早めに昼の仕事が終わったため、友達と食事に出かけるのもいいのかもしれない。 そう思うと、着替えを済ませたわたしはロッカールームを出てすぐに携帯を手に取った。すると、携帯から連絡を知らせるランプが明滅している。 電源を付けて見れば、相手はシャルだった。今日はお互いにバーの出勤日でもない。 めずらしいと思いながら開いて読むと、要約するに"仕事が終わり次第連絡をくれ"という内容だった。急ぎか何か、こんなことはなかったので慌ててコールすると、待ってましたと言わんばかりにシャルは電話に出た。『店長』 「シャル、どうかした?」 『お疲れ様。今、まだ店?』 「お疲れ様。たった今出たよ」 『ちょうどよかった』 裏口のドアを開け、大通りまで歩いて話をしていると数メートル先にいる金髪を見つけた。 シャルだ。お互い姿を見つけて手を振ると、電話を切る。 「どうしたの」 「話はあと。乗って」 駆け寄れば、シャルは寄りかかっていた助手席のドアを開けて車に乗るよう促してきた。 一瞬、わたしは困惑したが時間もあることだし、シャルだしと理由をつけ車に乗り込んだ。心の中で、このまま自宅まで送ってくれないかな、と狡猾なことを考えながら。 車中はラジオが流れていた。ノイズ混じりに流行りの歌を双耳で拾っていると、シャルはラジオのボリュームを小さくしてから話を切り出した。 「突然で悪いけど今から社長の家に向かうから」 「家?」 「ああ、仮宿の方。仕事関係でちょっとね。生憎、社長のキーを持ってるのは店長しかいないんだ」 「どういうこと? ていうか、なんで知ってるの」 少しだけ恥ずかしくなったのはなぜか。 わたしは一度疑問を抱くと、それを抱き潰した。恋人でもない、家族のように親しいわけでもないわたしがキーを持っているなど、わたしがわたし自身に対して勘違いしそうだったからだ。 「さっき社長から連絡がきたんだよ」 クロロが出張に出かけてから10日が過ぎていた。一度だけ、取り留めのない連絡をしてみたが返ってきたのは翌日で本当に忙しいのだと思った。だから、わたしは帰国したらお土産話でも聞こうと、それ以上の連絡はやめていた。 仕事の話とはいえ、シャルに連絡をしてきたのなら元気なのだろう。わたしは、こっそり安堵する。 「確かめたいことがあるってね。社長のパソコンを調べたいんだけどキーを持ってるのが店長しかいなくてさ。いつもはオレかパクに渡すんだけど、生憎パクは社長と同行してるし、急だったからオレも貰いそびれて」 シャルは苦笑すると掻い摘んで説明してきた。なるほど、と納得していると先ほどの会話の続きらしい。シャルが聞いてもいないことを喋り出す。 「あ、パクっていうのはパクノダ。社長の秘書だよ。一度バーで会ったことあるはずだけど」 そう言って、パクノダという人の特徴を言ってきたが、わたしの記憶にはまるでなかった。何せ、クロロとテキーラ勝負をした日のことは、シャルの同僚を頭に入れるなど余裕はなかったのだ。 「憶えてない?」 「ごめん、全然」 「店長、あの時完全に酔ってたもんね」 あの日、と呼ばれた日のことを二人で懐かしみながら談笑する。 向かうはクロロの仮宿。それが蜘蛛の巣だと、この時のわたしは思いもよらなかった。 「ていうか、わたしからキーを貰えばそれで良かったんじゃない? わざわざ連れてこなくても」 エントランスを抜け、エレベーターの箱に入って早々に、わたしはふとした疑問を口にした。 シャルは最上階のボタン押して、わたしの横に並ぶと、ゆっくりとドアが閉められるのを待ってから開口した。 「返すの面倒じゃん。それに、終わったら食事にでも行こうと思ってさ」 「いいね、なに食べる?」 「お気の召すままに、女王様」 「…誰が女王よ」 浮遊感を感じながらいつものやり取りをしていると、エレベーターのドアが開けられた。それから目的地であるクロロの部屋の前に立つと、わたしはキーをシャルに差し出す。シャルによって開けられたドアの向こう側は、10日振りの部屋が佇んでいた。 わたしよりも早く、さっさとパソコンの前に向かったシャルは電源を付けるとパスワードを入力しているようだった。