「店長、大丈夫?」 「しくじった、でも大丈夫。ちょっとふわっとしてるだけ」 時折、奢りだと言われて客にカクテルをご馳走になる場合があった。帰りは差し支えないのだが、気前の良い客が立て続けに来ると身が持たないし、何よりも仕事に支障が出る。 カクテルは、あの小さなグラスの中に二桁のアルコール度数が入っている。ものによるが、わたしの場合は二十度を越すカクテルグラスを5杯ほど呷れば足は千鳥足だ。そして酒の力は偉大なもので少しの勇気が沸き上がる。 これを人は怖いもの知らずとも言う。 眠いと付け足したかったが止めた。なぜなら今日、わたしはここで会わなければならない人がいる。 あれから一週間後の火曜日。わたしは既に帰ってしまった客にカクテルを合計5杯ほど頂いた結果、この有様だが帰るわけにはいかない。バーメイド失格――全くの通りだ。 ついでに言えば酒は得意なわけでも不得意でもなく、嗜む程度。面白味のないほど普通だと思う。 「せめて10時まで持てわたし。あの綺麗な顔が歪む姿を見るまで帰れない!」 「うん、酔ってるね」 とろんと溶けた目で隅にある携帯を覗く。あと3分、きっと彼の顔を見たら酔いも醒めるのではないかと、わたしはそんな期待もしていた。 「課題の答えは見つかったの?」 無意識に揺れていた体が、ぴたりと止まった。 「もちろん! たぶん…」 彼が出したウォッカマティーニのカクテル言葉は“選択”。その“選択”を課題にした彼の求める解答は在り来たりのそれではない。 それはシャルも同じことを思っていたのだろう。心配そうでも、また愉快を含めて聞いてきたのだ。 「ふーん。ま、楽しみにしてるよ。オレは横で見てるから」 そのとき、タイミング良くドアベルが来訪を告げる。 「ほら、噂をすれば――」 薄暗いバーでも歩く度に彼の革靴が、僅かな照明に反射して光った。足元から徐々に上へと視点を流せばスーツパンツの懐中に手を突っ込んで歩いてくる陰。 「いらっしゃいま、せ?」 彼の特等席に当然の如く座った客に、わたしは思わず疑問符を付けてしまった。 目前の客は見当違いの客だ。 「マティーニ」 いや、見当違いではなかった。今日も仕立ての良い黒スーツを着こなしている彼は、わたしの待ち人だった。 「……イメチェンですか?」 「仕事以外は髪を下ろしてるんだ」 髪型が違うだけで、人はこうも変わるものか。 髪を下ろしている彼は、随分と柔らかい印象を与えているからだろう。思わず口走った言葉は、自然と付いてきたものだ。 「オールバックの時は、お仕事帰りなんですね」 「いつもの引きつった笑顔に飽きていたのもあるけど」 「すみません、正直で」 彼の顔は穏やかで、二週間前のわたしなら想像しなかっただろう空気が出来ていた。 どこか幼い印象になってしまった彼。年齢不詳の彼に、わたしは一瞬興味を抱いたが止めた。 ここではわたしはただの店員であり、彼は客。それ以上を持ってはいけない。これは学生時代にアルバイトをしていた頃からの、わたしのマイルールであった。 「どうぞ、マティーニです」 会話をしていたせいか、わたしの分まで整えてしまったシャルがコースターの上にマティーニを置いた。わたしは慌てて小皿を置く。彼は早速オリーブを齧る。 最初の一口を喉に流し、オリーブを食べ終えた彼はすぐさま口を開いた。 「早速だけど、課題を提出してもらおうか」 先ほどまでの強烈な眠気と酔いはどこに行ったのだろう。彼の一言で、わたしは鮮明とした視界と脳味噌を持ち、得意気に頷く。 小さく深呼吸をしてから、彼の目を真っ直ぐに見つめた。 「 彼の目元の筋肉が僅かに動いた。 「いつも正解は見つかっていたのでしょうか」 わたしは他の客がいないことに感謝した。静まり返った店内は、いつもの華やいだ空気は消散されている。 ひとつ唾を飲み込む。この空気を動かすのは彼以外誰でもない。彼でなければだめなのだ。 微かに鼻で笑った音がした。 「店に入るとき考えたいことを頭に入れる。 内容は様々、仕事のことやプライベートのことだ。理論を積み上げる、いわば作業課程の中でマティーニが飲み干す頃には答えは出ている。 だが時に、何も考えたくない夜は考えないという“選択”をする。故にオレは常に選択を持ち、答えは常にオレの中にある。 ……前者の問いはイエス。だが――」 頬杖をついた彼はカクテルピンを弾かせて言った。 「答えは正解ではない」 わたしが迷走しないようにか、隅々まで解答したその確信に二の次を告げられない。湧き水のように溢れる彼の思考は、幾らフロートしても理解できないだろう。彼をすくい上げられないだろう。それでもいいとさえ思ってしまうのは、彼の魅力なのかもしれない。 「後者の問いはノーだ。先見は誰でも出来るが未来が見えない現在の正解は後から着いてくるものだとオレは思っている」 ひとつひとつ投げ込まれた彼の言葉に、わたしの好奇心は、ゆっくりと波紋を広げた。 