第四夜 「"神様"、もう少しだけ」


 室内には、埋匿しているかのように隅々にまで冥暗が潜んでいた。未だ12時も廻っていないこの時間帯は、唯一ある明かり窓から月光が降り注いでくることが多々であったが、今夜は違った。
 過重な暗雲は、膿んだように膨れ上がり空を覆って月を遮断している。
 まるで切り取られているが如く。恐らく、暗雲から上は光に満ち満ちているだろう。
 しかし、その部屋には光があった。テレビから流れる音と共に、明滅した灯りが引っ切り無しにの貌を照らしていた。神出鬼没なあの独神はいない。
 はベッドの上で身を丸め、壁に寄り添う形でテレビ画面を眺めている。
 その貌から生気が見当たらない。毎度のような笑顔も、無垢な質問を繰り返す口唇もきつく閉じたままだ。
 すると、の左目から、するんと何かが零れ落ちた。涙だ。
 それは止むことなく、まるで花弁のように、当然のように落下して四散した。が涙を拭う素振りは何一つない。
「どうした」
 すると、唐突に声が降ってきた。が飛び起きるように肩を揺らし、真横を向けるといつからいたのか独神がベッドに座っている。
 驚愕していただったが、毎度のような登場にこれといってそれ以上、感情を見せることなく、ようやく自分の顔を擦り上げた。
「いつものことだけど、びっくりした」
 そして、頼りない笑みを独神に向ける。
 独神は適当な相槌を打ち、の顎を右手で掬うと首を傾げた。
「涙、か…」
 どうやら、先ほどの「どうした」から続く言葉らしい。
 は、止んだ涙が再度滲むことを確信すると、独神から隠れるようにシーツを引きよせて頭を覆った。
「なんでもない、なんでもないの」
「オレは別に何も聞いてないけど」
「……」
 下唇を咬んだは、墓穴を掘ったと今さっきの自分を恨む。
 そう、この独神はいつもこうだった。凡てを見透かしていながら当人からの言葉を持ってこようと誘導する。それは、に限ったことではないだろう。
 心理を熟知しているのだ。
「当てようか」
「嫌、いい。すごく弱点を突かれそうで怖い」
 頭部のみ被っていたシーツが、するすると体に纏わりついてきた。無論、独神の仕業である。
 何をするのかとが疑問を持っていると、ふいに後頭部に手を当てられ、撫でられる。
 誰と、さすがにはそこまで鈍感ではない。
「人間とは、不思議なものだな」
 独神だ。独神のおおきな手のひらがシーツ越しにに温度を伝えてくる。否、この独神の口調から、温度だけではない。
 を導くように、孤独の世界から手を引いてくれている。
 独神は"独神"だというのに、なんと皮肉だろう。
「寂しいという感情はオレにはわからないが」
 布一枚とはいえ、耳元で囁いてくる独神の吐息が耳元を擽る。
 身じろいだは、まるで頷くように貌を伏せた。
「誰かが傍にいることで、こうも違うものだとお前に教えられた気がする」
「……かみさまは、わたしといて何か変わったの?」
 の視界の横から、独神の手が伸びてきた。その綺麗な手は、宙を彷徨ってまた視界から消える。
「どうだろう。ただ、部屋にいてお前が帰ってくるとわかっていれば安堵感が得られることは確かだ。絶対に帰ってくるという確信がオレには必要らしい」
「かみさまは、ずっと待っててくれるもんね」
「昔から感じていたが、人は独りでは生きていけない。軟弱で、そして強い生き物だということは知っている。だがオレはどうだろうと考えてきた」
 見慣れた美しい面貌が覗き込む形で現れた。その貌の一つ目がを射る。
「唐突に打ち寄せる哀しみは境遇か、はたまた肉親の事か。後者を埋めるのは、あの世にいるお前の両親のみだが、オレにも出来ることがあるよ」
 全身を覆っていたシーツが抜き取られた。が独神を見ると、上半身を起き上がらせた体から、両腕を伸ばしてくる。
「言っただろう? オレは、お前についていくと。オレは人間ではないがお前の傍で、その溝を埋めよう」
 初めてなのかもしれない。
「かみさま、かみさま、かみ……さ、まあ……」
 から独神に体を預けたのは、初めてだ。
 独神の腕の中では子供のように泣いた。まるで幼子が母親に抱きつくように背中を掻きむしり、額を胸に押しつけて、ただただ泣いた。
 独神は、少し戸惑いつつも小さく丸まって縋りついてくる背を、愛しむように撫でていた。