何となく見てはいけない気がして、わたしは換気をしようと最奥にある窓を開けた。 夕暮れの橙色をした空は、雲と混ざり合い沈みかけの太陽が歪んでいる。心地よい風が、わたしの髪を攫う。 すると背後で、ぺらぺらと音がなっている気がした。気のせいかと思い、無視をしていたが止むことはなかったため振り向く。 わたしの背後は、よく漫画本を読んでいるソファとガラステーブルがある。そのテーブルの真ん中にはメモホルダーがあり、一枚だけメモが取り残されていた。これが風に弄ばれていたのだ。 数秒、わたしはメモを凝視した後、デジャヴを感じつつ、恐る恐るメモを取った。書かれている文字を最後まで目で追ってから、そのメモを、くしゃりと握り締めた。 早足でシャルがいるところまで行くと、彼はパソコン画面に向かい作業しながら電話をしている。相手は解っている。 「…――じゃ、そういうことで後は大丈夫だよね……と、ちょっと待って」 わたしの形相があまりに酷かったのだろうか。シャルは唐突に近寄ってきたわたしに気づくと、一寸間を開けてから無言で携帯を渡してきた。察するに、どうやら仕事の話は終わったようで、わたしは躊躇なくそれを受け取った。 すう、と息を吸う。この感情は悔しいのか嬉しいのか、誑かされたのか。言葉にするには少し難しい。だから、わたしが一番最初に言い放った言葉はこれだ。 「クロロ!」 名前を呼ぶことしか出来なかった。 携帯の奥からは、くつくつとした笑声が微かに聞こえている。 「わざとシャルに仕事の内容を確かめるよう、仮宿に誘導したでしょ? キーだってわたしだけに渡したのも初めから…――」 『良かったな、本の続きが読めて。ま、小言は帰ってから聞くとして…持ってけよ。本の続き、気になるだろ? どうせ一度もキーを使っていないはずだ』 「騙された感半端ない」 わたしとクロロの会話は、近くにいるシャルに聞こえているはずもないのに、この察しの良い金髪男は、ぽんと手を叩いて何かに納得していた。そして、クロロと同じように、くつくつと笑い始めた。 そこは笑うところじゃなくて「やられたー」じゃないの、シャル。 『元気そうだな』 「…そっちもね」 『仕事が予定よりも早く終わりそうなんだ』 「そう…気を付けて帰ってきてね」 思えば、10日振りのクロロの声だった。 『……一人でマティーニを飲むのが久しぶりだったからか、どうも味気ないんだ。なぜだか分かるか?』 「決まってるじゃない。わたしがいないからでしょ?」 冗談で言ったはずだった。友人とは、クロロともこうして他愛ない会話を重ねてきたはずだった。 『正解。言うまでもないな』 しかし、この一言で面食らったわたしは、途端に心を締め付けられる感覚を覚えた。例えるなら無数に絡まった糸が、心だけではなく、動くなとわたしをも拘束している。また、声としての二の次も紡げなかった。 ここでタイミング良く携帯の最奥から女性の声が聞こえてきて、クロロがわたしではない誰かと会話をしだした。恐らくパクノダという秘書の女性と話をしているのだろう。 少し待っていると最後に爆弾を落としてきた。いや、これは逆襲か。 『そうだ、言い忘れてた』 「なに?」 『寂しくなったら電話してもいいよ』 これは出張に出かける前に言ったわたしの台詞そのままだ。 「……寂しくないのでしません。今日はシャルとお食事ですし」 『残念。…切るぞ』 その会話を最後に電話は切れた。 わたしは携帯画面を少し眺めてから、シャルにそれを返した。なぜ、あそこで冗談として受け止めきれなかったのだろう。その疑問も一緒に、シャルに押し付ける。 「嵌められたね、お互い」 にっこりと満面の笑顔を向けるシャル。持ち抱えていた疑念の重さは軽くなったが、問題はふりだしに戻る。シャルでさえ、クロロに嵌められたことが分からなかったのだ。 わたしは、認めざる終えないこの状況に渋々頷いてから、漫画の続きを探しに行った。敗北感からか、足取りは軽やかではなかった。 最後、オートロックがかかったことを見届けてから、シャルはわたしにキーを渡してくる。戸惑いつつも、それを受け取り財布に仕舞う。 社員でもあり、家族の一部でもあるシャルまで騙すなど、クロロは侮れない。