梅雨がようやく先月で終わり、外は夏本場の日差しの中、わたしは涼しい店内でしあわせに過ごしている。 本社勤務のときは出歩くことも多かったため、暑い寒いと言っていられなかったが今はどうだ。店内は外界とは切り離された空間で涼しさに埋まっている。 時刻は10時前。もう少しでモーニングタイムが終わるが、昼の戦場は数時間後にやってくる。 「てんちょー、電話」 そんな曖昧な時間帯に一本の電話が、かかってきた。電話対応をしたのはメンチさんだった。ん、と向けられた受話器から音楽が鳴っていないことから、この人はまた保留ボタンを押し忘れたのだろう。 わたしは苦笑して頷いてから受話器を取った。大体は本社かクレームのどちらかで、後者でなければいいと思った。「はい、お電話代わりました」 『デリバリーを頼みたい』 わたしは、この声の主を一発で分かってしまった。同時に喉に何か詰まらせたように怯んでしまった。 『聞こえてるか。デリバリーを頼みたい。ピッツァ5枚だ』 「…お客様、大変申し訳ございません。当店はデリバリーサービスは承っておりません」 『まだ昼前だろう。今から早急に作れば昼前に出来るはずだ』 なんとなく左右確認する。客の対応をしているウェイトレス達、下拵えやフライパンを振るっているシェフ達。今から言うわたしの声など聞こえてくれるなと願う。 「ちょっとクロロ。本当、困るわ」 『何が困る? 金は払うんだ』 「だから、うちはデリバリーはやってないの。ここでクロロだけに承諾したら面目立たないでしょ? わたし、一応店長なんだから」 『…オレがお前にこれを言うのは三度目だ――利口に生きろ。店長という権力をここで使わなければいつ使うんだ』 「世の中には、あなたの思い通りにならないことをそろそろ学んだらどう?」 『……話にならないな。さっきの女を出せ』 思わず舌打ちをすると、受話器から『舌打ちをするな』と聞こえてくる。わたしは返事をすることなく、無遠慮に言った言葉も撤回はしない。 「少々お待ちください」 もはや無機物のように言い放つと、保留ボタンを力強く押し潰した。それから厨房にいるメンチさんを呼び、「お客様からです」と笑顔で受話器を突きつける。 もう知るか、と思った。メンチさんは、わたしよりもこうと決めたことには頑固で動かない。彼女に一発やられればいいとも思った。 ちょうどレジにお客が並んだため、わたしはレジカウンターに急いで向かった。少し離れた背後では、メンチさんが冷静な会話をしている。 : 「ありがとうございました」 にっこり、と笑顔を向けて頭を垂れる。クロロとの会話など、わたしの中で無かったことになっていた。 「店長、車の免許あるよね」 と、そこへ背後からの一声で現実逃避は免れないようだ。嫌な予感しかしない。 わたしは恐る恐る振り向いた。メンチさんはもう電話を終え、わたしのすぐ後ろに立っていた。 「一応、持ってるけど…」 「じゃ急いで注文の品を作るから配達してきて」 はい、と渡されたのは走り書きの住所が綴ってあるメモだ。メモにはもう、うんざりなのに。 「え? ちょっと待ってメンチさん! もしかしてあの注文受けたの?」 「だって良い儲け話じゃない。デリバリー料まで払ってくれるらしいしさ。受けなきゃ損よ」 「わたし、店長ですけど?!」 「その店長がこれくらいのことで折れないでどうするの。店なんてね、要は儲ければいいんだって。頭固いなー」 もはや、ぐうの音も出ない。わたしが頑なに拒んだ事を、メンチさんは正論を引っ提げて捲くし立ててきた。 確かにクロロやメンチさんの言うことに一理はある。けれども、わたしが拒んだ理由の半分はクロロだからだ。クロロだからこそだ。個人の事情と店長としての判断だったというのに、無駄だったようだ。 「…なんでわたしが配達するの?」 「だって店長の知り合いなんでしょ?」 「それは…ていうか、2回目だけどわたし店長ですけど?」 「名ばかりのね」 もの凄くいい笑顔で言われ、毒言とも取れるその台詞に、わたしは二の次が告げられなかった。 