「今まで正解になったことはありました?」 「つい最近は…先週、頭の中で君の事を考えていたよ」 「わたしですか?」 「ああ。愛想笑いの巧い、いつも緊張しているこの女性に話しかけたらどう反応するのか、ずっと眺めていた」 そんな素振りなどまるで見えなかったからか、わたしは思わず苦笑してしまった。ひとつも変わりないやり取りと変哲のない時間の中で彼の頭の中は、わたしだったのかと思えば口説き文句なら間違いなしにときめく。 しかし、わたしは分かっていた。頭の中はわたしでもその意味は男女のそれではないと。 「わたしの反応は予想通りでしたね、きっと」 「しどろもどろする姿は想像した通りだった。すぐに答えが確信に変わり、正解になった……これが3つ目に聞いてきた解答だが満足したか?」 「はい、とても」 「…では、課題に戻ろう」 正直にいえば、わたしはここで彼に出された課題は終了だと思っていた。思わぬリセットに、わたしたちを傍観しているはずのシャルに助け船を出してもらおうと横を見るが、求人はどこにもいなかった。いつからいなくなったのだろう。 焦燥感に駆られていると声をかけられる。 「それとも、これで課題は終わりにしようか」 解答を見せられ、問題を答えろと言われている気分だ。彼がわたしに問う選択はいったい何を指しているのだろう。彼は“何の”選択とは言っていない。 わたしは少し考えて、言葉を慎重に選んでいった。 「課題のマティーニをカクテル言葉の「選択」と答えていたら、それは間違いだったでしょう。課題の前に出したカクテル言葉は、ただの前置き…ミスリード。 きっとお客様はわたしを試した」 「……」 「課題の“選択”は、むしろわたしにではなく、先ほどのように――ここで何を選択していたのかお客様自身が聞かれたかったのではないですか?」 初めてなのかもしれない。驚愕には程遠いが、彼はわたしの発言に面食らっているように見える。 酒の力とは偉大だ。カクテル5杯を飲んでいなかったら、わたしはここまで言えなかった。 「今さっき課題の終わりを言いましたね。わたしはその質問にノーと答えます」 なぜなら――。 「あなたに話しかけてもいいという確信が得られたから。来週も、何度でも話しかけるよ」 なんだかタメ口になっているが、今更止めようがなかった。前のめりになり、ポーカーフェイスを脱ぎ捨て、わたしは自然と素の笑顔を見せていた。 彼は口許を手で覆い隠してから何か考える素振りをして最終的には笑い声をひとつあげた。 「論点がズレているが面白い。そうか話しかけられたいか…不思議なものだな」 「?」 「先週、なぜ君に的を置いたのか、言葉では答えられない。動機の言語化は余り好きじゃないしな」 そう言ってマティーニを呷った彼は機嫌良くカウンターテーブルに置いてあるお菓子に手を付けた。初めてのことで、わたしは思わず目を見張ってしまった。 「人間は常に選択を迫られる。それを他人と共有することは可能だが決断は自分以外に他ならない……とすればオレは"選択"を誰かと共有したかったのかもしれないということか」 「あ、はい」 もうそれでいいや、と半端思いながらどんどん盛大になって来た話に着いていけないでいた。 そんなわたしを余所に彼は、わたしを見上げる。 「あんまりないんだ、こういうこと」 「ここは喜べばいいところなの?」 「喜べばいいよ」 やったー! など万歳出来るはずもなく、わたしは曖昧に笑ってみせた。 それから彼は独り言をぶつぶつ言いながらマティーニを最後まで飲み干すと上機嫌にカクテルグラスを持ちあげた。 「もう一杯貰おうか」 今日は初めてのことばかりだ。この彼が、おかわりを所望している。 わたしは笑顔で頷くと、忘れかけていた店員の顔になって問うた。 「はい、何になさいますか」 「キールを。バカみたいに冷えたやつ」 「はいはーい」 「そこにいたの?!」 厨房からひょっこり顔を出したシャルに驚きと突っ込みを入れると店内は笑いに満ちた。 「ああ、それとキールは二杯にしてくれ」 わたしの目を見て彼は言った。なんとなく、今日の流れでなんとなくこの後の展開を予想できたわたしは、ぶるぶると頭を振る。その様子に良い笑顔を向けてきた彼。 「奢るよ」 断らないだろ? 彼の言葉の裏には、有無を言わせぬその言葉も浮かんで見えた。 キンキンに冷えたキールを二人で乾杯し、さっさと口に含みながら、わたしは再度ふわふわとした感覚の中で気付いてしまった。 目の前には上機嫌な彼。彼はこのアルコールの意味を知ってて頼んだに違いない。 ――最高の巡り合い。 まったく、キザな人。 最高の巡り合い |
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(20160608)