「オレも一緒に泣こうか」
「え? て、えええええ! かみさま、それ涙じゃなくて血だよ!」
 一旦、泣き終えると未だ涙の跡があるの貌を見、独神は言った。
 しかし途端に独神の眸から流れたのは透明色な涙ではなく、紅い血のようなものだ。もしかしたら、これは独神なりの憂慮なのかもしれないが如何せん度が過ぎている。
「オレに涙は出ないんだな。涙、とはどうしたら出せる…?」
 眉を顰め、神妙な面持ちで悩み始めた独神は、突然立ちあがると「いってくる」と言ってに背を向けた。
 慌てたが「どこに?!」と手を伸ばしながら聞くと、独神は言った。
「神に涙を頂戴してくる」
「ちょ、そんな簡単に?」
「涙というオプションを付けてハイスペックで帰ってくる。それまで待ってろ」

 後日、独神は上機嫌に帰ってきた。
 独神が本当に"涙"を貰って来たのか、まさに神のみぞ知る。

§

 一週間後、はビスケの元を去った。ビスケは引き止めたが、は「決めたこと」だとかぶりを横に振り、頑として縦には振らなかった。
 ビスケが強く引き止めなかったのは、恩返しをしたいという再開の約束をしたからだった。しかしビスケにとって恩返しが肝ではない。再会の約束が全てだった。
 故にビスケは、が去る前に「いってらっしゃい」と手を振っていた。


 が借りた部屋は、一人暮らしには十分なワンルームのアパートだ。
 少々古いがトイレやバスも完備し、何よりも隣に住人がいないことが気に入っている。
 なぜなら、は独り言が多い。否、独神との会話が多い。この薄い壁一つでは、独神との会話は筒抜けになってしまうだろう。故の判断だった。家賃も安く、一石二鳥である。
 部屋には最低限のものしか置いていない。小さいテーブルとテレビ、そして独神のために本棚を置いた。
 以前、住んでいたビルには独神が読み終わった本が散乱し、また本の行き場が無いことに困り果てていた。幸い、最終的にはビスケが全て持って行ったが現在、の隣にはビスケがいない。
「すぐに埋まるな」
 本棚を眺めている独神は、どこか嬉しそうに微笑んでいた。

 実は、がビスケの元を去った決定打に就職先が決まったということがある。これは誰にも言わず、独神ですら初出勤日に聞いた。
 特に隠していたわけではなかったのだが、どこか照れくささがあったようだ。就職先というのは、が昔から興味があったものに起因しているらしい。
「そうか。じゃ行ってこいよ」
 あっさり承諾し、ひらひらと手を振る独神は通常通りだ。
 は独神らしさに噴き出して笑うと「いってきます」と言ってアパートを出た。
 独神の異様に気付いたのは、がようやく仕事に慣れてきた半年後の事だった。