やはり、わたしは彼の手のひらの上だ。いつかは下克上したいと思ってみたものの、それが実現するのに、道は長そうだ。 それから、ふたりで向かったは流行のレストランだ。どうやらシャルは前々からチェックしていたらしく、平日の今日なら大丈夫だと踏んでこの店に決めたようだった。 店内は落ち着いた雰囲気で、わたしの予想とは少し違っていたため、メニューはシャルに任せることにした。 ノンアルコールのシャンパンで乾杯してから、わたしはずっと気になっていたことを口にした。 「クロロって昔から"ああ"なの?」 「ああって……ま、昔から変わらないよ」 ふーんと返事をして口を尖らせる。わたしの表情が変だったのか、シャルが笑っている。 「社長はさ、分かりにくそうでも案外わかりやすいよ」 「自分の思い通りにならないときは眉間にしわ寄せてるところとか?」 「機嫌がいいときは口角が上がってるとかね」 そこまで言って二人で笑い出した。今頃クロロは、くしゃみでもしているに違いない。 聞くつもりはなかったけど、シャルからクロロの昔話を聞いた。小さい頃から統率力とカリスマ性があったとか、常に一番だったとか。会社を立ち上げたときも、満場一致でクロロが社長になったとか。 彼は望んで社長になったわけではなかった。その事実は少なからずわたしを動揺させる。 「驚いた?」 「…うん」 「社長は"社長"を一生懸命やってるんだ」 「…なんか与えられたからやった、みたいに聞こえる」 率直な感想をシャルに言えば、彼は苦笑した。そして何か言おうと口を開けると、言動を遮るかのように携帯の着信音が鳴る。 わたしではなく、シャルだ。シャルは「ごめん」と言うと席を立った。一人取り残されたわたしは、半端にしていた料理を口に運ぶ。 「あんたがだね」 唐突に声をかけられたため、弾かれたように顔を上げると綺麗な女性と髭の生やした男性がいた。目が合った瞬間、二人は、なぜか上から下へとわたしを舐め回すように凝視している。 「…はい、そうですけど」 「シャルがここにいるって聞いたんだけど」 「今、席を外していますが」 「んじゃ、ここで待たせて貰おうぜ」 なぜ? と思う前に男性は勝手にわたしたちの席に座ってシャルの皿にある料理に手をつけていた。女性もまた「仕方ないね」と言ってわたしの隣に座る。 どうしてこうなった。 何事かと焦っていると、ようやく求人が現れる。 「ノブナガ、マチ」 二人組みの男女の名前は、ノブナガさんとマチさんという人で、二人もまた社員だそうだ。なぜ来たのか知らないが断る理由もないので4人で食事をしている。 ある程度の挨拶と、そしてやはりクロロの話題と。わたしに記憶がないだけでテキーラ勝負のこともあり、わたしの存在は二人にも知られていた。値踏みのように凝視された理由は、確認するためのそれだろう。 クロロ、みんなに愛されてるね。という突っ込みは初対面の二人に言うには戸惑われたため、心の中に鍵をかけた。 会話の中で今日の出来事も話題になった。クロロに嵌められた経緯と理由を言えば、ノブナガさんが爆笑している。マチさんは「社長だもんね」と、どこか誇らしげに言っていた。 「そういえば、店長はなんで嵌められたってわかったんだ?」 「メモがね、あったよね…」 「メモ? なんて書いてあった?」 らんらんとおもちゃを見つけたように聞いてくるシャル。バッグに押し込んだメモは無造作に入れたため、もはや紙くずだ。それをポイ、と渡す。 数秒後、くしゃくしゃになったそれを見開いたシャルが、ぷっと噴出して笑っている。続いて、他の二人もまたメモを見る。 あの人は、わたしの性格を熟知し、罠を仕掛けなければキーを使わないと踏んだのだろう。そして、この一言で理解しろという文字にはないメッセージが滲み出ている。それは、シンプルな言葉こそ響く。 あの日、クロロはわたしにこう言った。 『まだあの本、読み終えてないだろ』
(そしてこの置手紙)
メモ恐怖症になりそうだ。 本は5冊まで |
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(20170126)