その後、彼女は食器まで丁寧に洗ってくれて、今は持ってきた掃除機を手にわたしと玄関にいる。
 時刻は10時に針が置かれていた。クロロが帰ってくる気配は未だない。
「ご馳走さまでした」
「こちらこそ、ありがとうございました」
 敬語で喋っているのはお互いわざとだ。
 それじゃ、と彼女は背を向けるが、すぐさま振り向いてわたしに詰め寄る。
「言い忘れてたけどカルボナーラはもっと薄めの方があたし好みです。美味しかったけど」
「も、もっと勉強します…!」
「でも社長はわからないよ」
 首を傾げて本気なのかおどけて言っているのか分からない。けれども、わたしにとってそれは救いに思えて、思わず笑顔を向けてしまった。
「帰ってきたら聞いてみる。その前に遅い! って怒鳴りつけると思うけど」
「社長を怒鳴りつけるなんてくらいだね」
 今度こそ彼女は背を向けて玄関のノブを回した。
「ねぇシズク。最後に聞いてもいい? どうして、わたしと少ししか話をしていないのに安心したの? もしも、わたしが悪い人間だったらどうしてた?」
 玄関の近くにある壁に体を預け、わたしは最後に意味深な問いを投げた。彼女らにとって大切なクロロに近づく女が悪人だったのなら、どう反応するのだろう。好奇心が勝る。
「世間一般で言う悪い人が社長にとって悪い人とは限らないんじゃないかな」
 背を向けたまま、淡々と答える彼女は、いったいどんな表情なのだろう――と考えたが答えはすぐに見つかった。
 きっと無表情だ。でも心は無ではない。
「それに、そもそも悪い人はこんなこと聞かないと思うけど」
 彼女の言葉に面食らったわたしは、思わず声を上げて笑ってしまった。なるほど彼女の方が、わたしよりも一枚上手だ。
 もしも、もし次に会うことがあったら、今度は彼女好みのカルボナーラを作ろうと思った。少し毒舌で、でもそれは正直の裏返しのこの女性は、きっと友達になれたら楽しいだろうから。
 ―――――バン!
「(びっくりした!)」
 と、突然ドアが勢いよく開けられた。開けたのはこの部屋の主、クロロだった。
 ドアの前にいたシズクは、気配を察してたのか寸のところで横に避けている。目の前に飛び込んできたクロロに驚いているのは、わたしだけだ。
、お前が欲しいと言っていた本が見つかった。これだろ」
 ずいずいと本を持って迫ってくるクロロに、わたしは眉間のしわを寄せて腕を組んだ。あまりにも唐突すぎだ。
「……おかえり」
「ああ、ただいま」
「遅い! もう10時よ?」
「遅くなると連絡したはずだけど」
「そうだとしても、ここは一言謝るところじゃないの?」
「それもオレたちのルールか」
「親しき者にも礼儀あり」
「いや、お前はオレの母親か」
「…もうやだこの人」
 わたしが、うんざりしているとクロロはシズクの存在にようやく気付いて「ご苦労」と一言言っていた。
 そのシズクと言えば、ただ一礼しただけでドアの向こう側に消えてゆく。最後、ドアの隙間越しに彼女と目が合った気がした。


