わたしは今、他人のカードキーを片手にマンションのエントランスにいた。エレベーターで最上階を目指し、お目当ての部屋を探し出してドアの前に立つ。片手で数える程度しか訪れたことがない場所は、わたしにとってまだまだ未知だ。
 カードキーを差し込んでスライドすると、あっさり開錠された様子に一人歓喜してドアノブを押す。目の前に広がったのは無人を知らせる暗闇だ。
 ――なぜ、わたしが一人クロロの部屋を訪れたのか。少し時計の針を左回りに巻き戻して見よう。


『店長、はい』
『え?』
 金曜の夜だった。いつも通り仕事をラストまで駆け抜け、ロッカールームで着替えたわたしは、早めに帰ろうと心に決めていた。
 今日はパスタでも作って、バスタブにしっかりと浸かり、毎週楽しみにしているドラマを見てから夢を見よう。そう思っていた。叔母からベーコンの塊を丸ごと貰ったのが切っ掛けで、カルボナーラの気分。
 ――そう思い、廊下に出て見れば笑顔のシャルに出くわし、あの会話をしたのである。
『なにこれ』
 シャルに差し出されているのは、一枚のカードだった。訝しげに眺めていると、早くといわんばかりに、カードがぺらんぺらんと揺れる。
『社長の部屋のカードキーだよ。早く受け取って』
『なんで?』
『あれ? 社長から連絡ない?』
 わたしは首を縦に振り落とすとバッグを漁って携帯を見た。画面には[シャルナークから鍵を受け取れ]と書かれているメッセージがあった。タップしてよくよく見れば、やはりクロロから送信されたものだ。
 そこに理由はない。ただ鍵を受け取れとその後の展開がないのだ。一応言っておくけど約束もしていない。
『鍵を受け取れとは書いてあるけど』
『それだけ?』
 わたしは数日前に会ったクロロとの会話を思い出してみたが、記憶にはない。アルコールが回っていたせいかも考えてみるものの、やはりない。
 考え込んでいるとシャルに手首を捕まえられ、間抜けな手のひらにカードキーを押し付けられた。『え、ちょ、待っ――…』
『じゃオレ渡したから』
 ひらひらと手を振ったシャルの背中に、わたしは手を伸ばしたがそこから固まって動けなかった。未練があるのは冷蔵庫に眠るベーコンの塊だ。

