ソファの上で寝そべりながら、漫画本を読む。クロロの部屋にあるソファは、適当に持ってきたと言っても、安くはない代物で居心地が良い。 横から流れてくるテレビの音はBGMみたいなもので電源は付いているけど見てはなかった、ふたりとも。 ふたり、とは――部屋の主、クロロはいる。彼はベッドサイドにあるパソコンの液晶画面を睨んでいた。哀れ液晶。わたしがパソコンだったら確実に戦慄している。 クロロの仮宿は大きなワンルームで、お互いの行動が手に取るようにわかるのだ。なのでクロロが、ため息を吐く気配もギィと鳴る椅子の音も筒抜けだ。もちろん、わたしの大きなお腹の音でさえ。 「……適当にキッチン使え」 命令口調は、お仕事モードの印である。 わたしは無言で立ち上がると、漫画本をガラステーブルの上に置き、空かした腹を撫でながらキッチンに向かった。 今日はお互い休日のため、わたしが以前から気になっていたクロロの本棚に注目した。彼の部屋には夥しい程の本棚があり、ジャンルは様々にあった。 わたしが読んでいた漫画、経済、哲学、小説……挙げたら切りがない。その中で、つい最近完結した長編漫画を読むため、休日こうしてクロロの部屋に入り浸っている。 クロロといえば、さっきまで隣で本を読んでいたのに仕事の連絡が入ったのか今はパソコンの前だ。仕事モードになると彼は別人のようになるため、そっとしておこう。それだけではなく、どこか不機嫌そうなのだ。 冷蔵庫の中を覗くと相変わらず空だった。しかし、こんな事だろうと、わたしが買ってきたものが野菜室で眠っている。それを取り出して、まな板に包丁も用意する。 ポトフにするか、カレー粉があったら野菜カレーでもいい。適当に使えと言われたので、キッチン棚や引き出しを調べるとスパイスが眠っていた。 君に決めた。わたしは手を洗うと、野菜を手に取った。 : 即席だが食べれる程度の夏野菜カレーが出来た。ナンにするかお米にするか散々悩み、イースト菌の素があったため結局はナンにした。前の彼女か誰かが残していったのだろうか。 フライパンで焼いたナンを大皿に置いて、カレーは深底の中皿に盛りつけた。相変わらず、皿の統一感はない。 テーブルにセッティングしてから遠くにいるクロロを見る。声をかけようか迷っていると振り向かれた。 「カレー? 出来たのか」 「うん。一応用意したけど食べる?」 「ああ、食べる」 返事をするとクロロはパソコンの電源を落とさないまま、こっちに向かってきた。まだ、やることがあるのだろう。 アルコールは用意しなかった。クロロは仕事の真っ最中であるため、代わりに冷蔵庫にあった、ペリエの壜を拝借した。コップを二つ用意して、それを注ぐ。 お互いに座ると、クロロは無言で食べ始めた。わたしはきちんと「いただきます」を言った。 「……」 「…眉間のしわ、すごいよ」 「ああ」 「なんかあった?」 ナンをちぎるクロロに、そっと話しかける。クロロは気に食わないことや予想外のことがあると、すぐに眉間のしわを寄せる癖があった。 「出張に行く。二カ国だ」 二カ国ということは国外か。わたしだったら旅行気分で行くところだが、クロロは違うようだ。 「嫌?」 「嫌な訳じゃない。会社にとって出張が必要なものならな」 「…じゃなんで不機嫌なの?」 クロロが何を言いたいのか理解しかねず、思わず聞き返すと一瞬わたしに目線を合わせてから逸らした。 「近頃、出張はフィンクスやフェイタンに任せっきりにしていたが、それが仇になった。くそ、まさか先方がああ出てくるとは……先に言えという話だ」 めずらしく苛立ちを隠さず、強気な口調でクロロは未だ一人でぶつぶつと言っている。ようするに、クロロ自身でなければならない事態になっていることだけはわかった。 知らない人の名前は敢えてスルーしておこう。たぶん、信頼のおける部下だろうから。 「二カ国周らないといけない、ということは今回、最低でも二週間かかる。この意味がお前にはわかるか」 「うん、わからないかな?」 わたしの返答は自分でも驚くほど簡単に滑った。それが逆上の材料となってしまったようで、クロロは持っていたナンを握りつぶして答えた。 「何日会えない日が続いたら友人ではなくなるんだ」 「…………ん?」 少し意味がわからない。二週間会わないだけで、なぜそうなる。 「別に決められてるわけじゃないと思ってるけど」 「仲の良い友人とは、こうして毎回会うことじゃないのか」 わたしは一瞬でクロロの言う"友人"について整理してみた。 友人といえども親友レベルに対する人、度々、久々、などなど色々な友人がある。その中でピラミッド型に形成してみれば分かりやすいのかもしれない。トップに君臨する友人――もしかしたら、それがクロロの望む関係なのだろうか。 「お前は、あの日言ったな。わたしたちなりの友人関係を作ろう、と。じゃオレたちの場合はどうなんだ? 