「そういえば前から疑問だったんだけど」
 シズクを見送った後、先ほど彼女がいた席には、クロロが居座っている。マンションの主がいることで、部屋はようやく馴染んだ気がした。
 クロロの手には、キンキンに冷えたビールが握られていた。飲んで来たはずだと言うのに、まだ飲むかこの男は。それでも酔った様子は見当たらない。クロロは視線だけでわたしに「なんだ」と語りかけた。
「クロロってお礼とか言わないよね。シャルの前で見たことないもの」
 と、わたしが言ったところで二人を見るのはバーの中だけだが、以前よりも仲良く話している二人に違和感を持っていた。
 確かにバーでクロロは客だけど二人は通常だと言わんばかりの雰囲気だ。それはバーテンダーと客の立場を放り投げて二人の世界を作り上げてしまうときがある。その会話の中で気づいたのが、クロロに問うた疑問である。
 これは、親しき者にも礼儀ありの延長戦だ。
「もちろん、わたしにも」
「ちゃんと言うよ。ありがとうと言われたら、どういたしましても言う。…………ん? お前は言われたいのか?」
 わたしは家族だろうが友達だろうが、お礼を言うことを躾られてきた。更に言うならば、挨拶をすることを当然と教え込まれても来た。それが自然としてきたものだから、クロロのように何も言わない事に違和感を覚えていた。
 とはいえ、ここでイエスと答えたら、それでは先ほどのように押し付けになってしまう。わたしの普通とクロロの普通は違うのだ。
 なんて言おうか。これは単に価値観の違いだろうか。わたしが腕を組んで天井を見上げると、のっぺらな壁がわたしを嘲笑っていた。
「あ」
 そうか、そういう意味か。
「クロロがシャルにお礼を言わないのは、それが当然だから…? 親しいから?」
 思考を駆け巡る暗黙の中、一筋の光明を見つけた。それ従い言葉にして、クロロに目線を持ってくと目前の顔が心なしか綻んだ気がした。
「言う必要がないからじゃないか」
「…必要がないくらい、あなたたちには信頼関係があるのね」
「そもそも考えたこともないしな。他人に礼を言うのは礼儀だと理解しているが、あいつらに礼を言うことが"ない"と言われれば"ない"。それがお前の言う"親しいから"に直結するか不明だが」
「考えたことはないってことは、当然だからじゃないの?」
 クロロはわたしの一言で、一瞬にして真顔になった。それは無感情ではなく、心ここに在らずと言った方がしっくりくるのかもしれない。
 ゆっくりと手のひらが口許を覆うと、クロロは視線を下げて一点を見据えている。答えなど、そこにあるはずもないのにクロロは考えるとき必ずと言っていいほど上か下のどちらかに視線を移す。
「…………まるで拮抗作用だな」
 ようやく声を上げたと思えば、それはわたしにとって予想外の視点だった。
「拮抗作用?」
の言う結論を仮定とするなら、"当然"と言う意志に"お礼"と"親しい"が打ち消し合っているということだ」
「……つまりクロロは当然と思うに至るまでお礼と親しいがあるけど、その2つがなくなっているっていうこと?」
「ま、それでいいよ」
「相変わらず、ややこしいね」
「哲学を例えにするより、よっぽど理解しやすいだろ」
 わたしに言い放ったその顔は、プライドを殴り捨てたクロロの本心に見えた。恐らくこれは、憂慮や親切の類なんだろう。子供に言い聞かせるための生易しいものではなく、彼はわたしに最適の言葉を選んだのだ。
 ふと、ここで更なる疑問が芽吹く。わたしにもお礼の類を言わないのは、わたしも親しい仲に入っているのかという疑問だ。わたしたちは確かに友人関係にあたるがシャル程、親しい間柄の意識はない。
「わたしも、その輪に入っているっていうこと?」
「なんの話だ」
「だから、わたしもシャルやシズクと同じかってこと」
 一寸間を作ってからクロロは、あっさり答えた。
「違うな。お前はシャル達とは違う」
 咽喉を鳴らして美味しそうにビールを飲んだ後、クロロはフォークを掴んだ。くるくるとパスタを巻いて答えをもったいぶっているように見えた。
「――全然違うんだ」
 まるで噛み締める様に、クロロは再度そう言った。
 わたしは、やはりここで「Why」と言えなかった。ただ、クロロの様子からして、不安になる様でも残念に思うのも違う。不安定の中に、どこか歓喜を掬い取った。
 先ほどのわたしに、記憶を持ってゆく。わたしはイレギュラーであっても、決して悪い意味などではなく。そして、それはもうクロロの中で過去なのかもしれない。もしくはクロロの"全然違う"は、イレギュラーだと称した奥底を根本的に覆す。有無が曖昧になる。
「……ところで、なんでわざわざ呼んだの?」
 正解のない問題を、わたしは頭の隅に追いやって当初からの疑問を聞いた。シズクが雀の涙ほどしか残さなかったカルボナーラを食べている目の前で、まるで今までの話を洗い流すように。
 クロロが咀嚼している間、口寂しいわたしは自分で買ってきた野菜スティックを咥えた。そして先ほど受け取った本を手に取り、ぺらぺらと捲る。クロロは、あと一口分のパスタを器用にフォークで巻き、口に入れる寸前にわたしの問いに答えた。
「それ、お前が欲しいって言ってた本だろ?」
「ほ(そ)うだけど」
 それ、と呼ばれたのは今はもう絶版となっているコーンブレッドのレシピ本だ。コーンブレッドではなく、コーンブリッツを使ったレシピ本だと言った方が正しいのかもしれない。
 ぼりぼりと野菜を噛み砕きながら、この本の話題をしたのはいつだったか記憶をサルベージしてみる。引き上げた先に見えたのは2週間以上も前、深夜の帰り道。
「今日、商談相手の妻が大量のレシピ本を持っていると聞いてたから、持ってたら譲ってくれと頼んだ」
「……うん」
「家にまで出向いたらこの時間になった。やるよ。欲しかったんだろ?」
「うん、まあ、そうだけど別に今日でなくてもよくない?」
 クロロが残りの一口を平らげる。マイペースに噛んで最後にビールを飲み干すと、さも当然のように答えた。
「嬉しいことを分かち合うっていいなと思ってね」
「少年誌か」
 ビールが入っていたコップを、コツンと置いてクロロは至極真面目な顔をして言った。
「早くお前に渡したかっただけだ」

 もしも、わたしたち友人の定義がわたしだけの手で作られるのなら、もうこんなことはやめて欲しい願うだろう。
 けれども、わたしがそれを願うことはなかった。なぜなら友人や男女を超えて、人として嬉しかったのだ。
「……バカじゃないの」
 悪態は小さすぎてクロロに届いたのか分からない。歓喜を隠し切れない歪んだ口唇に力を込めて、わたしは下を俯いた。

 名前を呼ばれて、弾かれたように顔を上げれば頬杖をついたクロロが意地の悪い笑みを浮かべている。
 何を言おうとしているか、解っている。でも今は、その台詞を言わせてあげよう。
「ありがとう、は?」
 親しき者にも礼儀あり。今日の議題となった言葉だ。
 わたしは、少し眉を困らせて隠していた喜びを口許に宿らせた。
「ありがとう、クロロ。すごく嬉しい」

「――で、
「うん?」
「なんでオレのパスタが少ししかないんだ?」
「…おいしかった?」
「ああ、うまかった。また作ってくれ…今度はコーンブレットも一緒に」

コーンブレットも一緒に

(クロロってありがとう言わないな、と)
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(20160923)

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