断固として拒否など許されない命令だった。来い、とたった一言、声の主が指示された場所に行くため、わたしは携帯電話を片手に歓楽街を歩いている。途中、酔っ払いやナンパに出くわしたが難なくすり抜け、目的地に到着した。 黒を基調とした重圧なドアを前に戸惑っていると、どこからか声が聞こえてくる。身元を言わなければ入られないらしい。会員制のバーかと気づいたのは、この天井にある監視カメラを発見して間もなくだった。 呼ばれた人物の名前を言うとドアは解錠され、開け放たれた先に見たのは暗黙と地下へ続く階段。足許のライトアップされた光だけが唯一の道筋だ。 ようやく到着した先にあるドアを開けると、別世界のフロアが広がっていた。店内は相変わらず薄暗いがアーティスティックな世界観に、わたしは魅了されている。 「様ですね」 「はい」 天井を、ぐるりと見渡していると男性に声をかけられた。驚きのあまり即座に返事をしてしまうと柔らかな笑みを向けられ、気恥ずかしくなったわたしは、目線を下に落とす。 男性の格好を見る限り、バーテンなのだろう。白シャツに蝶ネクタイ、黒のボトム――質の良い制服だ。生地の光沢が、まるで違う。 「お連れ様がお待ちです」 そう言うとバーテンは背を向けたが一度だけ振り返り、わたしに目線を寄こして来た。ついて来て、ということらしい。 大人しく後をついていくと、洒落た階段を上らされ、幾つかのドアが廊下に並んでいた。その内の一つをバーテンがノックすると、中から返事が聞こえてくる。 本日、三度目のドアだ。自動的に開けられた先には、広々とした室内。そのど真ん中を陣取っているのは、大きなソファとローテーブル、そして――わたしを呼び出した人物がウィスキーだろうか。それを呷っていた。 カラン、氷が弾かれた音と同時にグラスがコースターに置かれた。わたしの存在に気付いた男の第一声はこれだ。 「来たか…今日こそ逃げるなよ」 にやりと口許を撓らせた男の顔が憎い。 わたしは、奥歯を強く噛んでから苦虫を潰したような表情で、歩を進めた。背後で閉じられたドアの音が、やけに大きく双耳を貫く。 「上司命令って大体がパワハラだと思います」 「うるせェ、飲め。なに飲むんだ? つーかもうウィスキーでいいだろ」 「ロックは勘弁してください」 雑すぎるほど氷をグラスに放り込まれ、ウィスキーが注がれた。どうやら要望通りに作って頂けるようだ。見たことのない壜を手に取り、ミネラルウォーターだろうものが更に追加される。銀のマドラーで、ざくざく混ぜられた飲み物は、わたしの目前に置かれた。 グラスの中身がボルテックスしている。目で追うと違う意味で酔いそうなため、わたしは早々に男のグラスに自分のものを傾けてから「頂きます」と言って飲んだ。混ざり切れていないため、アルコール濃度が一定していないと舌が言った。 しかめっ面で斜め向かいにいる男を見る。無精髭に、めずらしく今日は質の良いスーツを着ていた。アンバランスな格好に苦笑してしまいそうだが、やめた。どんなのであれ、この人はわたしの上司だ。上司だ。ジンさんである。 「とても高そうな味がします。これはジンさんの…?」 「エロジジィのボトル」 「え」 「この店に来たら、ジジィのボトルはオレたちが飲んでいい決まりがある」 オレたち、というのは恐らくジンさんクラスの役職の付いた方々の事を言うのだろう。わたしのような平は、こんなこと出来やしない。 会長、太っ腹だなと思いながら更に一口飲む。クロロだったら、なんという感想を持つだろうか。わたしは脳内の片隅で、とりとめのないことを思った。 「…」 名前を呼ばれ、両肩が跳ね上がった。グラスをテーブルに置き、わたしは俯くと目蓋を閉じる。ずっと逃げていたことが予想外に早い段階で来てしまったのだ。 あの日から逃げていた。パーティーで同伴してから、多忙を理由に、わたしは今日までジンさんから逃げ続けていた。