クロロの住んでいる仮宿のキッチンには、呆れるほど簡易的な調理道具しかない。
 フライパンとフライ返しにレードル、それぞれ一つずつ。せめて、ここで片手鍋くらいは欲しいところだ。よくこれで一人暮らしが出来たものだと本人に言えば、何とでもない返事が返ってくる。
「これだけあれば十分だけどな」
 先日、新たな顔ぶれが増えた。大きくて丸い、存在感が半端ない中華鍋である。


 事の発端は、わたしが初めてクロロにカルボナーラを作ったことが切欠だった。
 ほぼシズクが食べつくしてしまった残りのパスタが残念だったのか、後日作りに行くと、わたしの調理姿を見て感化されたのだろう。今度は、あれが食べたいこれが食べたいと強請ってきたのだ。
 が、わたしはそこまで料理の腕には自信がない。なぜならクロロが所望したのはエビチリだ。エビチリ経験のないわたしは即刻断ったのだが、その後なぜかクロロ自身が作ることになり、中華鍋が新顔としているわけである。
 クロロはレシピ本さえあれば何でも作ってしまう器用な男だ。しかしながら本人曰く、あまり料理はしないらしい。料理をする、という行動原理が起きないようだった。
「背腸、全部取れた?」
「まだだ」
 生姜をみじん切りしている横でクロロはナイフを使い、切り込みを入れて背腸を丁寧に取っていた。背腸の取り方を一度教えてみれば、すぐさま真似をし、手際良いその姿は、既に背腸達人である。
 その横で、材料を切っているわたしは、生姜のみじん切りを終えると今度は包丁を軽く洗ってからニンニクを取った。これもみじん切りコースだ。
「クロロって何でも出来るのにしないのがもったいないよね」
「料理をしようと思わなかったからな」
「でもお腹が空けば作らないといけないじゃない?」
「食べに行けばいい」
 この通りである。まったくもったいない。
 横を向けば真剣に背腸を取るクロロの横顔が、芸術品のように綺麗で。
 ――ハイスペック。
 社長の地位、顔も良くて料理も出来る。おまけに頭の回転も早く頼りにもなる。これをハイスペックと言わずになんと表現すればいい。
「どうした」
「…ううん、キッチンで2人で立ってるのがちょっと面白いなって」
「面白い? 面白いと言ったら面白いかもな」
「え、面白いの? 全然そんな感じしないんだけど」
 たまに傷なのは、時々意思の疎通が図れないことくらいだ。

