サンアンドムーンのカフェテラス席は3つのテーブルが設置されていて、座るのは品の良い奥様やペットの散歩帰りの人、コーヒーを啜りながらパソコンを連打するサラリーマンなど様々にいらっしゃる。 そこに昼には相応しくない黒スーツにオールバッグの男が居座っていた。わたしはテラスにいるその後姿を見て既知感を覚えながら見ない振りをしていた。 「店長、2番テラス席にいるお客様にお願いします」 厨房からコーヒーが出てくる。名指しかこの野郎。 わたしは「はい」と返事をしながらトレイにコーヒーを乗せてテラスに向かった。店は正面の出入り口の他に右側にもまた入り口があって、そこからテラスに出られる。 ドアを開けると、ゆるやかな風が舞った。心地よい風を受けながら2番テラスに向かう。 「お待たせしました」 目を合わせたら終わりのような気がして、俯きながら受け皿を持つ。目の前の客は本を読んでいたのか、手元にあったそれに栞を挟んでから閉じた。 テーブルにコーヒーを置くと、毎週見ていた両手が組まれる。わたしがよく知っている手だった。男にしては綺麗な手。 「おすすめはブレンドだと聞いたけど」 「………………わたしならお客様にエスプレッソを推していました」 「そう思ってエスプレッソにしてみたよ」 「……恐縮です」 恐縮の意味をもしかしたら間違っているかもしれない。それでも、わたしにはこれしか言えなかった。 諦めて目線を上げると、やはり彼だった。久しぶりに見たオールバッグ姿は、何度出くわしても威圧感が凄い。 「仕事の打ち合わせ場所が偶然この店の近くだったから寄ってみたが、ここは夜とまるで顔が違うな」 「普通のカフェですからね。もう少し早く来ていただければランチもありましたのに」 「そうか、機会があったら寄るよ」 わたしはこれを社交辞令だと知っている。 「…ありがとうございます」 現在、午後の2時を過ぎたばかりだ。11時から2時までの間、うちの店にはランチタイムがあり、限定セットを提供している。 とはいえ、彼にこの店は似合わない気がした。バー経営をするに辺り、元々あった店舗の系列だと言って名前を変えたわけだが、店名であるサンアンドムーンの"サン"は太陽、これは昼のカフェの事を指していて、"ムーン"はバーの事だ。故にカフェは、彼に似つかわしくない。 「ごゆっくりどうぞ」わたしは頭を下げて席から離れた。ランチ時間が過ぎた店内は、昼の戦場を終えて店員がみんな屍になっているが、まだ片づけが残っている。まばらにいる客も厳かにしてはいけない。 店内に入ると、わたしが彼と話している間、客は減っていた。まだ片づけていないテーブルに行って、持っていたトレイに空皿を置く。 すると後ろから新人のアルバイト生が寄ってきた。彼女は手に布巾とアルコールスプレーを持っていて、どうやら手伝ってくれるようだった。 「カッコイイですね! 店長の知り合いですか?」 彼のことを言っているのだとすぐに分かった。わたしは曖昧に頷いてから、黄色い声で騒ぐ彼女を余所に、てきぱきとテーブルを片づけていく。 普通は、恐らくこういう反応が当然なのだろう。けれどもわたしは彼女のように華やかな十代は越えている。 「はいはい、分かったからテーブル拭いてもらえる?」 「はーい」 緊張感のない返事にわたしは苦笑すると重くなったトレイを厨房に運んでいくのだった。 確かに、彼は知的で一緒にいると楽しいし、言葉だけで色々な世界を見せてくれる。でも、それは上っ面で“店員のわたし”と“素のわたし”だったら恐らく違う。わたしは店員なのだから客に合わせたり、笑顔を向けるのが仕事なのだ。 しかし彼に出会い、その境界線が見えなくなってきていた。 バーを開店してからすぐに彼はやって来た。取りとめのない対応をして半年、ようやく話しかけるようになってそれから二ヶ月が経っただろうか。そのたった二ヶ月で、彼はわたしに強烈な痕を残した。店員を取り繕うわたしを傷ものにする。 