 そして、今に至る。もっと詳しく言えば、一度自宅に帰り、カルボナーラの材料をかき集めて出てきたわけだけど。わたしは決してカルボナーラを諦めていない。
 クロロには[キッチン貸して]と連絡を入れておいた。ついでに[約束してた?]も送ってみたが、たった今来た返信は[適当に。遅くなる]の短文だった。
 遅くなるのなら家で食べてたなぁと意志の疎通が図れていないことを悔やみながら、暗闇の中で唯一光っていたグリーンのランプを押すと玄関に灯かりが点される。
「お邪魔しまーす…」
 無人だが他人の家なので言わずにいられない。
 そこへ、背後からドアが開けられる音がした。「おかえ――」
 クロロかと思い、振り向けばまったく違う人で口走ったばかりの口がぴたりと止む。
「こんばんは。さんですね」
「こ、こんばんは。はい、はわたしですが…どちら様でしょう」
 振り向いた先には黒髪で大きな眼鏡をしている女性だった。タートルネックにジーンズというラフな格好に、なぜか手には掃除機が握られている。
「申し遅れました。あたしはシズクといいます」
「(えーと…)お疲れさまです」
 礼儀正しくお辞儀をしてきた女性に、わたしもつられてか頭を下げた。もちろん頭中は疑問符だらけである。
「今日は友人が来るということでお掃除を頼まれて来ました。いつもは定期的に来てお掃除してますが」
「家政婦さんでしたか」
「いいえ、あたしは会社に属してます。お掃除しにくるのはわたしだけではなく他の人も来ます」
「……なるほど」
 まとめて言えば、社長は多忙で掃除もままならないので定期的に掃除をしにくると言うことか。しかし社員に仮宿とはいえ、掃除をさせるのはいかがなものだろう。
 わたしの表情が正直に現れていたのか、目の前の彼女は「あ」と声を上げた。
「お掃除は、あたしたちが勝手にやっていることなので勘違いしないでくださいね。社長に掃除しろと今まで一度も言われたことはありません。今日以外の話ですが」
「今日以外?」
「はい、今日は友人が来るので頼むと言われたから来たんです。少し遅かったみたいですけど」
 そう言い切ると彼女は部屋に入り、掃除機のコードを引っ張った。
 なぜ今日クロロは彼女にお掃除をお願いしたのだろう。少し考えて、それはわたしが来るからだという自惚れに行き着いた。いや、単に汚い部屋を見せるのが嫌だっただけかもしれないけど。
 プラグをコンセントに差し込もうとしている彼女に聞こうとすると、盛大にお腹の音が聞こえた。
「…」
「……」
 わたしも腹は減っているが、正体は彼女である。
「……お腹空きませんか?」
「はい。空いてます」
「カルボナーラでよければ食べませんか?」
 わたしは、手元にある袋を見せる。
 既に時刻は9時を過ぎていた。彼女のお腹が鳴ったという事は夕飯はまだなのだろう。
 人使いが荒い社長だと思いながら、しかし社員である彼女は嫌な顔一つしていない。あの人が慕われている証拠だ。
 彼女は少し考える素振りをしてから答えた。
「でも社長のご友人ですし」
「一緒に食べてくれるとわたしが嬉しいんです」
「……じゃ頂きます」
 口許だけ笑い、彼女は掃除機のスイッチを押すと同時に、わたしはキッチンに向かった。主のいない部屋で今日初めて話した女性と二人きりとは、なかなかレアな体験だ。
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 キッチンの近くには、小さなダイニングテーブルがある。そこに二人分のパスタを用意して、来る途中コンビニで買ってきた野菜スティックを机上の真ん中に置いた。
 スープも作ろうかと思ったが、人様の冷蔵庫を勝手に漁るわけにもいかないし、何より驚くほど中身はほぼ空である。チーズやナッツ類など酒のつまみしかない。
 スプーンとフォークをキッチンから捜し当ててセッティングする。飲み物はこれまたコンビニで買ってきた紅茶だ。コップを拝借してシズクさんの分も用意した。
「シズクさん、出来ましたよ。何か手伝いましょうか」
「あともう少しです」
 部屋の隅で、せっせと本を仕分けしているシズクさんに近づいた。本だらけだった床は綺麗にまとめられ、今彼女は表紙や中身を見て分類している。恐らく仕事関係の物だろう。付箋だらけの本には書類らしき物も挟んであった。
 社員ではあるがいいのかな、と思いながらそれほど信頼していることも伺える。
「クロロって几帳面なのかずぼらなのかわかんないなぁ」
 思わず独り言を呟くとシズクさんは持っていた最後の本を置いて、綺麗に並べた。そして立ち上がると、わたしの方を振り向く。
「どうしてそう思うんですか?」
「だって本棚を見る限り、きちんと小説や漫画、哲学書で分類されてるし、でも時々部屋が足の踏み場がないくらい本だらけだし」
 独り言の延長で思わずタメ口になってしまい、わたしは気まずくなって口許を一文字に閉めた。目の前の彼女は察しがいいのだろう。「あたしに敬語を使わなくても大丈夫です」
「さすがにそういうわけには…じゃあ、シズクさんも敬語を取ってください」
「それはだめです。あなたは社長の友人です」
「……それは理不尽です。それに、ほら敬語を取ってくれるとわたしが楽なんですよ」
「…わかりました。それじゃ、あたしの事はシズクと呼んでください」
「じゃあ、わたしもで」
「うん、手洗ってくる」
 わたしの横を通り過ぎ、洗面台に向かう彼女に満足して、わたしはダイニングテーブルに向かった。

