月に何度かスーツを着て本社出勤する場合があった。それは大抵店のことで、店の今後、何が人気か等とにかく色々なことを話し合う。昔のようにデスクワークをするためではない。
 急遽、本社から呼ばれたわたしは、店に遅れることを憂慮して連絡はしておいた。みんな、なんとか耐えてくれと願いながら。

 会議室には、上司であるジンさんがいた。めずらしく遅刻もせずに一人でいるため、わたしは驚いた声をあげた。
「ジンさん? …お待たせしてすみません。今日は、わたしだけですか?」
「おう、とりあえず座れ」
 いつもは、もう数人この会議室で集まり、冒頭の通り話し合いをするのだが、どうやら違うらしい。
 はい、と返事をしたわたしは、ジンさんの向かい側に座り、何やら彼が広げている資料を覗いた。わたしの様子に、もう一組の書類を渡してくる。
「とりあえず見ろ」
「はい…」
 唐突すぎて何が何だか分からないまま、それを受け取ったわたしは、言われた通り書類に目を通した。そこには、驚愕の出来事が載っていた。
「う、嘘でしょ…」
「本当だ。先方から直々に願い出てきた」
「う、うちはただのカフェですけど?」
「このデザートじゃないとだめだそうだ」
 店を新たな店名にしたと同時に、わたしはシェフを一人向かい入れた。メンチさんという女性だ。
 彼女は、シェフとしての腕が良いのもさることながら味覚がずば抜けて凄かった。料理への拘りも激しく、新メニューは全て彼女が手がけている。
 その彼女が作った料理は幅広く、この書類に名指しで書かれているのは春先に考案したデザートだ。これを某有名女社長がいたく気に入り、自分の誕生日パーティーに並べたいという申し出だった。
「うちは別に高いお店でもないのに」
「断る理由はないだろ」
「はい!」
「よし、まずはだな――」
 わたしたちは頷き合うと今後について話し合った。

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 実は、これが一ヶ月程前の出来事である。
 わたしは先日、奮発して買ったドレスを着衣し、母からパールのピアスなどを借りて誕生パーティー会場の入り口で待ち人を探していた。その相手は、ジンさんである。
 感謝と敬意を込めて、という名目で店長であるわたしと本社から代表としてジンさんが呼ばれたのだ。
「馬子にも衣装ってか」
 背後からの一声に振り向けば、探し人がいた。わたしのドレス姿を見たジンさんが開口一番に言ってきたのはそれだったが、とにかく時間通り彼が来た安堵で肩の力が抜けてしまった。
 ふう、と無意識に吐いた溜息をしてから、わたしはようやく通常の会話を持ってくる。「それ褒めてません」
「それと……ジンさん、髭くらい剃ってきてくださいよ。剃刀、持ってきてますから化粧室でどうぞ」
「母親かよ」
「部下です」
 このやり取りが、わたしたちの常だった。時々、本社で会話はするものの、月に一度あればいい方で、ジンさんは大体オフィスにはいないことが多々だった。どうやら、わたしが店舗勤務になってから色々と飛び回っているらしい。そして、歯止めが利かなくなったとも。
 相変わらずな人だ。一か月前、会議室で話しても思ったが何も変わっていない。この不変さが、わたしにとっては嬉しいのだ。
「はい、ジンさん」
 にっこり、と笑ってケースに納まっている剃刀を差し出す。わたしの様子にジンさんは舌打ちをして、それを引っ手繰ると「行くぞ」と先を促した。ずっぽしと剃刀はポケットに詰め込まれる。
 本来はここでエスコートするのが男性の勤めといえるだろうが、残念ながら仕事として来ているわたしたちには不要だ。
 わたしは、元気よく返事をしてジンさんの後ろを追いかけた。金持ちのパーティーなど未知なわたしは、粗相はしないようにと心に誓った。そして、ジンさんが何かやらかさない事を祈った。