彼は、眠っている本来のわたしを引き上げる強引さと、飛びぬけた魅力があった。罠だと分かっていても蜘蛛の巣に絡めとられるように、彼の世界に入ってしまったら最後、動けなくなる。 理性とプライドが、まだ"わたし"を寸のところで引きとめていた。それは彼を知ると言う選択の邪魔に他ならなかった。 わたしたちには壁がある。でもそれこそ、店員と客と言う間柄だ。 「レジお願いします」 厨房から飛んできた声に思考から現実に引き戻されると、わたしは握りしめていたトレイを置いて、急いでレジカウンターに向かった。レジには伝票を持っている彼がいた。 何ら変わりない会計のやり取りをする。彼はどうやらコーヒーだけを頼んでいたようだった。バーではお釣りを貰わないのに、昼なら貰うようで少し不思議な感じがした。実はお釣りを貰って頂けた方が伝票に誤りがなくていいのだが。 ここで店長と言う権力を翳して、コーヒー一杯くらい奢ると言う選択が頭を過ぎった。しかし、どこから来る視線が痛くてそれはすぐに取りやめた。 お釣りを渡す手が、微かに彼の指先に触れる。釣りを握りしめたと同時に指先だけを軽く揺らしていて、何かの合図に見えた。 「?」 彼に目線を合わせると、口許がつり上がっている。 お釣りを財布に仕舞い込み、出入り口に向かう彼の後姿を見て、わたしはようやく彼の意図が分かった。両脚は、思いよりも早く駆け出していた。 ほぼ同時、ふたり店から出ると彼は振り向く。 「なかなか良い豆を使っているな」 「ありがとうございます」 「昼も悪くない。昼顔の君も見れた」 「ありがとうござ…不倫してるみたいな言い方止めてもらえます?」 わざと不機嫌な素振りを見せると、ふたり同時に笑う。しかし彼は、どうやらわたしとは違う思いを抱えたようだった。 「違うようで同じだろ? 昼の顔も夜の顔も対応が少し違うが店員の顔だ」 「……」 「グッド、それが見たかった」 「え?」 何が? と思って次を促しても彼は誤魔化すかのように目線を下に向けた。 言いたくないのが、その先が分からないのか。とりあえず、これ以上は無駄なような気がして、わたしは頭を下げながら言った。 「本日はありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」 後頭部に彼の返事が降ってくる。 わたしが頭を上げた時には、既に彼は雑踏の中だった。太陽の似合わない、漆黒の存在はだからこそ、見えなくなるまでわたしを放さなかった。 店に戻ると、何事も無かったかのようにトレイを持ってテラス席を片付けに向かった。綺麗に飲み干されたコーヒーカップを見て、少しの笑みが零れる。 コーヒー皿を手に取ると、気付いたことがあった。そこに一枚のメモが風に揺れていたのだ。 抜き取ってみるが、まっさらな紙には何一つ書かれていない。ふと、裏を捲ってみる。 「暗号かっ!」 テラスに誰もいない事をいいことに、小さく一人突っ込みをする。 自惚れでなければわたしに向けたメッセージ。 「今日の正解はTodayかな」 メモをエプロンのポケットに、そっと突っ込んだ。 夜の帳が下りて、10時になったらわたしは再度彼に会う。今日は火曜日である。 今夜もう一度、彼に会えるのだ。 「Today!」 「……マティーニ」 いらっしゃいませの挨拶もそこそこに、暗号の答えを自信満々と叫んでみたが、彼は無表情でわたしを一望し、カクテルを頼んだ。極めつけは大きな溜め息である。 あ、はい。と返事をしながらオリーブの準備に取りかかる。隣のシャルは、わたしの言葉に気にもせず、マティーニを作っていた。 「な、何か間違ってました?」 出来上がったマティーニを差し出しながら、恐る恐ると聞いてみる。彼はなにも答えず、オリーブを齧ってからマティーニを一気に飲んだ。ビビるくらいカクテルの中は半分ほど減っていた。 「皿くれ」 「あ、はいすみません」 忘れていた小皿を出すと、歪なオリーブが置かれる。 