 重い中華鍋はクロロに託して、わたしは隣で材料を入れることになった。クロロといえば、片手で軽々と中華鍋を持ち上げている。もう片方の手には、レシピ本を持つほど余裕だ。
 クロロに言われた通り、鍋に材料を入れてゆく。レードルでくるくるとかき回して色が変わるまで待つ。
 その流れを見て、わたしは何を思ったのだろう。以前から気になっていたことを口走った。
「クロロの実家って近く?」
「遠くはないよ」
 ふ、とクロロが静かに笑う。
「シズクに何か聞いたか」
 見透かされていると思った。わたしは咽喉を詰まらせたように、それ以上言葉を紡げなくなる。
 本来は正直に、ここでシズクから聞いたと言えばいいのだが憚れた。それはシズクがクロロの出生を洩らしたことによって二人の間に亀裂が入るのが嫌だった。何よりもシズクは社員で、この人は社長という立場だ。幾ら家族のようでも、すぐさまに頷けない。
 こうなることは予想の範疇でもあったのに彼を知りたいという好奇心が勝ってしまったのだ。
「どこまで聞いた? 凡そ出生は聞いてるだろ」
 わたしは次の食材を放り込んでから、観念して答えた。
「聞くつもりはなかったの。ごめん」
「謝るなよ。別に聞かれてまずい話じゃない」
 更にレードルで混ぜて、塩・胡椒で味を整える。小皿で味見をしたクロロが、それをわたしにも渡してくる。
「オレはまだいい方だ。物心ついてから孤児院に入ったからな。酷い奴は生まれてすぐに置き去りにされて明確な誕生日すらわからない奴もいる――どう旨い?」
「だから社員のみんなが家族なんだね。友達がいらないわけだ――おいしい!」
「家族? ――エビ入れて」
「うん、シズクが言ってた。違うの? わたし的にはすごく納得がいったんだけど――エビ入りまーす」
 下ごしらえをしたエビを一気に鍋の中に投入する。クロロが鍋を振るうとニンニクと豆板醤の匂いが食欲をそそった。次にネギ、片栗粉でとろみを付け、お酢を少し。
「最後に強火と書いてあるな」
 クロロがレシピ本を見てそう言ったので、すかさずクッキングヒーターのボタンを連打して最強にすると、鍋は一気にぐつぐつと唸り始めた。ある程度、沸騰させてから火を止める。
「完成だね」
「大皿あったかな」
 キッチン棚の戸を開いて、たった一枚の大皿を取り出したわたしに、クロロは少し驚いた顔をした。「よく見つけたな」
「この間、パスタ皿を探してるときに発見したの。ていうかクロロん家のお皿、統一感ないよね」
 シャル曰く、家具・雑貨含め輸入会社を経営しているのだから、さぞかし洒落たティーカップなどが揃えているだろうと期待に胸を膨らませたが、その期待は底なしに沈んだ。
 お洒落なのはあるが、柄がちくはぐで統一感はない。機能性重視のタンブラー、ビール用なのかシンプルなグラス。肝心のティーカップがない代わりにマグがひとつ。
 唯一誉めたのはステンドグラスを沸騰させるようなガラスコップが2つあった。これは可愛い。
「輸入品の中で適当に気に入ったものを持ち帰ってるだけだからな」
「適当に気に入ったもの? 変なの」
「本当に欲しくて入手したものは別の場所に置いてあるんだ」
 ふーん、と鼻を鳴らして、わたしは手に持っていた皿を置いた。
「もしかして今の会社を立ち上げたのは、自分で欲しいものがあるから?」
 輸入家具、雑貨、などなど。自分で買い付けたり、交渉すれば販売だけではなく、あっさりと自分の物に出来る。それはコネクションを作れば可能性が広がる。わたしがクロロに問うたのは、自分だったらそうすると安易な考えからだ。
 クロロは中華鍋を持ち上げたが、また元に戻してわたしの方に顔を傾けた。なぜか黙ったまま凝視されて、今度はわたしが小首を傾げるとクロロは、ふ、と笑う。
「ご名答…と言いたいところだけど半分正解」
 クロロが少し離れろと目配せしたので、一歩後ろに下がると中華鍋の中身が一気に皿に盛り付けられる。最後にレードルを何度か振るってるのを見てからエビチリを覗いた。美味しそうだ。
「欲しい物がわからないから欲しいんだ…いや、全部欲しいといった方が解りやすいのかもしれない」
「なにそれ、欲張りだね」
 出来上がったエビチリを持ち上げて、わたしが笑うとクロロは曖昧に返事をしただけだった。
 湯気が舞う皿を持ち、軽い足取りでダイニングテーブルを目指した。クロロがビールを飲むなら、その準備を。わたしはもう食べ物で頭の中はいっぱいだった。
「――始めは、ただ欲しかった」
 背後で呟いたクロロの言葉は、鍋を置いた音にかき消され、彼へと還った。