急遽ということで車出社している人から車を借り、わたしは蒸せ返るような車中に乗り込んだ。クーラーをがんがん付けて食べ物を死守する。 渡された先ほどのメモを見ながらナビ画面をタップする。入力してすぐにナビゲーションは始まった。それほど遠くはなさそうだ。 「じゃ店長、頑張ってね」 「…地元に帰ったときしか乗らないんだけど大丈夫かな、わたし」 不安気なわたしを他所にメンチさんは「大丈夫、大丈夫!」なんて言ってくる。わたしの身にもなって下さいお願いします。不安と暑さ、ハンドルを握る手は汗で、びっしょびしょだ。 わたしは、ため息を吐くとギアノブを握った。ドライブに合わせてハンドルを伐る。 「今日は平日だし、急いで来なくてもいいよ。事故ったら元も子もないしね」 「い、いってきます」 「いってらっしゃーい」 店の端にある駐車場から大通りに向かう。笑顔で手を振るメンチさんに応える余裕はなかった。 車で約20分の場所に、そのビルはあった。恐らく混雑なしで走れば15分程だろうか。 ハザードランプを付けてから路肩に車を留める。すぐに帰ってくることだし、この辺は治安も悪くないので車中荒らしや盗難は大丈夫だろう。 後部座席に乗せていた注文の品を両手いっぱいに持った。確かメモにはF9と書かれていたため、わたしは迷わずエレベーターを目指したのだった。 エントランスを抜けて受付嬢に理由を述べてから、エレベーターの入り口まで案内してもらった。すると、そこには既にスーツ姿の男性が立っている。この雑居ビル――と言うには些か大規模――にはクロロの会社の他にも他社が入っているため、色々な社員達がいるのだろう。 わたしはエレベーターのボタンにランプが付いていることを確認してから男性の少し後ろ側に立ち、箱が降りてくるのを待った。 手には5枚のピッツァの他にチキンや野菜などがある。飲み物が無くて本当によかった。そんな物まであったのなら、今頃わたしの腕は死んでいた。 景気の良い音が鳴り、わたしは男性に継いで急いで箱に入った。9のボタンを押そうと近づくと、先に男性が押したボタンも9だ。 「あ?」 「え?」 何か声が聞こえてきたため、隣に並んだ男性を見上げた。 彼は金髪のオールバック姿、眉毛はなし。目つきは悪い。クロロよりも長身で、最近どこかで見たことがあった。 「お前、社長の……化粧が濃くなかったから一瞬分からなかったぞ」 社長の、というのが聞き捨てならない。 とは思ったものの今はさて置き、わたしはこの男を、ようやく記憶から引っ張りだした。パーティーに行くとき運転手をしていた男だ。 挑発染みたことを言われ、思わず突き返したわたしの返答は引きつった笑顔で「運転ありがとうございました」だ。 「……先日はお世話になりました」 気まずくても、わたしは平静を装って笑顔で言った。この手に注文品がなかったら、頭も垂らしていたところだ。 男は、わたしを一望してから、ふんと鼻で笑った。 「上手くいったようだな。お陰で商談は順調だ」 「それは良かったです」 もう本当に。もしも上手くいかなかったのなら、わたしは恐らくこの場でこの男に悪態を吐かれていたところだろう。 「今日の昼は社長の奢りだと騒いでたが、なるほどそういうことか」 「……」 にやにやとガムのように粘ついた視線を遮るように、わたしは顔を逸らした。からかいの眼差しだ。いっそ割れて萎んでしまえばいいのに。 友人と通しているのだから、この視線はおかしい。この男の中では、わたしとクロロは乙女チックな展開なのだろうか。 「何か勘違いされているようですが、あなたの社長とわたしは友人ですので誤解なさらないで下さい」 耐えきれず、わたしは言ってやった。だが返ってきたのは一蹴した笑い声だ。 「くく、そういうことにしておいてやる」 「全然分かってませんね」 「突っかかるなよ。ピッツァ持ってやるから」 「結構です。