8月某日。熱帯夜から程遠いバーの片隅で、わたしはシャルと常連客と共に他愛ない会話を紡いでいた。どこの店のランチが美味しいとか、新装オープンしたあの店の味は落ちたとか、日常にありふれた内容だ。 火曜日といえば、無論の事クロロが来る日なのだが、彼は30分程前に帰ったばかりだ。どうやら仕事が立て込んでいるらしく、マティーニを2杯胃に押し込めるよう呷ると早々に行ってしまった。 シャル曰く、夏イベントがどうとかで本当に多忙のようだ。8月に入ってからわたしがクロロと会ったのが今日初めてだったのが良い証拠である。帰り際、「無理しないでね」と声をかけることしか、わたしには出来なかった。 常連客を見送り、わたしたちは互いに息を吐くと同時に笑い合った。今日来たお客は会話が大好きで、長時間付き合っていると後々疲労が来るのが本音だ。これも仕事なので、顔には一切出さないが。 室内は一気に華やかさが消散され、わたしとシャルは、ぽつりぽつりと会話を始める。 「シャルは大丈夫?」 「なにが?」 「会社、忙しいんでしょ」 「社長ほどじゃない」 磨いたグラスをライトに向けて掲げながらシャルは言った。この会話から察するに、彼もお疲れのようだ。 「片付けはわたしがやるから、先に帰ってもいいよ」 時刻は11時30分を過ぎたばかりだ。もう来客がなければ、閉めてもいいくらいだが、それが出来ないのが飲食店である。 「店長、優しいー」 口笛を吹き、笑顔を向けてくるシャルに一喝。「茶化さないで」 「本当だって。店長は何だかんだで優しいよ」 「褒めても何もないからね」 「でも社長には厳しいよな」 「クロロにはスパルタなので」 なんだよそれ、とシャルが笑いながら言った時だった。 「ビール」 背後から唐突に注文と思わしき声が聞こえると、わたしは間抜けた声を上げて振り向いた。何となく声で分かってはいたが、トラブルメーカーと称したい上司が悪びれた様子もなく突っ立っている。 「ジンさん! 裏から入って来たんですか?」 「それ以外なにがあるっつーんだよ。…おい、兄ちゃん。早くビールくれ」 兄ちゃん、とは無論シャルの事だろう。シャルは一瞬、呆気にとられていたようだったが、すぐさまビールサーバーの前へと急いだ。 こめかみを抑えながら今日は何を言われるか予想立ている間、ジンさんはわたしたちを通り過ぎ、表に出るとカウンター席のど真ん中を埋めた。互いに向かい合っている形だ。 これまでの経験上、100%と言っていい。ジンさんがわたしのところに来るのは、確実に仕事の話だ。前回の会員制バーの出来事もそれに数えられる。上司と部下という、わたしたちは仕事以外の接点はない。 というのも、実のところあれからふたりきりでクロロに会っていないため、ジンさんとの約束を果たせていないのだ。 その答えを聞きに来られると色々とまずい。何せ、今隣にはシャルがいる。わたしにとって、あれは誰にも聞かれたくない事柄だった。 「…なにを目的として来たんでしょうか」 震える手でチョコレートを缶のままテーブルに置いた。皿に盛りつける余裕が、わたしにはなかったのだ。 「んな怯えんな。急かしに来たわけじゃねーよ」 「 「おい、心の声がダダ漏れだぞ」 ここで、シャルがビールをコースター上に置いた。タイミングの良さにシャルを見上げるとウインクされる。さすが、わたしの天使だ。 不機嫌を露わにしながらも、ジンさんが一気にビールを飲み干してしまう様子を黙したまま見届けた。グラスを置いた音が会話の合図のように、上唇に泡を付けたまま、ジンさんは言った。「なぁ、お前――」 「今週の日曜、ヒマだろ」 「はい?」 「よし、10時に駅前のバス停に来い。遅れんなよ」 「ちょっと待ってくださ――」 わたしが焦燥しているとジンさんは懐から何かを取り出し、テーブルにドンと置いた。チケットと思わしき物が見え、嫌な予感が背中を走る。 取り繕ったような笑みを向けられ、毎度の如く拒否権などなかった。 「動物園、行くぞ」 青天の下、わたしは日除けも兼ねた帽子を被りなおしながら、目前にある二つの影に視線を落とした。