どうぞ、と差し出された腕を、じっと見つめてしまったのは、きっとこの間の宵を思い出したからだ。"いけない"と思ったのに、早くもこの場面に直面するとは――些か語弊になるかもしれないが、わたしが躊躇するには十分な材料だろう。
「どうした」
 伸ばしかけた手が、ぎゅっと拳を作る。深呼吸してから頭を振り、結局その腕を取った。
 そう、これは手じゃない。腕なのだ。今からは完全にビジネスと友情を織り交ぜた演技をしなければならない。


 背筋を伸ばしてエスコートされたまま、次々に開けられる扉の向こう側は、この間よりも大規模な会場だった。白金に埋められた壁も真紅のカーテンも、別世界のようにわたしの目を眩ませている。場内は既に人が溢れ返っており、老若男女が口々に会話をしていた。
 クロロからの注文は一つだけ。笑顔でいろ。
 前にも同じような事を言われた気がするが、とにかくそれがわたしに出来ることなんだろう。わたしは頷いて下手なことは喋らず、クロロの隣にいようと思った。

 ――それからの時間は早かった。見知らぬ人に相槌を打って、とにかく笑顔を絶やさないように心がけた。
 日頃ニュースや雑誌である程度の知識を吸収していたためか、もしくは多種多様に明快なジンさんの会話に付き合っていたおかげか、ビジネストークは壊滅的だが何とか他の会話は凌げている。
 時々、女性たちに皮肉を言われるものの、全てかわしてみせた。怒る気力は笑顔に変えてしまおう。
「ふう」
「大きなため息ですこと」
「よく我慢したな」
「一つ一つ聞いてたら身が持たないもの」
 ふ、とクロロが和らいだ表情をした。
「正解。真に受けても無駄だ」
 わたしたちは目線を合わせると互いに意地の悪い笑みを浮かべて次のターゲットに向かった。
 こうして人脈を広げてクロロは今の会社を大きくしていったのだろう。そして今も向上心は衰えていない。
 一体、何のために――と思った。なぜならクロロは、ただ単に金目当てで会社を大きく、また知名度を上げているとは思えないのだ。
 クロロの話によると、会社は都市部の外れにあるビルのワンフロアらしい。ビル一棟を持っているとばかり、わたしは思っていた。
 ここで思考は、いつしか聞いたクロロ台詞に帰結する。
「――ただ、欲しかった…?」
 思わず呟いた言葉は、隣にいるクロロにも僅かに聞こえてしまったようだ。
「何か言ったか」
「…なにも?」
 わたしは笑顔でそう答えると、ターゲットである初老の男性に目を向けたのだった。

 挨拶もそこそこ終わり、後は思い思いの社交場と化している中で、わたしはようやく料理を胃に入れた。とはいえ、この間のように食べることを中心としてではなく、どちらかと言えばアルコール中心だ。
 緊張で咽喉も渇き、しかしクッションを先に入れなくては、ということでローストビーフを頬張っている。こちらも柔らかくて美味しいです。
 クロロといえば、ビールばかり飲んでいた。わたしは、つい癖で皿を手に聞いてみる。「なにか食べる?」
「いや、いい」
 断られたため、持ち上げたばかりの皿を戻した。そして再び自分のフォークを持ち、肉を刺す。
「…やっぱり食べる」
「OK…なに食べる?」
「それでいい」
 そう言って、フォークを持っているわたしの手ごと持ち上げたクロロは、そのまま食べ掛けのローストビーフを大口に放り込んだ。驚愕で声が出ないわたしの横でクロロは、ご機嫌に咀嚼している。どうして唐突にシフトチェンジした。
「行儀悪いよクロロ。食べるなら盛るのに」
 こんな事を破天荒なあの人にも言ったな、と思った。ジンさんだ。
 しかし、わたしの言葉など聞いているのかいないのかクロロは、そ知らぬ振りして会場を見渡している。恐らく次のビジネス相手でも探しているんだろう。
 ため息を吐いたわたしは、もう一枚のローストビーフを刺した。間接キスなんて今更過ぎて、恥ずかしいわけがない。
「やぁ」
 そこに話しかけてきたのは、4、50代ほどの男性だった。隣には可愛らしい女の子がいて、恐らく娘なのだろうという憶測が立つ。
 クロロはその男性と話し出してしまったため、わたしは空になった皿を片付けてからクロロの隣を埋めた。目の前には、暇をもてあそぶ女の子が「パパ、ひま」と駄々をこね始めた。
「ネオン、大人しくしてなさい」
「やだやだ! もう十分我慢したもん!」
 頬を膨らませて不機嫌の女の子に、男性は懸命にあやしている。だが、どうやっても女の子が大人しくなる気配がない。クロロとの会話が中断してばかりだ。
「えっと…ネオンちゃん? もし良かったら、向こうでわたしとお話しない?」
「え?」
 思わず声をかけてしまったのは、店で泣く子供を見慣れているからだ。歳は全然違うが、どうもわたしからすれば同じに見えてしまったのだ。
 クロロに目配せして、早く話しろと念を送る。それから、わたしはネオンと呼ばれていた女の子の手を引き、一度会場を出た。