だが、ついに勧告宣言では生ぬるい、上司命令という言葉でここに来るしかなかった。 「今日こそ首を縦に振れよ」 「大体の予想がつくから逃げてたんです。あーもーやだ」 うっかり本音が語尾に付いてしまったが止められなかった。 「お前はオレの隣で、ただ置物みてェに座ってりゃいいんだ」 「あーあー聞きたくない聞きたくない」 「クロロ=ルシルフルに会わせろ」 うわああああ――と、絶叫してしまいたかった。ついに最後まで言われた言葉に、わたしは項垂れる。 バーティーの後、二人で反省会をしてから嫌な予感はしていた。あの夜は、ほぼわたしへのダメ出しだったがクロロの話をする度にジンさんが何か好からぬことを考えている表情が窺い知れていたのだ。 絶対に会わせたくない二人だと、わたしは思っている。パーティーの最中、ジンさんに言ったが、わたしはクロロをビジネスに利用したくない。もしもビジネスにしてしまったのなら、”友人”への冒涜になると思っている。 クロロが承諾したとしても自分が納得出来るか、そこが肝なのだ。 「一応聞きますけど、クロロに会って何をしたいんですか?」 ここまで言って、わたしは頭を振り、自分の発言を撤回する。「…いいえ」 「なにを考えているんですか?」 にたり、とジンさんが笑った。食えない笑みだ。 「オレはお前のそういうところが気に入ってる」 わたしはジンさんのグラスが空になっていることに気付くと、それを手に取り、無言でアイスペールに突っ込まれているトングを掴んだ。少し溶けかけてきている中身から大きめの氷を厳選して詰め込む。 「ビジネスと言えばビジネスだが、それは会社にとってのビジネスじゃねー」 物騒な物言いに何も答えず、ウイスキーの壜を傾けた。照明に反射している氷が、無音で一回りほど小さくなった気がした。8分目のところまで注ぎ終わると、ジンさんが真っ先にグラスを取った。 咽喉仏が二度、上下に動く。グラスの中は、半分まで無くなっていた。 「オレ個人として情報を共有したい」 わたしは、両目を見開く。 「お前が思っているほど物騒なことじゃねーよ」 「オレ個人として、と言いましたね。その弁解はないんですか」 「ない。本当の事だからな」 「…」 「…なんだよ」 「……」 「だからなんだ」 「…………」 「あー分かった!」 じっとりと見つめたわたしの視線に耐えきれなくなったのか、ジンさんは頭を無造作に掻いて答えた。 「いずれ会社にとっても有益になるかもしれない、とだけ言っておく。これがオレから言える最大の譲歩だ」 「クロロにとって危険なことは?」 「絶対ないとは言い切れねーな。あっちの情報と出方次第か」 ある程度の真実が隠れているだろうが、ジンさんが言った言葉の全てに嘘偽りはないだろう。そう思わせるほど、わたしはジンさんを信頼している。 うん、と唸りながら顎に手を持って行き、考える。オレ個人ということは彼の単独行動であり、会社――つまり会長――はジンさんの思惑は知らない。全体の会話を聞いて察するに、クロロにとって有意義になるか不透明。 「ジンさんがクロロにアポを取ればいいんじゃないんですか? わざわざ、わたしを通さなくても」 「取ろうとしたが社長は多忙ですの一言で一蹴された。待つ、つってんのに無理の一点張り」 「…」 「待ち伏せして話しかけたが腹が立つほどスルーされた」 青筋を立てて言うジンさんに可哀想という感情が沸いたが、わたしの口許は笑いを堪えているため歪んでしまっている。このジンさんを、あのジンさんを完全シャットアウトしたクロロ。特別賞を贈りたいところだ。 と、ここで疑問がある。クロロは会社を大きくするために恐らく色々な行動をしてきたと思うのだが、クロロの事だ。ジンさんの事を調べれば、一発で彼が色々な意味で有名人だと分かることだろう。ジンさんには功績もある。