二人は、はしゃぎながら手元のパンフレットを覗いている。 黒髪の子が「ここに行こうよ」と提案すれば、もう一人の子が「効率悪ぃな」と横やりを入れているが、指先でルートを作り、提案している。わたしが上から目線で言うのも何だが、良くできたコンビだと思う。 「さんは見たい動物ってある?」 「別にねェだろ。何回か来たことあるって言ってたしさ」 「…うん、二人に任せるよ」 わたしは今日、まだ中学生にもなっていない子供たちの保護者である。 事の発端はジンさんの一言だが、わたしが予想していたお誘いとは大分違っていた。わたしはてっきり――理由はさて置き――ジンさんと行くとばかり思っていたが、ご覧の通り蓋を開けてみれば、ただの保護者である。 後で合流するとジンさんは言っていたものの、本当に来るかどうかも疑問だ。何せ、この二人の内の一人、黒髪の子はゴンくんという名前でジンさんの息子さんなわけだが、彼がゴンくんと会うのは妙な照れくささがあるようだった。言うならば、わたしが中和剤みたいなもので、それに巻き込まれた形だ。 ゴンくんとは何度か面識がある。会社の飲み会で、手が付けられない程べろんべろんに酔ったジンさんを迎えに来たのは、このゴンくんだったからだ。二人は一緒に住んでいないものの、時折ジンさんのところに滞在するらしい。小学生によりタクシーに詰め込まれたジンさんを見たのは、後にも先にもあれっきりだ。 当時、結婚していたことも、更に子供がいたことすら知らなかったわたしは、あの衝撃を今でも忘れられない。度肝を抜かれた、という言葉が、あれほど似合う事実はないだろう。 そして後に聞いたことが、ジンさんに奥様がいないということだった。離婚、はたまた――男性に使う言葉ではないが――未亡人という二説があるが真相はジンさんしか知らない。 語りたがらないとミザイさんが前に言っていたため、わたしは、この話題を掘り下げることなく、ただ受け身のまま保持している。 ジンさん自ら、この話題を振るのならまだしも、今のところわたしに出歯亀根性はない。人間、誰しも秘し隠したいものがあるはずだ。 「さん」 一人回想に耽っていたわたしは、名前を呼ばれ現実に帰った。何ともない素振りをし「なに?」と少し屈むとゴンくんが太陽のように笑う。 「早く行こうよ!」 そして、わたしの手を引いた。思った以上の引力に少し戸惑ったが、駆け出した足は人ごみをすり抜ける。 背後を振り向くと、もう一人の子――キルアくんも付いて来ていた。彼は、わたしと目が合うと、そっぽを向く。どうやら、わたしはあまり歓迎されていないようだ。 このキルアくんという子はゴンくんの友達で、わたしとは今日が初対面である。 少しつり上がった大きな双眸は猫目を思い起こし、色素の薄い髪は走る度に軽やかと揺れる――もしかしたら猫毛のように柔いのかもしれない。 ゴンくんほど人懐っこくはなく、どこか大人びた雰囲気が彼にはあった。未だ一時間も共にいないが、パンフレットを眺める時やゴンくんとの会話など観察していると二人を対比してしまうからか、より浮き彫りにされる。 それでも、子供らしくお菓子には目がないようで、入園して早々にチョコレート菓子を買いに行く姿は微笑ましいものであった。無論、可愛さ余って会計を申し出たのは、わたしだ。 : 日曜日の動物園は、予想通り人ごみに溢れていた。 真夏、更に人口密度で熱が充満しているが、この動物園は山麓に園を構えているため、街よりは涼しく避暑地に近しい。しかし、どうあっても暑さは感じるため、プラスマイナス・ゼロと言ったところか。 「もうすぐお昼だけど二人とも、お腹空いた?」 「オレは大丈夫! ジンもまだ来てないし」 「アイス食おうぜ、アイス」 元気良く答えたのはゴンくんで、アイスを強請ったのはキルアくんだ。恐らく前者は、ジンさんが来たら4人で食べようという心遣いなのだろう。 なぜズボラなあのジンさんから、こんなにも素直で優しい子供が出来たのか不思議だ。わたしは一人感動しながら自然と笑顔になってしまう。 「じゃアイス食べようか」 人ごみに四苦八苦しながらも動物たちを見て回ったわたしたちの咽喉は、砂漠の如く干からびている。