§

 窓辺に椅子を置き、壁に寄り掛かるようにして夜光で本を読んでいる独神をは久々に眺めていた。
 近頃まで多忙のあまり、アパートにいない事が多かった。そのまま、職場に泊まり込んでしまったときもあった。
 どうやら独神も何か用があるのか、が帰ってきてもいない日があった。
 しかし、朝になると一瞬だけ姿を見せる律儀さがあった。すぐに消えてしまうのだが、ふたりに亀裂が生じたわけではない。
 ベッドに寝ころび、独神の貌を飽きずに見ている。は、この時間が好きだ。あの灰ビルで出会った日から、何もせずに独神を見ていることが幸せであった。
 は独神の面貌に飽きないと自負していたが、やはり今だって飽きる様子は見当たらない。
 ぺらりと擦れた音で、は瞼を閉じた。そして、ゆっくりと開ける。
「かみ、さま?」
 開眼して気付いたものがにはあった。今さらだったのかもしれない、それとも今の刹那だったのかもしれない。
 独神が青年から大人になっている。
「ねえ、ねえ、かみさまったら」
「……なんだ」
 独神は、読書をしているときあまりの方を見ない。今回もまた、文字を追いかけている視線は、ずっと本に向けられたままだ。
 はベッドから立ち上がると、独神の手首を掴んだ。そして、しゃがみ込み向かい合わせにいる独神の貌を恐る恐る見上げる。
 やはり、独神は青年ではなく大人の男性に変化していた。三十路前後の、青年の時とはまた違う美しさを兼ね備え、まるで別人だとの心臓が脈打った。どくん、と心臓が飛び出るかと思ったほどだ。
 が別人だと思う他に、ひとつ嫌な予感があった。
「かみさま、正直に答えて?」
「ああ」
「"食事"してないの?」
 独神が老けるということは、力が無くなっていることを意味している。
 幾ら多忙とはいえ、が帰れば一瞬でも独神は姿を現す。そして時おり、食事だと言って触れ、去ってゆく。
 は、それで安堵した。自分にはまだ"不幸"がある――と。
 しかし、自身気付いていたものがある。それは、昔ほど不幸ではないという自覚だ。故に心配はここに岐路する。"不幸"が無いということは、独神に食いぶちがない。
「それがどうかしたか」
 あっさりと独神は答えた。に目線を合わせることも無く。
「大問題じゃない! どうして? わたしにはもう"不幸"がないの?」
 どこかの酔っ払いの叫び声が窓から入り込んできた。それが終わっても、独神は動かない。
 ようやく独神が本を閉じたのは、の嗚咽が聞こえてきてからだ。
「――前にも言ったが、オレが食す"不幸"は本人の気持ち次第で大きさが変わる。幾ら"不幸"が残っていようが本人がそれを受容し、前向きであればオレが食べる量は少ない」
 本を膝に置き、独神は涙で濡れたの頬を親指で拭った。「だから――」
「気にしなくてもいい。むしろお前にとっては嬉しいことだろ。それに、出会ったときからこうなるとオレは感じていたしな」
「……え?」
「お前はビスケに拾われて、オレと出会って、不幸を幸福に変えた。その力を既に持っていた。オレが一年以上、青年の姿でいられたのはお前と初めて出会った日に食した"不幸"が膨大だったからだ」
 眸を見開いたが震える口唇を懸命に動かす。
「だって、あの時わたしにはまだ……」
「ご馳走まではいかないが、少し残ってはいたよ。これは本当だ。ただ、一緒に過ごしている間にそれらも薄れ、お前の中は空になった。それだけの事だ」
 ついに耐えきれなくなったは、独神の胸に頬を擦りつけて泣いた。それはそれは大きな、哀しみの旋律だった。
 は、こんな時のために隣人なしの部屋を選んだわけではない。
「…………あんまりだよ」
 くぐもって聞こえた声を更に押し込めるかのように、独神は力強くの腰に手を回した。
 食事だなんだと触れていたが、もう大分前から独神は自身に触れていた。彼女自身に触れたいという意思を持っていた。
「かみさま、わたしに出来ることはある? 人を不幸には出来ないけど、わたしは何だってするよ」
 泣き顔から一変、強い眼差しで独神を見据えるは、先ほどまで泣き崩れていた彼女には見えない。
 ああ、と。独神は喜びの溜息を洩らす。
(これだから魅かれたんだろう。彼女が眩しいほど強いから)
「……オレが今まで食してきた相手は、最低な人間ばかりだった。だからというわけではないが、オレも最低なことをしてきた。恐らく、それが神の怒りに触れたんだろうな」
 の問いに答えることなく、喉を鳴らして独神は哀しく笑う。
「オレがどうして額を隠しているのか、いつしかお前は聞いたな」
「……うん」
「神から頂戴したこの印は、人間の心を映す鏡のようなものだ。醜い心をもった奴なら、目も当てられないほど醜く。いくら美しい人間でもこの印を晒せば醜悪でしかオレの目に映さない」
「……じゃあ、わたしは…」
 何度か瞬きをした独神は、愛しむように笑いかけ、の両頬を撫でると言った。
「以前、一度だけお前を視たよ。誰よりも綺麗だった」
「本当にそう思う?」
「ああ。だから"食事"が無くともオレはお前といたかった。こんなにも美しい人間がオレと出会ってどうなるのか知りたかった。同時に、醜くなる様を見てやろうと始めは思っていた」
「……酷い」
 独神は笑うと、まるで動物が我が子を慈しむよう、の額に自分の額をくっ付けた。やがて両者の身体は徐々に密着してゆく。
「それでもお前は変わらない。一年も独神オレといたのに」
 を放した独神は、綺麗に巻かれている包帯に手をかけた。驚いたが静止の声をかける。「ちょっと待って」
「もしかして……?」
「もう一度、お前の全てをみたい。見せろよ」
 の静止など一瞬で、独神は一度手を止めたがまた器用に包帯を取り始めた。やがて、全てが取り除かれると、は無意識のうちに息をのんだ。
 藍青色の十字のような模様がそこにはあった。
「初めて、かみさまの本当の顔を見たわ」
 独神の隠されていた額を撫で、は喜色満面に言う。
 薄れゆく体のまま、独神は噛み締めるように「綺麗だな」と呟いた。





 独神は知っていた。独神だけは知っていた。これが、ふたりの最後の時間だと知っていた。
(ああ……"神様"もう少し、もう少しだけだ)
 そして独神は、いなくなった。包み込まれたの腕の中で消えてなくなった。
 また、独りふらりと食いぶちを探しに夜に浮かぶ。
(オレを独りに、と共に――)
 独神の名は、独神。
(消えることに恐れは感じない)
 独りでいることを存在付けられた、哀しい独神。
(……ただ、もう独りは十分だ)
 独神は、生まれた時も消える時も独り。
(だがオレは独りじゃないと思えた)
 ただひとつ"神様"すら想定外だったのは後に最期、存在をも消える刹那、独神は独りと思わなかったことだ。
(此処に、お前がいた)

<<< >>>End roll


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