘れてた」
「おかえり、
 生まれてからこの方、満足に言い与えられなかった言葉がには在る。それが幾つか存在する。
 時おり、ビスケに言われるが彼女は多忙のため毎日というわけではない。故に、こうして当然の挨拶はの心に、すとんと素直に下り、自然と破顔する。
「ただいま、かみさま」
 この世界で至当と言ってよいほどの挨拶は、人間が現代に至るまで一体何度やり取りされてきたことだろう。何万回、何億回。それとも星の数ほど。一人の人間が死しても尚、再度生まれゆく人間ほど。
「かみさま、一緒に夕食を食べよう? 手伝って」
 は、肩に背負っていたバッグを古びたソファに投げると、独神に近づいて腕を引っ張った。
「"神様"に手伝わせるなど、この世ではお前くらいだな」
 しょうがないと言いたげに、それでも口許をカーブさせて独神は腕を捲くった。
 独神は食べ物など体内に取り込まない。食べ物の"気"を頂くことが尤もであり、独神の場合は人間の体内に存在している不幸の"気"を貰っている。
 独神も一般でいう"神様"なのだが、平たく言えば偏食なのだ。他の"神様"のように、食べ物の"気"が食べられないわけではない。
 ただ、肝心な腹が膨れるわけでも力の源になるわけでもないのだ。
「オレは"神様"だから四足の動物は特に食えないよ」
「じゃあ今日は魚料理にしようかな。ビスケさんの分も作らなきゃ」
 台所に急かすようには独神を引き、ふたりは廊下を出た。

§

 独神は力さえあれば相性の善し悪し関係なく、この世に反映させることができる。だがそれは意図的でなければならないようで、故に"食いぶち"以外、ほぼ自分は見えないという。
 あの日、ビスケが老躯の独神が見えていたのは、それなりに彼女も食いぶち候補に成り得るらしい。これ等をが知ったのは、出会ってから半年ほど経った休日のことだ。
 独神は、"そこ"に存在しているが大抵の他人には見えないため、まさに空気である。毎日どこからか本を持ってきては読み倒し、姿が見えないかと思えば新たな食いぶちを探すために外出している。
 独神曰く「食いぶちとの出会いはオレではなく人間の運命」だという。
 それが悲運か否かは、当人次第であるとは思っている。独神は、本当にに対して処遇が良い故だ。"食事"も、ここのところが何となく慣れてきてはいる。


「かみさま、買い物に行くから荷物持ちして」
 唐突には言った。それも、まるで兄弟に言うように。
「オレ、一応"神様"だけど?」
 半端に読んでいたページに栞を挟み、独神はへと目線を滑らせた。
 珍しくスカート何ぞ履いているが独神の目前で仁王立ちしている。本日、は休日なのだ。
「だって、かみさまはいつも暇でしょ? それに前、実体化? 出来るって言ってたじゃない」
「ニートや3Dみたいな言い方をするな」
 溜息を吐きながらも苦笑している独神は、出窓から下りると身なりを整えた。どうやら始めから出かける気はあったようである。
 この独神は、まるでその辺にいる青年と変わらぬ格好をしている。気分や流行りに乗っかり、ころころと服装が変わるのだが、色彩はダークなものを好む。
「高く付くぞ」
 言いながら左腕を差し出してくるこの光景は通例の"神様"では無く、ただの彼氏気取りだ。また、"美"でもある。
「かみさまかっこいー」
 煽てた調子で、その左腕に飛び付いたを誘導するように独神は一歩踏み出した。そして皮肉をひとつ。「完全な棒読みの嘆美をありがとう」
 そんな皮肉から始まるこの時間帯を、人間はデートと呼ぶ。