アイスなど一瞬でなくなってしまうだろう。ついでに水分補給もしたいところだ。 キルアくんはアイスショップを探すために早速パンフレットを広げ、ゴンくんはそれを覗いていた。 子供たちにはアイスとジュースを、わたしはアイスティーだけでいい。そう思い、二人から顔を上げた――その時、わたしは予想だにしない光景を目にした。 黒シャツはラフそうに見えて、名の知れたブランドものだとわたしは知っている。下ろされた黒髪は陽光を吸収しているように見えた。世界を照らす燦然の輝きは、彼の前では全て無になる。 花びらを何枚も重ねたようなシフォンたっぷりのワンピースが渇いた風に乗せて、ふわりふわりと靡く。なんて女の子らしい女性なんだろう。わたしとは真逆のその女性に面識などない。 女性と二人で並ぶその姿は、陳腐な表現ながら映画のワンシーンのようだ。彼の腕には女性が自らの腕を絡ませ、反対の手は懐中に突っ込まれていた。 彼が――クロロが、わたしに気付く。 大きく見開いた双眸が、やがて僅かに目尻を下げ、口許が微笑んだ。わたしが良く知る破顔だった。その眉目秀麗の一部である口唇が恐らく""と模り、懐中から取り出した手が、こちらに向けられる。 わたしは、誰にも知られないような吐息を一つ。それは、嘲笑にも茫然自失にも取れるものだった。一寸の間。 バカだな、クロロ。 「アイスショップ見つかった? キルアくん」 「ああ。ここから右に向かえば、すぐにあるぜ」 「うーん…5分くらいかな?」 わたしは名前を呼ばれても、返事をする気はない。 「二人は何のアイスを食べるの?」 「えーと、オレはね…」 「オレはチョコだろ、あとはソーダ味に…――」 手のひらを振り返したりはしない。 「…OK 全部食べたいのね……よし、と」 「げ、手繋いでくんな。離せよ、子供じゃねーんだから」 「キルア、照れてる」 わたしの両手は、この小さな可愛い手で塞がった。 「照れてねェよ!」 「顔、赤いよ」 「ほら、二人とも早く行こう」 言い合いを始めた二人の手をぐいぐい引くと「どっちが子供だよ」とそっぽを向いたキルアくんに言われた。わたしは笑って、ワンシーンを切り取ったような世界とは逆の方向に歩き出す。 ――ああ、本当に彼はバカだ。 幾ら友人とは言え、明らかなデート、そして面識のない女性の前で手を振るほど、わたしは野暮ではない。例え女性が恋人でなくとも、タブーだろう。 わたしは男女の縺れ、という予測が僅かでもある限り、自己防衛と回避をする。それに加わる気などないのだ。これは、わたしが人生で培ってきた経験による、現在の選択である。 思えばクロロに恋人がいるという話を聞いたことはなかった。いつかのクロロが「オレには今現在そういった女性がいない」という事を言っていたような記憶はあるが"今現在"というのは、その瞬間の話で翌日には恋人が出来たのかもしれないのだ。好みのタイプも外見も、何もかも、あまりそういった話題をしたことはない。 どうなのだろう。隣にいた女性は恋人なのだろうか。であれば、わたしの存在は煩わしいものではないか。有限な彼の時間をわたしが独占している気がすると思うのは、自惚れかもしれないが。 ぎゅう、と無意識に力を込めた両手。握り返された手は片方だけ、ゴンくんだけだったが、キルアくんは未だ文句を言いつつも、手を離さないでいてくれた。 「…本当、バカだな」 何度も何度も、何度も。ひっそりと胸中で呟いた台詞を、今度は声に乗せた。 わたしにしか聞こえない言の葉は、大気に溶け無常の風となる。センチメンタルに見せかけた、この複雑な想いと言葉は、誰にも知られることなく――。 これが正しい、正解だと導かれた回答は正当化だ。なんと身勝手なものだ。冷えた脳内では、機械的に現状を処理している。 それとは逆に子供たちの手は、体温は、とても熱い。 何度も何度も、何度も (ゴンキルは控えめに言ってもくそ可愛い) |
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(20171211)