社長室と思われるこの室内は、前面ガラス張りになっていた。ガラスの向こう側には電波塔やタワービルなどが景色を埋め尽くしている。
 当ビルの敷居面積は、そこそこあるものの9階までが最上部で、この階一面がクロロの会社全てのようだ。まだ20代だと思われるクロロは、この会社のトップ。それを、ようやく理解した気がした。

「領収書」
 わたしに手のひらを向けたクロロは言葉通り、領収書を見せろということだろう。既に財布が卓上に用意されてあった。歩を進め、持っていた領収書を手のひらに乗せる。
 金額を確認したクロロは革張りの財布から札を取り出し、デスクに置いた。それを頂いてから、頭の中で計算してお釣りを渡す。わたしたちは無言で、会計だけの流れならごくごく自然なものだった。
「……うむ」
 わたしが売り上げ金を財布に仕舞っていると、前方から唸った声がする。無論の事、犯人はクロロで彼は机上を見据えたまま続けた。
「現実は違うものだな」
「…ん?」
「友人だからという理由でサービスを受けている話をよく聞くが、それがない」
 深刻そうに真面目な顔付きをしたものだから、わたしは少し構えたのだが台詞がおかしい。
「先に言っておくが、サービスをしろと言ってる訳じゃない。オレが言いたいのは――」
「それなら山盛りポテトをサービスしておいたけど」
 まとめると、クロロが言いたいのは友人と店員の差異を知りたかっただけなんだろう。
 さすがのわたしも、何だかんだとお世話になっているクロロに何もしないわけじゃない。そこまで恩知らずでもない。コストのかからないポテトだけど。
「みんなで仲良く食べて下さいね」
 にっこりと店員でもない笑顔を向ける。敬語なのは、少しの悪心だ。
 クロロは顔を上げると真顔のまま、わたしと目を合わせた。やがて瞼を瞑ると、やや口許を綻ばせる。
「そうか」それから満足気に返事をした。
「それとね」
「?」
 わたしはエプロンのポケットに忍ばせていた小瓶を取った。コツン、と音を立てそれをデスクに乗せるとクロロは初め不思議そうな顔をしたが、やがて一度咽喉で笑う。
「なるほど…店長のお前からはあれで、お前自身はこれか」
「いつもお仕事お疲れさま」
 わたしがクロロにあげたのは、どこにでも売っているエナジードリンクだ。しかも、そんなに高いわけじゃない。わたしが仕事で疲れたとき、気休め程度に飲んでいるものだった。
 休憩室の冷蔵庫にいつも忍ばせているこれは、もう温くなっている。それが少し残念なんだけど。
「冷やして飲んで。もう温くなって…――」
 言った矢先クロロは瓶を取って早速、蓋を開けた。そして、それを勢い良く飲んでしまうと、無表情と思いきや眉間に皺が寄っている。
 ……不味かったんだろうな。
「冷やして飲んでって言ったのに」
 わたしが苦笑すると、クロロは「ああ」と言っただけで、それ以上の言葉を飲み込んだように思えた。

 もう時間は、わたしを待ってくれなかった。社長室にある洒落た時計を見、慌てて「じゃあね」と言ってドアに向かった。
 扉を開けると、パクノダさんがアイスコーヒーをトレイに乗せて立っていた。片方の手が宙に浮いた様子から、ちょうどノックをするところだったのかもしれない。
「帰るのね」
「はい、時間がないもので」
「…残念」
 からん、とコーヒーの中身が鳴いた。どうやらわたしは、魅力的なコーヒーブレイクタイムを、逃してしまったようだ。
 せっかく用意してくれたのに申し訳ない気もして、わたしは肩を落とすパクノダさんのトレイからグラスを取った。そして「いただきます」と言ってストローに口付けるとダイ●ンのように勢い良く吸う。吸う。
 二度、三度。ストローが、もう空の事を音で伝えると、「ごちそうさまでした」と言ってグラスを返した。一気飲みしたせいか頭が痛い。
「ありがとうございました、美味しかったです。それと、行儀悪くてごめんなさい」
 パクノダさんは驚いた顔をしてから笑った。「いいえ」
 今度こそ、わたしはエレベーターへと急いだ。

