ロッカールームで制服に着替え、身なりを整えてから目指すはカウンター。そこには既に雇われマスターであるシャルナークが丁寧にグラスを拭いている姿があった。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
「店長、おはよう」
 さらさらの金髪に負けないほど眩しい笑顔を向けたシャルの顔は今日も絶好調だ。
 この笑顔と挨拶から、火曜日の夜が始まる。

 何を飲むか迷っちゃう。
 そんな女子にお勧めのドリンクが幾つか存在するが、うちは畏まったバーではない故、大部フランクな進め方をしている。
「では、どうぞこちらから選んでみてはいかがですか?」
 背後にずらりと並ぶアルコールたちの隅には数冊の本が肩身狭く並んでいる。その中の一冊を救出して女性客に見せた。彼女たちは興味深そうにページをめくると見る見る内に目を輝かせた。
 ページには写真と説明付きのカクテルが紹介されている。色とりどりのそれらを見て、まるでウインドウショッピングをしているかのような気分なのだろう。これも綺麗、美味しそうと言った黄色い声が店内を満たしていた。
「いかがですか? 気になるカクテルはありましたか?」
 散々迷ったあげく、彼女たちが選んだカクテルは見た目も名前も麗しい“楊貴妃”というカクテルだった。ライチやグレープフルーツが入っているからか飲みやすそうでもある。
「かしこまりました。――じゃ、マスターよろしく」
「うん、そうなんだよね。全部オレなんだよね」
 冗談めかして言うシャルとわたしのやりとりに彼女たちは笑い、華やかな空気が流れた。
 そのときドアベルが鳴り、顔を向ければ突然の真打ち登場にわたしの体が飛び跳ねた。壁時計に目を向けると時刻は10時。いつも10時前に心の準備をするのだが、今日は目前にいる可愛らしいお客に失念していた。
 わたしよりも早く挨拶をしたのはシャルだ。「いらっしゃいませ」
「い、いらっしゃいませ」
 釣られるようにわたしも在り来たりの言葉を発する。隣でシェイカーを振るっているシャルを置いて、颯爽といつもの席に座った彼の前に立った。目が合うとやはり言われる。
「マティーニ」
「いつもありがとうございます」
 すさまじい目力に圧倒されながらも返事をし、目線だけでシャルに合図する。シャルはといえば、手際よくシェイカーからグラスへと注ぎ終えたばかりだった。出来あがった楊貴妃を笑顔で女性客に渡すとすぐさまマティーニに取りかかった。
 わたしはシェイカーを洗うためシンク前に立つ。洗いながら思うことは自分のふがいなさだ。
 週一ではあるが常連である彼にわたしは未だ緊張が取れない。お花畑のような時期は既に卒業したというのに、この緊張は初恋の一ページに酷似していた。恋したてのあの頃は緊張ばかりだったと。ただあの頃と違うのは、恋をして緊張しているわけではないことだ。
 カウンターから流れる異様なオーラ。もはやこれに慣れろと言うのが無理だ。シャルはといえば本より性格上、気にとめないのだろう。どんな客であっても笑みは絶やさない。
「オリーブ出して」
「はい」
 洗い終わったシェイカーをシンクの横に立てて手を拭くと、わたしは冷蔵庫へ急いだ。オリーブを取り、カクテルピンを刺す。出来上がったばかりのマティーニにオリーブを入れて彼に差し出した。小皿も忘れずに、いつもの流れだ。
「お待たせしました」
 程なくしてオリーブを齧った音が微かに聞こえてきたが、それは数席離れた先ほどの女性客の声でかき消された。
 どうやら自分で選んだカクテルがいたく気に入ったらしく、次はどれを飲もうかと嬉しそうに話している。わたしは花たちの様子に微笑んでから、水滴のついたグラスを拭き始めた。

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 30分後、マティーニを飲み終えた彼を見て、お勘定かと察して近づいた。
 彼の前に立つとダイレクトに目が合う。とりあえず微笑んでみる。財布を取り出さないのかと緩く思っていると予想外な出来事が起きた。
 彼は女性客が未だ本を眺めている様子を横目で見た後、わたしと目を合わせると、ゆっくり開口した。
「カクテル言葉があることを知ってるかい?」
 マティーニ以外の羅列を一気に聞かされ、わたしは思わず目を見開いてしまったが、すぐに平常心を取り戻して答えた。
「はい、少しだけなら」
 彼は、にこりというかニヤリと笑うと両肘をテーブルに置き、両手を組んだ。その姿に正直震えた。
「バイオレット・フィズ」
「はい?」
「バイオレット・フィズのカクテル言葉は?」
「えっと……私を覚えていて」
「正解」
 次、と言わんばかりにカクテル先生(たった今命名)の問いは続いた。
「ダイキリ」
「希望?」
「モヒート」
「心の乾きを癒して!」
「カシスソーダ」
「あなたは魅力的」
「ご名答……――スクリュードライバー」
 ここまで来てわたしは頭を抱えた。思い出しそうで浮かばない正解が咽喉まで来ていると言うのに、もどかしい。
 そもそも、なぜわたしがカクテル言葉を知っているのかというと、彼女たちに見せている本にはカクテル言葉も添えてあるものが一冊だけある。覚えたいと思って覚えているわけでもなく、仕事柄もあり、本を広げている内に覚えてしまったのだ。
 彼ことカクテル先生は優しい。彼がこれまで出してきたカクテルは定番と言っていいほどのカクテルだ。例えばマティーニにも種類があり、それらはみんな意味が違うはずだ。マティーニ全て言えと言われたら、わたしは真っ先に「鬼か」と呟いていただろう。
 スクリュードライバーは飲みやすく、わたしは好きだ。だからこそ悔しい。
「すみません、忘れました」
 肩を落として、あっさりと白旗をあげると彼は勝利の笑みを浮かべて答えた。