 会場内は眩いばかりの雰囲気と装飾品に彩られていた。天井のど真ん中にぶら下がっている巨大なシャンデリアが煌々とわたしを見下ろしている。赤を基調とした会場はいかにも女性らしいインテリアにまとめられていた。点々とある花瓶も随分と凝っている代物だ。
 先ほど化粧室で無精髭を剃り落としたジンさんは、年齢よりも幾らか若く見えた。髪もきちんとしていれば尚、良かっただろうにと思っても、これ以上要求を増やせば面倒なため、妥協した。
「きょろきょろするな、前を見ろ。とりあえずお前は笑っておけ」
「…はい」
 ジンさんは背後に目でも付いているのだろうか。気まずそうに返事をして口角を上げると同時に、ウェイターからシャンパングラスを手渡された。ジンさんも貰ったようで、お互い片手にグラスを持っている。
 恐らく乾杯の時にでも使うのだろう。もうすぐ、始まりの時刻だ。
「ちょ、ジンさん…全部飲んじゃだめですからね」
「んなこと分かってる」
 そう言いながらもグラスの容量はガンガン減っていく。もう不安でしかない。
 わたしは、本日二度目のため息を吐いて他の参加者の邪魔にならないよう、端の方に並んだ。ジンさんのスーツを摘んで彼も移動を促す。自分で言うのもなんだけど、どちらが上なのか分からない。
 目の前では挨拶を交わす男女が様々にいる。その一点を見つめていたジンさんは、何かに気がつくと空になったグラスを押し付けて言った。
「大人しく待ってろ」
 ジンさんは誰かを見つけたようだった。颯爽と前に歩きだして、人形ほどのサイズになるまで遠くに行くと知り合いだったのか、あっという間に会話を弾ませているように見えた。取引先の相手だろうか。
 独り取り残されたわたしは、ぱちぱちと弾くシャンパンに口付けた。ジンさんみたいに飲み干さなければいいだろう。
「一人?」
 そこへ、横から話しかけられたような気がして見上げると黒髪の男性が立っていた。一瞬、クロロかと思ってしまったのはなぜだろう。
 わたしは曖昧に首を横に振って一歩離れた。なんだか嫌な予感がしたのだ。
 予感は的中。男性は慣れ慣れしくわたしに話しかけ、挙げ句の果てに肩に手を置いて引き寄せてきた。これはさすがに嫌でジンさんの方を見ると、彼はわたしの様子に気づかず、まだ会話の真っ最中だ。
 大人しく待ってろ、という先ほどのジンさんの台詞が脳内を掠める。わたしも良い大人だ。もめ事を起こさず、自分で何とかしなければならない。意を決して、わたしは口を開けた。
「偶然だな」
 が、声を発する前に背後からの一声で音は咽喉で止まる。
 首だけで振り向くと、オールバッグ姿の彼がいた。驚愕のあまり、声にはならない吐息で"クロロ"と象る。
「君も呼ばれたのか?」
 クロロはどうやら、わたしに話しかけたようではなかった。わたしの肩を抱いている男性と知り合いなのか、二人はわたしを置いてけぼりにして会話を進めている。
 その隙に、やんわりと男性から離れ、クロロの背後に避難する。知り合いという素振りを見せない程度に。
 その間、グラスを2つウェイターに回収され、新しい物と交換された。しかも1つだけ――一人で2杯も飲んでいたのかと勘違いされたことだろう。

「最後に最も重要な情報を提供しよう」

 随分と鮮明とした口調でクロロが言った台詞が、わたしの双耳を突き抜けた。
 思わずクロロを見上げると、目が合う。顎で隣に来いと指示されているように見えて戸惑いながら横に並ぶと肩を抱かれた。変な声が出そうだった――シャンパンが零れそうで。
「彼女は、オレの大切な友人なんだ」
 恐らく、その後に続く言葉はあったんだろうが、それだけで目前の男は引きつった笑みをして去って行った。わたしは驚きのあまり声が出せない。
 男が豆粒ほどの大きさになると、クロロは肩に置かれていた手を退き、ようやくわたしを解放した。それはもう期待を裏切ることなく無造作に。
 少しよろめきながらも、クロロのお陰で難は逃れたので、とりあえず、お礼は言おう。
「ありがとう、クロロ。助かったよ」
 そう言って、わたしはクロロをまじまじと見ている。
 クロロは社長という立場だが、いつもの黒スーツ姿は至ってシンプルな格好だ。メーカーがブランド物だというのは変わりないが、あまり装飾品はつけない。
 それがどうだ。本日のクロロは黒スーツにベストまで着込んでいて、派手過ぎないネクタイにはダイヤのピンが差し込まれている。その姿は悔しいほど似合っていた。
 では、わたしは? という考えが過ぎった。少し背伸びして買ったドレス、物はいいだろうが母から借りたピアスとネックレス。わたしがクロロの隣にいても遜色ないだろうか。
 何せ、周囲のセレブたちが着飾っているのは派手で露出が高く、耳や首元には眩しいほどの宝石が輝いていた。また、綺麗な人も多い。
 ここで大半の人は落ち込むだろうが、わたしはこれでもポジティブである。自己卑下など真っ平だ。ただ、少しだけクロロには申し訳なさがあるだけで。
「今日のクロロ、社長っぽいね?」
「ふ…褒めたつもりか」
「もちろん。で、なんでクロロがここにいるの?」
 わたしの言葉に口許を撓らせたクロロは、この会場の雰囲気に呑み込まれることなく、どんなに服装が変わろうとも、いつものクロロだった。
「それはこっちの台詞だ。つまらない男に捕まって注視していれば珍しく啖呵を切らない事に驚いた。…ま、その方が賢明だったな。あの男は面倒な野郎だ。お前の判断は正しいよ」
「助けるならもっと早く助けてよ」
「もしも、その気があったらオレの手助けは不要だろう?」
 それは、"わたしが"ということなのだろう。
 確かにセレブパーティーはおいしいかも知れないが、わたしはここに仕事として来ている。男を漁りに来ているわけではないのだ。
 これは彼なりの配慮。わたしを見つけても声をかけないのも、容易く助けたりしないのも、友人として彼なりの。
「…わたしは仕事で来てるの。今日の出るデザートがうちので」
「ほぉ…それはいい宣伝になるんじゃないか」
「そうなの!」
 ここでドレス姿でなかったら、わたしはガッツポーズでもしていただろう。
 今回の件で上手くいけば、クロロの言う通り良い宣伝にもなる。もしかしてバーの方も存在を知って貰える機会も増えるだろうし、一石二鳥だ。
 ここで、ガツンと音が鳴り、照明が完全に落とされた。しかし、すぐにステージがライトアップされ、司会者が挨拶をしている。
「シャンパンはどうした」
 気配もなく、隣にジンさんの気配が出来た。ようやく挨拶が終わったのか、ふう、とため息を吐いている。
「…シャンパンならさっき回収されましたけど。あ、じゃこのグラスはジンさんが飲んでください。まだ口付けてませんから」
 手に持っていたグラスをジンさんに向けると、彼は当然のように「ん」と一言告げて受け取った。お礼は期待していない。これも、わたしがまだ本社にいた時のやり取りだったからだ。懐かしさで少し微笑んだのは内緒だ。
 ふいに一瞬存在を忘れていたクロロの方に振り向けば、その姿はなかった。目を凝らして探してみたが、暗黙に溶けたように彼の痕跡はどこにも見当たらない。
「きょろきょろするな。前見ろ」
 隣のジンさんに肘で軽くどつかれる。
 わたしは、不思議に思いながらも気持ちを切り替えてステージへと視線を持っていった。司会者が女社長の名前を呼ぶと、着飾った彼女が現れる。沸いた拍手に、わたしも両手のひらを叩く。
「――言い忘れてた」
 唐突にトーンの落とした声がして身体が、びくんと震える。
「ドレス、似合うよ」
 耳元で囁かれたのだろう。だろう、というのは本当に一瞬で、わたしは理解が追いつかなかったからだ。しかし、この声の主はクロロだと全身が告げていた。
 振り向いた先に、やはりクロロはいない。
「……遅いよ」
 耳を抑えたわたしには次に続く司会者の台詞が入ってこなかった。