 廊下を走っている最中、談笑しながらポテトを口に入れているシャルたちに手を振り、足早に駆ける。エレベーターの前に付き早々ボタンを押して待ってみるが、箱は動かない。
「おい」
 いっそ階段で行こうか悩んでいると、声をかけられた気がして振り向いた。そこには、フィンクスと呼ばれていた男性が立っていた。
「送ってやるよ。近道がある」
「あ、お構いなく」
「鍵、ねェだろ」
「届けてくださったんですね。ありがとうございます」
「何度も言わせるな。送ってやる」
「お構いなく」
「社長命令だ」
「…」
 車のキーを――キーの存在を、すっかり忘れていた――くるくると指先で回し、ぶっきらぼうに言う男に渋々「お世話になります」と呟いた。断る権利が、この男もそう、わたしにもないということだ。
 なぜなら、ここで断固としてもクロロの命令なら彼はやり遂げなければならないのだろう。これは社員全員が絶対的に持っている何かだと、わたしは感じている。シャルも、シズクもこの男も。だからこそ、先ほど「来て」と言うパクノダさんにわたしは従ったのだ。

 名前を呼ばれたため振り向くと、廊下の奥にはクロロがいた。無言で見つめ合い数秒――破顔したのは、わたしの方だ。
「ご注文、ありがとうございました」
 タイミング良く、背後ではエレベーターが到着を知らせる音が鳴った。わたしはクロロに手を振り、男に続いて箱に入る。振り返ればクロロが、お仕事モードなのにも関わらず、めずらく口許に笑みを浮かばせていた。クロロはオールバックのとき、あまり顔は崩さないのだ。
 その口唇が何か伝えようと開くが、ドアは無常にも閉じられた。
「閉じるのが早かったか」
 にやり、と笑う面貌。なるほど早く閉じたのはこいつのせいか。エレベーターのコントロールパネルは既にB1のところにランプが点灯されている。「いいえ、急いでいるので助かりました」
 ふいに、シャルで良かったのではと思った。同時に彼は帰りをどうするのだろうとも考えた。
「ところで、なぜあなたなんですか?」
「フィンクスだ。敬語もうぜェからやめろ。……つまみ食いの罰だ」
 そういえば、ピッツァを先に2枚も食べていた光景が蘇り、わたしは思わず笑ってしまった。
「ふふ…帰りは?」
「用事を済ませてから誰かに拾ってもらう。適当にいなかったら電車で十分だ」
「そう」
「……お前」
「うん?」
 エレベーターが地下に着いた。わたしは返事をしながら箱から降り、じっと男を――フィンクスを見上げている。
 彼もまた、わたしに目線を合わせたかと思えば、なぜか舌打ちをした。何か癇に障ることでもしただろうか、更に意味が分からなくなり、顔を歪める。
「言いたいことがあるなら遠慮なくどうぞ」
「お前……社長の何なんだよ」
「友人ですけど?」
「オレが聞きたいのは建前じゃねェ」
 やけに突っかかるな、と思った。初めての出会いから本日で二度目になるが、フィンクスは、わたしが出会った今までの社員たちの中、断トツで敵対心を剥き出しにしてくる。
 クロロが大事なのは良く分かる。"ゲ"から始まって"イ"で終わるやつでもないだろう。男女問わず社員の皆さんはクロロが大好きだ。ただ、それが彼の場合、攻撃的なのだ。
「社長のことどう思ってんだよ」
「好きだよ」
「…」
「友達として大好きよ」
 駐車場に続くドアノブを回し、押してみるがビクともしない。両脚を踏ん張らせてやっと隙間が出来たと思えば、まるで爆ぜたようなけたたましい音が頭上で起きた。フィンクスが勢い良くドアを開けた――というより叩いたのだ。
 お陰でわたしは前のめりになったが、転ぶことなくドアは軽々と開いた。
「からかってんだろ」
「誰を?」
 声を張り上げて会話をしていないのにも関わらず、コンクリートで作られた駐車場内に、わたしたちの声は隅々まで反響していた。声が撥ね返り声を追いかける。まるでこの会話のように、イタチごっこのように。
 上から射られる視線に負けじと見詰め返すが、お互い微動だとしない。長身の彼の顔は遥か頭上にある、また近距離のため、首が疲れてきたが負けてはいられないのだ。
 わたしは嘘なんて言ってない。本当のことしか言っていない。
「お前の狙いはなんだ。金か? 地位か? 社長の顔か?」
 ――なるほど、ようやく理解が出来た。なぜ、わたしはこうも簡単なことを思いつかなかったんだろう。
 それほど、わたしにとって今言われた3つは些細なのだ。
「…そもそもの根本が間違ってるよ。まず、わたしが狙ってるものなんてないもの」
「どういうことだ」
 ようやく歩き出した男に続くと、わたしが乗ってきた車は目の見える範囲で停めてあった。無言のまま、お互い車に向かう。フィンクスがノブのボタンを押すと、ランプが点滅して車は開錠された。
 助手席に乗り込んで早々、先ほどからなんと答えようか悩みながら、シートベルトを装着していると後部座席のドアが開いた。隣のフィンクスは驚いているようでバッグミラーを見ながら固まっている。わたしも一瞬、動きが止まる。
「やっぱり階段の方が早いな」
 なんてことだ。
 わたしは半分、冤罪者のような気分だった。そのわたしに、神ではなく恐らくクロロが差し向けただろう天使がバックミラー越しで笑っていた。「ジーザス…!」