これは、わたしの仕事です」 「いいから寄こせよ」 なぜか言い合いからピッツァの取り合い合戦に発展していると、エレベーターの箱が開けられた。見開いた先にはフロントがあり、女性が立っている。そのすぐ横にクロロがいた。 あ、と口を開けようとして止めた。なんとなく、この男の前でクロロの名前を言うのは、はばかれた。 「ほら、着いたぞ。ピッツァ寄越せ」 「だから、もう着いたから――もう着きましたから大丈夫です」 「お前、頑固だな。よく社長とぶつかるだろ」 「時々ね!」 「敬語、なくなってるぞ」 誰のせいだ、と叫びたかった。叫んでしまおうかと思ったところで、わたしたちの名前を呼ぶ声がする。「フィン、」 エレベーターのドアの向こう側の隙間からクロロが呆れ顔をしていた。そして指した方向は、わたしたち二人に向かっている。 「閉まるぞ」 ぱたん。エレベーターのドアが閉められた。二人唖然としていると、箱は意気揚々と降りている。 「閉まっちまったじゃねェか!」 「こっちの台詞ですけど何か?!」 どうやらわたしは、フィンと呼ばれた男と1階から9階までを往復しなければならないようだ。 ため息を吐く。今日はクロロと言い合いをして、この男とももみ合っている。わたしの星座は恐らく最下位に違いない。 「じゃ、そこまで言うならピッツァ持って下さい」 「やだね」 この男と合う気がしない。 とはいえ、男は何だかんだといってピッツァを持ってくれた。今度こそ二人で9階に降りると、そこにはシャルの姿があった。 「シャル!」 わたしの天使まじ会いたかった天使。 駆け寄ると、シャルは苦笑していた。 「フィンクスともう一回降りただろ」 「ああ、うん……」 うふふ、なんて誤魔化してみるが背後からの一声でそれは瞬く間に無駄になる。 「シャル、こいつ本当頑固だな」 「そう? 素直な方だと思うけど。どうせフィンクスがからかったんだろ」 「オレは普通だ」 「その普通がダメなんだよ」 シャルもっと言って、もって言ってやれ――と心の中で応援していると、長身の女性が近づいてきた。クロロと同じくらい、いやもっと高い身長差に、わたしは見上げる形になってしまった。 「サンアンドムーンの店長さんね」 「はい」 「社長からの伝言。来い、だそうよ」 「あの、どこへ?」 「案内するわ。来て」 「いえ、わたしは仕事中ですし、早めに帰らなければ……」 なにこの状況。確かに代金は貰っていないが嫌な予感がする。 慌ててシャルを見るが、シャルはわたしと目を合わせると、チキンとサラダを奪った。そして、わざと知らぬ素振りをする。天使が小悪魔になった瞬間だ。 隣の男は、既にピッツァをつまみ食いしていた。この男に助けを求めても仕方ない。 女性は既に歩き出していた。どうするべきか焦っていると振り返られる。 「早く来てちょうだい。これも仕事なの」 社内には、わたしの味方は一人もいないことだけは分かった。 わたしは足早に駆け、早く用事を済ませて帰ろうと踏んだ。時刻は、まだ11時30分くらいのはず。12時まで店に着ければと願う。 「あ、店長。車は駐車場に移動しておくよ」 振り返れば良い笑顔で手を振っているシャルと二枚目のピッツァに手を付けている男。後者は、もう無視しよう。 「ありがとう! すぐ帰るけどね」 振り返した手を元に戻し、前を見た。まるでカルガモ親子のように、懸命に追いかけながら、わたしはどこか緊張した面持ちで廊下を歩く。 途中、ガラス張りになった社内の奥でシズクを見つけた。小さく手を振るとわたしの様子に気づいたようで会釈をされる。隣にはマチさんもいることに気づいて慌てれば口元に笑みを浮かばれた。わたしも笑顔を作って答える。 「シズクとマチとは既に会っていたようね」 前方から声がして、わたしは即座に答えた。「はい」 「二人とは会う機会がありまして」 「そう」 ヒールを鳴らして歩く速度は、わたしとのリーチもあってか少し早い。気づかれない程度に早足で追いかけるわたしに、女性は顔だけ振り向いた。 「あたしは秘書のパクノダよ。