それは良い意味でも、悪い意味でも。 好転に繋がるのであれば、クロロは飛びつくのかと思っていたが、わたしの予想を超えてクロロは警戒心が強いのかもしれない。クロロにとってジンさんとの会合は、不利もしくは利害の一致はないと踏んだのだろうか。 「なに考えてんだ」 「…いいえ」 誤魔化すかのように、水割りを呑む。いいえ、と言ったもののジンさんはわたしが何を考えているのか予測しているだろう。鋭利な視線が痛いのだ。 「で、だ……上司のオレが、これだけ頼んでんだ。もちろん断らないよな?」 威圧感が立ち込めている様子に、わたしはひっそりと溜息を吐いた。怖いという感情はない。何かといわれれば面倒の一言だ。 確かに、わたしとジンさんは上司と部下と言う間柄だが、時折その枠を超えてしまうときがある。会社から一歩出たとしても上下関係は変わらないものの、物事をきっぱり言えるのだ。それは、昔わたしが破天荒なこの人から離れたくて、嫌われる覚悟で意見を述べたことが契機だった。 後で聞いたところによると、”そういう部下”が欲しかったらしい。ミザイさんが言っていたため、本当の事だろう。 「嫌です」 満面の笑みで答えると、「テメェ、くっそ…!」と首根っこを掴まれた。 ジンさんが求めた部下は、自分の言いなりではなく、きちんと自分の意見が言える人間が欲しかった。しかし、ここでは仇となった。 わたしは自分の体面よりも友人を取ったのだ。そして、ジンさんがわたしをクビにしないだろうという甘さがあることを知っていたためだ。ジンさんで無かったら、今頃わたしは再就職先を探している。 わたしは、彼の部下で良かった。 「ジンさん」 「あ”?!」 「わたし、あなたの部下で良かったです」 本当ですよ、と付け加え、掴まれた手を払うと彼は息の詰まったような表情をしたのだった。 結局、否やはりジンさんに論され、とりあえず”わたしからクロロに一言”という形で話し合いはまとまった。何となく事の顛末は分かっているが、ジンさんがこれで納得できればそれでいい。 そして、わたしはウィスキーをキャパシティ間近まで呑まされたため早々に帰りたいが本音だった。 危うい足取りのままバーを出た。今日しくじったことは、ヒールの高さだった。道路に出てすぐに躓きそうになると、ジンさんに腕を捕まれ、引き寄せられる。「あっぶねーな」 「ああ、すみません。ありがとうございます」 肩が密着したが、条件反射により距離をとる。それから、わたしたちは気にすることなく下世話をしながら大通りを目指した。 時折、大口を開けながら笑い、どつかれりタックルしたりとやりたい放題。アルコールは偉大である。まるで兄妹のようだと誰かに言われたことを思い出す。 「…こんな兄貴、嫌だな」 「なに言ってんだ」 後頭部を、がしがしと撫で――いや、混ぜ――られる。どうせ、この後家に帰るだけだと、わたしは面倒を理由にジンさんのされるがままになっていた。髪は今頃、鳥頭だろうに。 「……」 「どうしたんですか」 この時、わたしは何も知らなかった。 「…いや、随分と熱い視線が刺さるなと思ってな」 「どこからです?」 左右確認するが眠気と酔いが回ったわたしは、何も感じられない。 「まぁ勘違いだろ、オレの」 めずらしく発言を撤回した様子に不思議と思ったが、わたしはそれ以上を掘り下げることなく「変なの」と言って素の笑いをジンさんに向けた。彼は、呆れた表情でわたしを見ている。 「…能天気なのは本人だけだな」 ジンさんの言葉の意味さえも、わたしは知らなかったのだ。 「……」 遠くでクロロがいたことを、わたしとジンさんの様子を背後から見ていたことを。 これが今後、起きるプロローグなど、わたしだけがまだ――。 プロローグ |
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(20171207)