 この車の持ち主は、わたしが生まれる前に流行った異国の流行曲が好きなようだった。夏だというのにクリスマス、春の歌、当時話題になった映画の主題歌まで季節感も何もかも一貫していない。
 わたしたちは無言だった。シャルはマイペースに携帯を弄り、フィンクスは荒っぽい運転をして、わたしといえば安定感を求めて頭上にあるグリップを握って前を見ている。
 長い時間に思えた。しかし車内にある時計を見れば、5分しか経っていない。その中で、やはり痺れを切らしたのはフィンクスだった。
「社長だろ」
 これは、わたしに向けた言葉ではない。
「当然。フィンクスが店長と喧嘩するだろうからって」
「喧嘩じゃねェよ」
「挑発だよね」
「どっちが」
「決まってるじゃない」
「あはは 仲良いじゃん」
「…」「…」
 もしかして、エレベーターが閉まる前にクロロが言いたかったことは、「喧嘩するなよ」だったのかもしれない。
 相変わらずクロロにとって、わたしたちの行動は手のひらの上なんだろう。
「いいか、オレが言いたいのはな……お前と出会って社長が変わったことだ」
 話が飛び過ぎだが、どうやらこれは先ほどの続きらしい。
「え? あの人ブレてないじゃない」
 ふと、わたしは返答してから「どういうことだ」からの答えを持ち去っていることに気づいた。シャルが突然現れたため失念していた。
「わたしたちは友人同士。それ以上でもそれ以下でもないよ。クロロが変わった、というのが、どこか分からないけどね」
「……」
「早速聞くけど…クロロは、どこが変わったの?」
 後部座席にいるシャルをバックミラー越しで覗き見ると、聞こえていない振りをしているのか携帯を弄っているままだ。隣の男と言えば、何か考えているのか無言である。
 やがて聞こえてきたのは期待を裏切るものだった。
「いやだね、お前には言わねェ。自分で気づいて見ろよ」
「……元からのクロロなんて知らないんだけど」
「じゃオレに頭を下げて頼むか? されても断るけどな」
「しないから安心して」
「可愛くねェ女」
 お互い、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向くとシャルが、くつくつと笑っていた。この会話のどこに面白さを見つけたのか、わたしには分からない。
 運転席と助手席の隙間から、ひょっこり顔を出し、シャルは笑顔のまま告げた。
「オレがいなくても大丈夫だったかもな」
「どういうこと?」
「喧嘩しても心配無用ってことだよ」
「はぁ?」
「どの辺が?」

 :
 見慣れた道路が見えてくる。来た道とはまるで違っていたが、携帯を見れば確かに近道を通ってきたらしいく、早めの到着だ。
 同時に、わたしは一通のメールが来ていたことに気づいた。開くと送り主はクロロで、用件は相変わらず短文だが笑ってしまった。わたしの予想は、間違ってなかったのだ。