会えない時はコールでもすれば埋められるのか」 もしも、わたしがクロロ以外の人に言われたら「用があるとき」「会いたいとき」と言っていたのかもしれない。でもその2つはクロロに言ってはいけない気がした。 前者は、恐らくあっさりとわたしたちの関係が瓦解する。後者は、まるで恋人同士にも言える台詞で誤解してしまう。むしろ、わたしの方が。 「……確かに、わたしたちなりのとは言ったけど、さすがにそれを決めたら義務になるんじゃないかな」 「…」 「友達や恋人同士に、そういうものを決めるのはどうかと思うよ。だって会うのは理屈じゃないもの」 わたしたちが会うのは、ほぼクロロからの連絡が主だ。何度か、わたしからの連絡で誘ったことはあるが、この人は社長だった。こう見えても多忙だ。 だからクロロからの連絡を皮切りに、クロロの都合の良い日をわたしが選ぶという形で成り立っていた。 「……なるほど」 力なく手を机上に下ろして、クロロは俯いた。眉間のしわは取れたが、相変わらず無表情で何を考えているのかわからない。 「考えさせられるものだな……義務、か…」 緩く握っていたナンが、ぽとりとテーブルに傾く。クロロは押し黙ったまま、一点を見据えていた。いつもの、何かを考える素振りとは違う、独り言を言うわけでもなく。 何かといえば、読書の時に見せる表情だ。クロロの頭中は、いったい何に占められているだろう。こうして話すようになって時間を重ねてきたが、やはりわたしはクロロが掴めなかった。 誰よりも博識なのに、時々どこかズレている。まるでパズルのピースが不釣り合いなのを知らないまま嵌めているように。 「クロロは知らないのが怖いの?」 ゆっくりと顔を上げたクロロの双眸はアーモンド型に縁取られ、漆黒の瞳は丸みを帯びていた。少し驚いているように見えた。 「…どうだろうな。知らないからこそ得たいと思うが、怖いと思ったことはないな」 「……そう」 「、お前自身はどうだ。怖い?」 「他人を知るのは怖くないよ。むしろ好奇心がすごいし…怖いのは自分のことかな」 そう、いつだって怖いのはわたし自身だ。 わたしは、わたしの変化に怖い。こうしてクロロといて、いつか自分が変わってしまうのではないかという不安が、漠然とへばり付いている。 「そうか」 「うん」 わたしが相槌を打つと、お互いそれ以上は黙り込んだ。食器の音がこすれ合う背景が今のわたしたちの全てだった。 : 「…――何かを」 随分と長い時間をかけた後に、沈黙を破ったのはクロロだった。 「何かを得れば放棄しなければならないものが増えてくる。それは無意識における必然だ」 わたしは唐突に言われた言葉に理解が追いつかなくて、自然と首を傾げた。 ふ、と口許をしなやかにカーブさせたクロロは先程までの無表情はない。この沈黙の間、ずっと考えていたことは予想がつく。それが何かわからないけれど。 「変化というものは、そういうものなんだろう。お前はさっき言ったな、無知が怖いのかと」 「…うん」 「オレは面白いと思う。他人にしても、自分にしても」 スプーンを置いて、両手を組んだクロロは、この日一番の笑みだ。 「不安になったときはオレに相談でもすればいいよ」 わたしは、これが彼なりの慰めだと気づいた。少し理解出来ないが、先ほどまで一生懸命考えた、彼なりの優しさなんだろう。 「オレたちは友人…なんだろ」 「……うん」 (クロロは気づいているのだろうか)
時々、クロロはこうしてわたしの中における友人関係の定義をいとも簡単に破壊する。確かに「わたしたちなりの友人関係を作ろう」とは言ったものの、大半の人が理解しているものを平然と知らない。 そして思うのだ。 「ねぇ、クロロ。出張中に寂しくなったら電話してもいいよ?」 クロロは<全て>を"友人"という枠に収めようとしていることに。 ――それは一所懸命に、まっすぐにと。 「それ、そっくり返すよ」 整った顔が柔らかに破顔する――まるで一枚の絵画のようだ。 わたしは、この笑顔を当分忘れそうにないだろう。 その日の夜、クロロは言葉通り出張に出かけた。わたしに一枚のカードキーを渡して。 『用があるんだったら使えばいい』 『え? さすがにそれは…』 『まだあの本、読み終えてないだろ』 あの日の帰り際、クロロから渡されたのは仮宿のキーだった。 さすがに家主が不在の部屋を使うのは気が引けて断ったのだが、わざとらしい言葉で巧く丸め込まれてしまった。 『気を使うなよ。それともオレたちは友人じゃないのか?』 渋々、向けられたキーを受け取るとクロロは満足気な顔をした。 会社のものとか、見られたくない例えばエロ本だとかあったらどうするんだよ、という喉までつっかえている台詞は強引に飲み込んだ。クロロのことだ。もしものために金庫にでも突っ込んでいるだろう。 財布にキーを仕舞い込んだ。これを使うのは、もう少し後の話。 財布にキー |
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(20161115)