 会場から出てすぐのホールにはカウチが設置されていて、二人そこに腰を下ろした。目が合うと喜色満面でお礼を言われた。
「ありがとう! すっごく暇で仕方なかったの」
「そうよね、えーと…ネオンちゃん? ネオンちゃんくらいの年頃は飽きちゃうよね」
「ネオンでいいよ。あなたは?」
「わたしは、。よろしくね」
 自己紹介をしてから、わたしたちは女子特有の話に花を咲かせた。
 聞くところによると、彼女は17歳で年頃らしい会話が弾んでいく。今は何が流行っているだとか、二十歳を超えているわたしからすれば真新しい情報だった。
「ところでさんとあの人は恋人同士?」
 唐突な質問に、わたしは目を見開いてしまった。まさか、それを突っ込まれるとは――10代とはいえ、女の子は侮れない。もちろん、あの人と呼ばれたのはクロロだ。
 わたしはどうしようか悩んで、結局は素直に答えた。
「……違うよ。彼とは友人」
「やっぱり? そんな気がしてた」
「どうして?」
 大体、こういったパーティーに連れて歩くのは恋人か妻が鉄板だと思っていたわたしは、当然わたしたちもそう見られると思っていた。クロロもそれが狙い目なんだろう。
 けれども、わたしの予想とは違い年下の女の子に隋と当てられ、少し驚いて聞き返してしまったのだ。
「うーん…雰囲気? ふたりを取り巻く空気が他とは違う気がするの」
 不明瞭な答えに、わたしは半分納得のいかないまま苦笑した。
「あ、でもね――」
「――
 ネオンが何か言いかけたとき、横からわたしを呼ぶ声がした。振り向けば遠くでクロロが立っていて「来い」と言っている。話はもうついたんだろう。
 わたしは立ち上がると、みるみる内に不機嫌になった彼女に微笑んで「行こう?」と促した。彼女は文句を言いつつも、わたしの横に並ぶ。
「楽しかったのに…」
「もう少しで終わると思うよ。それまであと少し我慢しようよ、ね?」
 宥めるように言うと、ネオンは渋々頷いた。「あ!」
 それから、何か気がついたように声を上げると、突然わたしの首に巻きついていたショールに手をかけた。
「ほら、やっぱり! こっちの方がいいよさん」
 巻いていたショールを解くと、ネックレスも何もない首元が露になる。確かに初夏を迎えたこの季節に、ショールは少し暑かった。
 解いたショールをわたしの手に握らせて、ネオンはそっとわたしに耳打ちをしてきた。
「あのね、さっきの続きだけど」
 さっき、と聞いて「でもね」から続く言葉だろうとすぐに思った。
「わたしたちが会場を出るとき…一度だけ振り向いたんだけどね」
「うん」
「あの人がちょっと寂しそうな顔してたよ」
「え?」
 聞き返そうとすると、ネオンは「じゃあね!」と言って先に走って行ってしまった。クロロの横を通り過ぎて、あんなに駄々をこねていた会場に吸い込まれるよう入っていく――が、「今度会ったら、占ってあげるね」
 ひょっこり顔を出して、そう叫んでから姿を消した。そういえば会話の最中に彼女は言っていた。占いが得意なんだと。
 わたしはその様子を眺めてから、手に持っているショールに視点を移した。それから会場の入口で待っているクロロに目線を持っていく。

 寂しい? クロロが?