 "喧嘩するなよ"

 もう遅い、と送ってやろう。
 喧嘩内容は言わない。あなたの部下は、あなたを大切すぎて原因があなたであるとは、言えない。大切な物は、大切すぎると時に重大な欠点となる。
 ただ、ひとつだけ今回の出来事で分かったものがある。
 わたしは、シャルやフィンクスのようにクロロを一番として置き換えることは出来ない。これは好感ではなく、わたしにとってクロロは、やはり未知なのだ。そもそも、もしもこの想いを抱えてしまったのなら、わたしは彼・彼女らと一緒に成ってしまう。それはクロロが友人としてわたしに求めている事とは違う気がするのだ。そして、わたしもそれを望んではいない。
 このアンサーに行き着いたヒントは、あの頃のクロロの台詞とパスタを巻きながらもったいぶるかのよう、噛締めるように言った間だった。

『 違うな。お前はシャル達とは違う――全然違うんだ』

 では、わたしはクロロと何に成りたいのだろう。脳内では簡単に”友人”という文字が浮かぶが、なぜだかそれは目前に揺らめく逃げ水のように、近づくと消失してしまうもののように思える。
 脆いのだ。わたしたちの関係は、とてつもなく柔く、いっそ純粋なほど。
「…難しいよね」
 独り言を呟くと、隣から求めてもいない返答があった。
「くく…悩め悩め」
 完全な棒読みで言った。「独り言にお返事してくれるなんて優しいんですね」
「独り言だっつーのに返事が返ってきやがったうぜー」
「…」
「……」
「シャル…!」
「なに、店長」
「わたしね、シャルが好きだよ。シャルはただの同僚じゃなくて本当に良い友達だと思ってる。シャルの有難味が五臓六腑に染み渡ってるよ、今…!」
「はいはい、ありがとう店長。オレも好きだよ?」
「店に着いたらシャルにハグしたい」
 冗談めかしく言われた。「わぁ嬉しい。クーラーの前でよろしく」
 まだまだ熱弁していると店が見えてきた。今日は猛暑のためテラスには誰もいない。店内といえばボックス席が幾つか開いているように見える。
「二人とも、時間大丈夫?」
「店長、なにか奢ってくれるんだ?」
「アイスコーヒーでよければ」
 アイスコーヒー2杯くらいなら、どうってことない。こんな時、名ばかりの店長でも権力はあるのだ。
「フィンクス、あなたは?」
 わたしも子供ではない。先ほどの空気を吹き飛ばし、運転席を見ながら問うた。呼ばれた本人は無表情のまま、店の路地裏にハンドルを伐った。指先で教えた駐車場に難なく車を停車させて、エンジンは、ここで切られる。
 やがて、ようやくわたしに目線を合わせたフィンクスは、彼にしては小声で「飲む」と言った。わたしは、良かったと笑う。
「運転ありがとう」
 そう言って、わたしは車から出ると颯爽と店に向かった。気温は大分上がっているのか、瞬く間に体が火照る。
 背後では、二人が並んで着いてきていた。わたしは到着した店のドアを開け、にっこりと微笑む。
「ようこそ、サンアンドムーンへ」
 ドアベルが元気良く鳴らされた奥から、「いらっしゃいませ」が揃って声を上げている。シャルが一人すたすたと入店するがフィンクスは、わたしをじっと見据えてから言った。
「その顔、癇に障る」
 その後、シャルに続いた。
 無表情で言ってきたのにも関わらず、どこか嫌な感じがしなかった。わたしは、その不思議な感覚に疑問を持ちながら、店員たちに挨拶をする。

 クロロが変わったとフィンクスは言った。わたしは、その誤差を見極めるため、脳みそを捻り出して考えるが、やはり正解は彼方だ。
 いつかのクロロが言った。『現在の正解は後からついてくるものだとオレは思っている』
 ああ、本当にその通りかもしれないと、わたしは苦笑する。(でもそれは、気づいてはいけないような気がする)
 後にクロロから、こんな言葉が送られてきた。

 "言い忘れてた。ドリンクありがとう"

 今、わたしが分かっていること――それはクロロが初期に比べ、"ありがとう"を言ってくれることだ。

Thank's

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(20170821)

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