 客人やお偉いさんの挨拶も終わり、幾つかの催しも終わると自由な時間が訪れた。ここで安堵したいところだが、そうは言っていられない。
 わたしはジンさんの後を追いかけながら挨拶回りをしていた。これを営業とも言う。
「……ジンさん、あとどれくらいで終わりますか」
「あと二組だ。笑顔を絶やすなよ? 見てくれだけはいいんだからな」
 恐らく今日は貼り付いた笑顔が取れない。そして顔面の筋肉がバカになりそうだ。
 しかし、わたしがこれだけで乗り切っているのは全てジンさんの巧みな話術のお陰だ。
「一言余計です」
「褒めてんだろ」
 この人が言うと、まるで褒められている気がしないのはなぜだろう。わたしは困惑しながら目の前のうなじを睨み付ける形で見上げた。
 実のところ、わたしが不機嫌なのは人間の三大欲求による食欲が圧倒的に満たされていないからだった。ここに来る前、軽食を食べてきたのだが、お腹は不満足と告げている。会話の最中、お腹が鳴らないかわたしは不安でたまらなかった。
 白のクロスが敷かれているテーブルには、美味しそうなものが並べられている。
 待ってろよ、と思いながら歩いていると突然ジンさんの足がピタリと止まった。驚いて、わたしも足を止める。
「どうしたんですか」
「食いたいんなら早く食え」
「いいんですか?!」
「腹が鳴いたらオレが恥かくだろ」
 わたしの眸は、この会場内の誰よりも輝いただろう。
 早速テーブルにあった皿を持ってお洒落なトングを手に取――ろうとしたが、それはジンさんにあっさりと却下された。
「早くしろ」
「んぐっ!」
 一口サイズのサンドウィッチが無理やり詰め込まれた。
 誰と言わなくても分かると思うがジンさんの仕業である。素手で、わたしの口に押し込んできたのだ。これがバケットだったら、その固さでわたしの口唇は死んでいた。
 その彼もまた、自分の口にサンドウィッチをリスのように詰め込んでいた。
「ふんあん! ふでははめでふって!」※ジンさん! 素手はだめですって!
「何言ってるかわかんねぇよ。早く飲み込め。行くぞ」 
 人間とは欲深き生き物で、口に入れた美味しいものはあっという間に咀嚼してしまう哀しき生物だ。
 詰め込まれたのはローストビーフが入っていたため、とても食べ応えのあるものだった。わたしはあっさりと、それを胃に入れてしまう。
「これでも飲んどけ」
 渡された白ワインで咽喉を潤すと、またさっさと歩き出したジンさんの後を追う。隣に並び、仕方なしに聞いた。
「口紅、取れてませんか」
「それよりもパン屑の方が気になるな」
「?!」
「冗談だ。…標的が見えてきたぞ、口角上げろ」
 破天荒な上司がいると大変なのが、お分かりになるだろうか。

破天荒な上司

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(20170415)

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