 は立場上、そして教育上、決して浪費家ではない。ビスケには伝えてはいないが、いつかあのビルの一室を出ていく予定だ。いつまでも甘えられない、となりのけじめである。
 18の春、独りで生きてゆくと決めた決意は、未だに揺るがない。独りで生きてゆくことなど出来やしないというのに、それでもの心の中で燻り続けている。堅く誓ったあの想いを解き放てるのは己だけだとも、は理解している。
 故に資金を貯めなければならない。最低限の生活費以外、全て通帳につぎ込んでいた。
 倹約家のが街に繰り出すと言えば、ほぼ食材なのだが今日だけは違った。向かった先は、若者たちが集う街であった。
「めずらしいな」
 独神の片手にぶら下がっているエコバッグの中には、数か所の店舗を回り、吟味して買ったものが詰め込まれている。独神は眉一つ動かさず、軽がると片手で持ちあげているが実際は相当重い。
 さすが"神様"だけある。
「いいの。今日は好きなものを好きなだけ買うの」
 行き交う人々の群れの中で、独神だけが目立っていた。それは荷物の大きさでは無く、浮世絵染みた面貌の所為だ。女だけではなく男すらも振り返り、独神をもう一度見ようと背を反らせる。
 慣れなのか全く気にしないのか、はたまた"神様"故か。も同様、ふたりは人ごみに揉まれながらも前進していた。
「なんで?」
 少し間を置いてから独神は質問してみた。
 は、煌びやかに光る口唇を撓らせて答える。「実はね――」
「あの部屋を出て行こうと思って。十分お金は貯まったし…だから、今日の買い物は日用品が多いでしょ?」
「そういえば、そうだな」
 適度な相槌を打つ独神は、どこかで分かっていただろう。それ程、驚愕すること無く淡々と答えているのが証拠だ。
「――オレはついて行くよ」
 信号が赤に変わり、両脚をピタリと止めた途端、肉塊のど真ん中で独神は言った。
「オレだけは、お前に」
 は、白と灰をボーダーで仕切っている横断歩道を数えていたが、降って湧いた台詞に思考から独神へと浮上させた。大きく見開いた双眸は、独神だけを映していた。
「告白みたい」がおどけて笑う。
 すると独神は、眉間に皺を作り、微笑む。
「いや、まだだ。オレの愛の言葉は、こんなものじゃない」
 かみさまに愛は似合わない、とは思ったが、それを口に出すのを止めた。その思いを拭い去る台詞が聞こえてきたからだ。
「ああ、でもその前に愛など言葉にすることすら痴がましい」
「そうなの?」
「否定したわけじゃないよ。人は進化と共に言葉を持ってしまった。故に愛を言葉で表現しなければならなくなった。これは必然となって…――オレが人間だったら酷く悩んでいたのかもしれないな」
「じゃあ、かみさまがもし人間だったら好きな人に好きって言わないの?」
「いや、言うと思うよ」
 めずらしく独神らしくない不明瞭な声は、唐突に切れた。何事だとが独神の貌を覗くと、眉間に皺を寄せて己の世界に潜り込んでいるようだった。こうなった独神は、答えや考えが纏まるまで頑として動かない。喋らない。
 さすがに信号が変わるまでに見つけて、と思ったは辛抱強く待った。
 隣の女子たちが独神を見て騒ぎ出している。前方にいるカップルの女の方が、ちらちらと独神を気にしている。格好の的だ。
 すると、ようやく独神はにでも理解できる説教の仕方を見つけたのだろう。貌を上げ、嬉しそうに開口した。
「いいか、言葉とは言霊と同義で――」
 また、いつもの長い説教が始まる。は何だかんだと、こうして独神と論議するのが好きだ。時に納得することもあれば、反発する時もある。時間を置いてから独神の言葉に気付かされたことがある。
 まるで父親か、母親か。
「――つまり平たく言えばオレの考えが古いんだな」
 長い長い説教が終わったかと思えば、そんな言葉で占められた。
 今季流行りの格好をして街を闊歩しているかみさまが何を言う――同時に、は喉まで来た突っ込みを呑み込む。
 すると、ちょうど横断歩道の信号が青に変わり、背後から押される形でふたりは歩き出した。
「そういえば、かみさまは何歳?」
「さあ? 気が付いたらこんな感じだった――鮮明と記憶があるのは400年前、それ以前の記憶は曖昧だな」
 ふたりが繋いでいる腕には仄かに温度がある。
 まるで人間にしか見えない独神は、時おり"神様"らしいことを言う。無論、当然なのだがは独神を"独神"だと認識していなかったことに気付くのは、もう少し先の事。
 神様は、独神。
 それを忘却したのは、どちらだろう。

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