 まさかと嘲笑いながらドアに向かうと、今度はクロロにショールを奪われた。彼は無言で、それを再度わたしの首に巻きつけてくる。最後にショールの端を整えると鼻で笑った。
「まさか、あの娘に取られるとは思わなかった」
「ない方がいいんですって」
「……いや、今日はこれでいい」
 少しの沈黙の後、クロロは含みを持たせてそう言った。
 どんなに光明が射し込まれようが、純黒の双眸は何も語らない。この眸が寂しいと思うのだろうか。わたしには想像がつかない。
 腕を差し出され、迷い無く絡める。ふと、先ほどネオンに言われた事を口走った。
「わたしたち、恋人同士には見えないらしいよ」
「さっきの娘がそう言ったのか」
「うん。今時の子は鋭いね」
「……だから今日は身体を密着させてくるのか」
 今更か。今更思いついたように、クロロが言う。
「え? そういう意味でわたしを誘ったんでしょ?」
「ああ。女性の誘いを断るのは正直面倒になってきたからな」
「(…わかる)一生懸命、演じてたんだけどな…まだまだね、わたしも」
「演じる…そうか演じる、か」
 わたしの一言に何か思い当たることがあったのか、クロロはぶつぶつ言いながら顎に手を当てて天井を仰いだ。
 いつもの想像タイムである。皆さん少々お待ちください。
 :

「なに?」
「演じるぞ」
 何を、とは思わなかった。
「今更?!」
 クロロの言う演じる、とはもちろん恋人同士のことだ。もうすぐパーティーも終わるというのに、本当に今更だ。しかも演じていたのは、わたし一人だったようで半分泣けてくる始末。今までは徒労だと決定したのが特に涙を誘う。
「どうやらオレは、いい友人を得てるらしい」
 口許を僅かに撓らせたクロロはわたしの腰に手を滑り込ませて、ぐっと引き寄せてきた。身長差と強引さでよろめく身体はクロロが支えてくれた。
 ここで、前回のパーティーにて無造作に扱われたのを思い出した。あの時とは、まるで違う手付きや動作に感心する。それはもう極端すぎて――クロロにはスイッチでも付いているのかと。
「腰に手、回せ」
 ため息を吐き、おずおずと手を回す。クロロの身体は思ったよりもずっと固く、鍛えていることは明白だった。
 ふいにここで、ようやくわたしは理解する。ああ、クロロって男なんだなと。
「どうした」
 本日二度目の「どうした」が頭上に降ってくる。真上にある秀麗な美貌が、わたしを見下ろしている。
 どうしてか、現状が奇跡的に思えて何の嬉しさか分からないが、わたしは笑顔を向けた。ぴったりと頭をクロロの逞しい胸に預けると、腰に回された手に力がこもった。「…なんでもない」
 わたしは首を振り、ここで一度、目蓋を閉じて演じるために一息置く。見開いた先にあるのは輝かしい未来か、それとも。
「さ、行きますか。わたしのロメオ」
「OK…オレのジュリエット」
 くくく、と咽喉で笑ったクロロが歩き出すと、わたしも合わせるように歩を進めた。
 仮初の恋人同士――わたしは今、薔薇色の一瞬を夢見てる。


 酔いに任せた夜、わたしは手を伸ばしてはいけないと、もはや本能的に理解していた。しかし目的がここにあり、それを遂行するためだからといって狡猾なわたしは、今宵あっさりとクロロに手を伸ばしてしまった。これは敗因になりうる――わたしは誰と戦っているのだろう――確実にだ。
 そして、やはり思い知らされた。
 わたしは、彼に適度な距離を保てなければ友人として、いられなくなってしまうだろう。あの三箇条を破り捨ててしまう事だろう。そう確信するほど、"この人"は危うく、魅力的だ。
 しかし今、彼に堕ちるよりも勝っているものが確固として、この胸に存在している。この存在はまるでメシアのように尊く、わたしを導く。これがあるからこそ、寸のところでわたしは、ただの友人でいられる。否、友人ではなく彼を深く考慮する探究者シーカーか。
 わたしが探究者シーカーなら、クロロ=ルシルフル――あなたは一体、何者と呼べるの。

何者

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(20170610)

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