 チェアの一つに腰掛けて、シズクとの会話を思い起こしてみる。彼女にとって、わたしは社長の友人という立場なのだから仕方ないのだろう。でも少しむず痒いのはわたしの性だ。
 仕方ないのかな、と思いながら出来立てのカルボナーラを覗く。クリーム色のパスタを見て忘れ物に気づいた。
 胡椒だ。胡椒のかけ忘れに気づいて、キッチンからペッパーミルを捜し当てて急いでカルボナーラにごりごりかける。その間にシズクがチェアの背を引いていた。
「どうぞ。口に合うかわからないけど」
「うーん、やっぱり社長よりも先に食べるのは気が引けるかも」
「早く来ないあいつが悪い」
 ペッパーミルをテーブルの端に置いて、わたしも座る。フォークを持って「いただきます」と言うとシズクは少し考えてからようやくフォークを取った。「いただきます」
 二人で、もくもくと食べる。彼女からは美味しいも不味いも聞こえてこないものの、フォークが止まることはない。
 少し安堵して厚切りにカットしたベーコンを口に入れた。塩辛いベーコンは、やはりカルボナーラにぴったりだった。
「このベーコン、叔母から貰ったの。カルボナーラにぴったりとだと思って」
 思わず口から滑り出したのは、何て事ない世間話だ。
「だから社長にも食べさせようとしたの?」
 なぜだか、唐突にぶつけられた質問は、わたしの胸をざわつかせた。
「ううん、今日は偶然。なんで今日呼ばれたのか全然わからない」
 勝手な奴。とも付け加えると表情の乏しい彼女が少しだけ笑う。
 ざわめきの正体はなんだったのか、わたしはわたしに自問する。けれども答えは空のまま、宙を彷徨って消えた。
「社長はあなたと友人になってから少し変わったっていうか生き生きしてるっていうか、いつも楽しそうだよ」
「まさか」
 社内では、一体どんな噂になっているのか気になったが、怖いのでこれ以上は聞きたくないと思ってしまった。わたしがもし恋人だったのなら、ここは喜ぶべき場面なんだろう。
 ご覧の通り、わたしは恋人ではない。クロロの前では素をさらけ出しすぎて、近頃はスッピンに抵抗もないのではと思い始めている。それほど残念な醜態を晒しているのだ。
 わたしの存在が、どう広がっているのか、想像するだけで羞恥が生まれた。社員たちが慕っている社長の友人は残念なOLだ、と。
「そ、その話題はやめよう!」
 わたしは紅茶をがぶ飲みして、次の話題を引っ張ってきた。
「シズクは入社してから長いの?」
「あたしは他の人に比べると長くないよ。そんなに年数も経ってないし」
「じゃあシャルはもっと長いのかな」
 社長と呼んでもシャルとクロロの仲が良いことはわかっている。社長の立場を暴露してから二人はわたしの前で随分と話すようになった。いや、恐らくクロロが何かの壁を取っ払ったのだ。
「シャルと社長は幼なじみだよ。もっと言うならパクやマチ、ノブナガも――」
 続く幼なじみだろう人の名前が羅列されてゆく。一体何人の名前を彼女は言っただろうか。10人も言っていないが、やたらと多い。
「社長は孤児院出身だから幼なじみと言った人たちもみんな……あれ、聞いてない?」
「うん、初めて聞いた。わたしたちはそこまで深く話さないから」
 踏み込んでしまった未開の地に、わたしは無意識に「しまった」と思った。何となく土足で上がっていけない彼の過去を覗いてしまった。
 違う意味でシズクも「しまった」と思ったのか、それ以上続けることなく黙り込んでしまった。
 今日、彼女と出会ったばかりだが、感情が表情に出る人ではないことは何となく予想できる。だからこそ、彼女の顔からは何も読みとることは出来なかった。

「おかわりある?」
「うん、まだあるよ。食べるなら盛ろうか?」
「大丈夫」
 彼女は立ち上がるとフライパンからパスタを取り分けて、すぐにやってきた。わたしがペッパーミルを彼女に差し出すと「ありがとう」と言って受け取る。
「あたしたち一部の社員、というか幼なじみの人たちは家族みたいなものなんだけど」
 ペッパーミルを両手で回しながら、さっきの続きだろうか。唐突に言われた言葉を、わたしは一句も逃さないように耳を傾ける。
 ごりごり、ごりごり。ペッパーミルよ黙れとは言えない。
「ずっと一緒だったから。だから友人とかそういうのには当てはまらなくて」
 ――ごり、ごりごりごり
「社長に女性の友人が出来たって知ったとき、驚いたのが本音。あ、これは社長じゃなくてシャルから聞いた話だから」
 ――ご、りごり
「今日、と会えて少し安心した。顔に出るくらいバカ正直だけど」
 ――ご「シズクたちにとってクロロは大切な人なんだね」
 ごりごりごりごりいってた音が止まる。シズクの黒い瞳が、一点の濁りない心が、わたしに突き刺さる。バカ正直とか何とか聞こえたものを今は流そう。
「うん。社長はあたしたちに居場所をくれた人だから」
 そう言うと彼女はペッパーミルを置いて、またもくもくと食べ始めた。それクロロの分なんだよ、と言えないまま、わたしも残りのパスタを口に入れる。
 ――クロロの出身、社員との関係、わたしの存在。
 今はたくさんの情報が交差していて頭がうまく働けそうにない。情報処理が追いつけない。ただ一つだけ、分かったこと。
 わたしの出現は、彼・彼女らにとっての世界における、イレギュラーでないかという憶測だった。

イレギュラー

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(20160919)

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