 いただきます、とお互い声を上げてから、わたしは小皿にエビチリを盛り付ける。クロロは壜ビールの栓を抜いてグラスに傾けていた。わたしはコンビニで買ったアイスティーを可愛いと言っていたグラスに注ぎ済みだ。
 机上にはエビチリの他にチャーハンとスープも並んでいる。スープは先ほど即席で作った卵スープ。チャーハンは店の厨房を借りて作ってきたものだ。それらも盛り付けて、ちくはぐだらけの小皿は不恰好だが夕食には十分だった。
 ふたりで乾杯してから、わたしはエビチリを一口。予想通り美味しい。クロロはビールを飲んでからエビチリを口に入れていた。
「美味しいね」
 クロロは満足気に頷いてチャーハンも食べている。その様子を微笑ましく思いながら、わたしもチャーハンを頬張った。
「――家族とは……言い得て妙だな」
「どうしたの」
 口の中のチャーハンを卵スープで押し流してから、わたしは聞いた。テーブルに座ってから妙に口数が少ないと思っていたが、どうやらまた何か思案しているようだった。
「お前が言ってた、シズクの言葉だ」
「クロロは家族だって思わなかった?」
「血の繋がりがない」
「…同じ屋根の下で一緒に暮らして、食べて、思いやりがあるなら、もう家族だよ」
 わたしは、ごく一般の家庭に生まれて、両親もきょうだいもいてクロロのような特殊な環境の中で育った気持ちは分かち合えない。でも、もし今の家族に血の繋がりがないと仮定したらどうするのだろうと考えた。
 答えはあっさり。わたしも、今の家族もお互いが「家族だよ」と一言あったならそれだけで十分なような気がする。思春期に言われたら戸惑いそうだけど、少なくとも今のわたしには十分だ。
「そういうもの?」
「だって考えてみてよ。結婚だってそうじゃない」
 血の繋がりのない者同士、好き合った者同士が結婚して家族になる。そう思ったら、例は結婚だったが同じ屋根の下で暮らす事実が同じで大差ない。
「例えばね、シャルやシズクが誰かに騙されたり、傷つけられたりしたらどうする?」
「…全力で潰しにかかるな」
 久々に見た、クロロの据わった目が本気だと言っていた。
「そ、それ! そういうのがあれば十分」
「じゃ……お前も?」
「うん?」
 何の同意を求めているのか解らなくて、思わず即答で聞き返した一言は酷く間抜けなものだった。そんなわたしの様子に、クロロが即リターンする。
「オレはお前を泣かす野郎がいたら全力で潰すよ」
「…」
「友人とはこういうものなんだろ」
 別に一緒に暮らしているわけでも年月を重ねているわけではない。それでもクロロの一言は単純に嬉しかった。
 もしも、今後好きな人が出来てそいつに振られたら一番にクロロに言うのも悪くはない。潰すのはアレだけど、クロロの一言で胸の重みは取れるだろうから。
「じゃあ、わたしも。クロロを泣かす女がいたら三倍返ししてくるからね」
「それはないな。オレが泣くというより、女が先に泣くよ」
「……お、うん。じゃあ逆に女の子を慰めようかな」
 本当に在りそうな話で、わたしたちは目を合わせるとふたりで笑い合った。
 美味しいものを食べて、会話和弾ませて、仕合わせを積み重ねていく。クロロとは出会ってから一年も経っていないが、不思議と年月を感じさせない空気があった。これを恐らく相性というのかもしれない。

「――暑いな」
 少し距離のあるガラステーブルからリモコンを取ったクロロは、エアコンのスイッチを押した。機械的な音がなると、涼風が吹き出てくる。
「もうすぐ本格的に夏だね」
「そうだな。海にでも行くか」
 クロロから海という言葉が出るとは驚きである。休日のクロロはインドアで時間があったら酒を飲むか本を読むかの二択だ。時々、仕事もあるらしいが。
「そんなに驚く?」
「あ、顔に出てた? だってすごく意外で」
 ふう、とため息を吐いて、こちらに戻ってきたクロロは残りのビールをグラスに注いだ。
「オープンカーがあるんだけど、そろそろ売ろうと思ってる」
 最後の一滴までビール壜を揺らし、空壜をテーブルの端に置いたクロロは少しぬるくなっただろうグラスの中身を呷った。良い飲みっぷりに「もう一杯?」と聞くと首を横に振られる。
「最後にそいつを走らせてやりたいんだ」
「わたしと海に行って見納めしようとか?」
「ああ」
 クロロと海など、まるで想像がつかないがオープンカーの助手席で潮風を受けるのも悪くないと思った。
 つばの大きい帽子と一応日傘も持っていこう。水着は考えてない、たぶん泳がないから。代わりにリゾート気分でマキシワンピがいいのかもしれない。
「海か…何年ぶりだろうな」
「わたしは去年友達と行ったよ」
「水着で?」
「もちろん。……あ、今想像したでしょ?」
「自惚れるなよ」
 鼻で笑ったクロロに対し、少し悔しくて足を蹴るが、あっさり避けられた。更に悔しくなって反対の足を使うが、またもや避けられる。
「惜しかったな」
 テーブルの下の攻防戦は続く。

テーブルの下の攻防戦

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(20161023)

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