「――お前に、心を奪われた」

 ゆっくりと感情込めて言われた言葉は、わたしだけではなく店内にいる女性客をも魅了した。心臓が胸を飛び越えたのではないかと思うほど高鳴り、顔は火が噴くほど火照る。わたしは言葉を紡げなくなる。

 正解を言ったのではなく、まるでわたしだけに向けた台詞だと錯覚してしまったのだ。

 見つめ合って数秒、わたしの様子に、くっと喉で笑い出した彼を見て正気に戻った。わたしはからかわれたのだ。
 少し時を遡ってみよう。彼が出した問題はほぼ、口説き文句そのものだ。その後、こうして笑われているのだから、からかわれたというわたしの判断は間違っていない。
 咳払いをし、わたしは心を落ち着かせてから、ようやくポーカーフェイスを取り繕った。
「驚きました。お客様はカクテル言葉にお詳しいんですね」
「知り合いがバーを経営していて、それで少し。素人に毛が生える程度だけど」
「いえいえ、十分お詳しいです。少なくとも店員のわたしよりも」
 客を立てて話をする。教科書通りでもあり、本当の言葉を並べると彼は何も言わずに財布を取りだした。
 何か気に触れるようなことを言っただろうか。彼の手元を見ながら、わたしだけ緊張が高まる。
「オレがいつも飲むマティーニは、ジンではなくウォッカにして貰っている」
 彼はシャルに一度目線を送ると、またわたしに焦点を絞った。
「いつもマティーニと注文しているが、本来はウォッカマティーニだ」
 そういえば以前マティーニと注文しているのに、彼だけウォッカを使用していることをシャルに聞いたことがあった。するとシャルは「あのお客の言うマティーニは、ウォッカマティーニのことだよ」と教えて貰った。そのことを思い出しながら、まだ続くだろう彼の話を待つ。
「次の課題はウォッカマティーニにしよう」
「……え」
「また来週の火曜に来るよ」
 お札を取り出して、いつも通りお釣りがいらない仕草をしてから彼は帰って行った。辛うじて「ありがとうございました」は言えたものの、わたしの頭上には大きな疑問符が幾つも浮かんでいるだろう。
 隣ではシャルが女性客の勘定を済ませていて、笑顔で手を振っていた。わたしは慌てて頭を下げ、ドアが終ったと同時にシャルに詰め寄った。
「ちょ、あのお客さん謎過ぎなんだけど…? 喋らない人かと思ったらカクテル問題ガンガンぶん投げてくるし、しかもけっこう饒舌かと思えば会話が成り立っていないように見えたし、わたしの中の接客マニュアルが崩壊寸前なんだけど」
 店内はお客が誰一人いなく、わたしは言いたい放題だ。その様子にシャルは、くつくつと笑って落ち着かせるように肩を叩いてくる。
「考え過ぎ。彼にも喋りたくなる日があるんじゃないかな」
「それが今日ってこと? 全然見分けつかないんだけど…いっそ合図でもしてくれればいいのに」
「合図って挙手? それはちょっと、というかかなり難しいね」
「"今日お話したいです"なんて彼が挙手したらシュール過ぎるわ」
 冗談を交えながら話していると、わたしは先ほど告げられた課題を思い出した。背後にあるカクテル本を取って表紙を捲る。ウォッカマティーニの項目を見つけるとページを見開いた。
「――…選択?」
 わたしの後ろで同じくページを覗いているシャルも同じように口走っていた。
「彼はいつもここで選択しているの? いったい何を……?」

 一口しか用のない、満ち欠けたオリーブ。舌先から、じんわりと広がるマティーニ。咽喉が焼ける感覚と、腹に沁みるアルコール。愛想笑いのバーテンと隣から聞こえて来る雑音、そしてジャズ。
 彼はこのバーカウンターの片隅で一人、何を考え、何を見て選択していたのだろう。
 深まる謎は、正解をも飲み込んで夜に溶けた。

満ち欠けたオリーブ

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(20160608)

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