何度か会ってるはずだけど、覚えてないかしら」 「パクノダさんは、あなたでしたか」 何度か聞き覚えのある名前に、わたしは思わず大きな声を出してしまった。少し恥ずかしくなり、口元を押さえると小さな笑声が聞こえた。 「社長から聞いてるわ。色々とね」 そう言ったときには既に横顔はなく、後頭部だけ、ボブまでの美しい金髪が靡いていた。 「あの、先日はありがとうございました」 「先日?」 「ブランケット、かけてもらって…その……」 わたしは仮宿の出来事を思い出していた。あの出来事自体が恥ずかしい記憶として残っているのだ。無防備なまでに、よだれを垂らしながらすっぴんで寝ていた事実。 こんな友人でごめんなさい。心の中で謝っておこう。 「ああ、あの時ね。いいのよ、あのくらい」 「お世話になりました」 「驚いたわ。社長の部屋にまさか留守番をする相手がいたなんて」 「あれは事故というか不本意といいますか」 「めずらしいこと…いいえ、初めてね」 「え?」 ここで、パクノダさんの足は止まった。連鎖のように、わたしも足を止めるとすぐそこには両開きのドアが重く構えていた。この先にクロロがいるんだろう。 けれども、パクノダさんは一向に開ける気配がない。不思議と思いながら黙っていると、唐突に振り向かれた。わたしは長身の彼女を恐らく間抜けな顔をして見上げている。ぽっかりと開いてしまった口が、その証拠だ。 降り注がれている視線に対し、恐怖や戸惑いといった感情は、なかった。思わず笑顔を作ってしまったわたしに向け、パクノダさんも小さく笑う。 「社長があたしたち以外にキーを預けることなんて今までなかったのよ」 唐突に放たれた台詞から来る疑問は”歴代の彼女たちには預けなかったのだろうか”だ。 しかし刹那に浮き彫りにされたそれが咽喉を通ることは無かった。まるで、わたしが気にしているみたいではないか。 「あなたはきっと特別ね」 「……友人です」 「ええ。特別な友人――さ、社長がお待ちかねよ」 わたしの返答を待つわけでもなく、一人納得したパクノダさんはドアをノックした。奥からくぐもった声で「入れ」と聞こえて来る。 開け放たれた先の奥には、クロロがオールバック姿で重厚な机と椅子と共に待ちかまえていた。完全にお仕事モードだと分かった。 促され一応「失礼します」と言って入れば、パクノダさんはドアを閉めて行ってしまった。 「……いや、今は店長の皮を被っているのか」 「本日は、ご注文ありがとうございました」 「ああ、初めからイエスと答えてれば尚良かったよ、店長」 わたしが頭を下げて言えば、嫌味のような台詞が返ってきて、気まずくも顔を上げた。ここで少し予想外だったのが、クロロは台詞ほどの不機嫌さはなく、むしろどこか上機嫌だ。 だが同じ部屋に居るものの、随分と距離があり、まるで店員と客の距離その物を表しているように思えた。いやーー "あなたを知りたいと思った。客としてではなく、社長でもなく、無論のこと男でなく。あなたという人間を知りたいと思った。この好奇心こそ、安易にあなたへと堕ちない最大の理由の一つだ。 まだ友人関係を結ぶ前、一度だけカフェに来たことをあなたは憶えているだろうか。その時、わたしはあなたを知ることに対して鍵をした。客に興味を持つことを断つ――これこそ、わたしが作り上げてきたルールだったからだ。 今は、ただの客ではなくなった。あなたが三箇条を引っ提げて提案してきた友人関係、いや友人同盟の上に成り立つわたしたち。 いつかの宵、わたしたちなりの友人関係に成ろうと偉そうなことを言った。その言葉に偽りはないし、今だってわたしはこの関係を模索している。だからこそ、だからこそだ。 そろそろ気付くべきよ、クロロ" ――これが、わたしたち自身の心の距離ではないだろうか。 心の距離 (フィンとめちゃくそ合わなくて驚いた) |
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(20170716)