「どうやらオレは、見くびってたようだ」 この一言は、メモのことを指している。 わたしは、自分でも把握しているほどの間抜け顔をして「はあ」と答えた。 「その答えは正解ではないよ」 「え? そうなんですか」 「よく見て見ろ」 「字が思ったよりもへたくそでした」 思わず飛び出た正直な感想に、彼は押し黙った。 頭の回転が速い人は、手がその速度についていけず、字がお世辞にも綺麗な人はいないという説がある。わたしは彼がそれに当てはまっているような気がした。 「正直ですみません」 「いや、正直なところは君の美徳だ。誇ってもいいよ」 今日の彼は議論している彼とは違い、少しコミカルでわたしは笑いを堪えるのが必死だったりする。 「君は頭は回るようだが、ああいうのは不得意なんだな。くそ…どうかしてた」 彼はマティーニをぐいぐい飲み干して、空のグラスを渡してきた。こんなにも早く飲んでしまって悪酔しないのかと心配になる。 しかし、わたしの心配などどこ吹く風。 「マティーニをもう一杯くれ」 「……はい」 グラスをシンクに置いて、シャルと目線を合わせる。 その間、カウンター越しからは独り言が聞こえてきていた。あまり良く聞こえなかったが、彼の様子からしてどうやらわたしは何か度肝を抜いたように思えた。 しかし、ここで喜んでいられない。わたしは彼の機嫌を直すため、冷蔵庫からチョコレートを取り出した。ただのチョコではない。お客さんから頂いた高級チョコである。 「チョコレートはお好きですか? すごく美味しいのが手に入ったので一緒にどうでしょう」 「マティーニと合うのかそれ」 「何かと問われればブランデーやワインですかね」 「げ」 すかさずシャルがマティーニを持って横から出て来る。 「はーいマティーニ一丁!」 「お客さん、次はワインどうですか」 「商売上手過ぎだろ」 看板のスイッチを押して閉店を知らせると、ここでようやくわたしは一息をつく。今日が無事終わったと言う安堵だ。 閉店間際には既にシャルと片付けを済ませていたので、あとは勘定し、金庫に売上を突っ込んで帰るだけだ。 「店長ー」 「うん?」 レジの解錠スイッチを押そうとすると、廊下から声が聞こえてきたため、顔だけで覗けばシャルが、にこりと笑った。 「あのお客さんが言ってたメモ、まだある?」 「あるよ。昼のエプロンの中」 昼と夜とでは、服装が違う。 わたしはシャルを通り過ぎ、ロッカールームに向かって歩いた。自分のロッカーを開けてエプロンのポケットに手を突っ込むと、くしゃりと手がメモを掴む。 「はい、これ」 女子専用ロッカールームの入り口で待っているシャルに渡す。 「見てもいい?」 「どうぞ」 歪な月と‘Tu’の文字、そして数字の14が書かれたメモをシャルは受け取ると、うーんと唸りながら考えていた。そういえば、あれから彼にこのメモの正解を聞かなかった。シャルはわたし以上に気になっていたのだろうか。 少し間があって、シャルは廊下にある椅子に座り込んだ。まだまだ時間が掛かりそうだと思い、エプロンを脱ごうとしたその時だった。 「―――あっ!」 「わっ! びっくりした…」 飛び跳ねた身体は驚くほど俊敏で、謎のボックスが頭上にあったらキノコでも落ちてきそうだった。 「これって月だよね?」 「うん、たぶん。だって太陽だったら光を表すギザギサとかついてそうだし」 「うん、オレもそう思うよ。でもこれ、月は月でも満月じゃない。だって、ほら微妙に欠けてる」 「…………そう? ちょっと歪んだだけじゃないの?」 シャルが示す月を覗きながら言うと、自信有り気な説明が始まった。 「この月が欠けてると合点がいくんだ。満月の前夜は小望月。オレが小望月って判断したのは、この数字の14…ほら、十五夜ってあるだろ? その前夜ってこと」 「う、うん…?」 「小望月は幾望(きぼう)とも言って、幾は近いも意味する。きぼうって読むのと希望に掛けてる。幾(近く)に望む、つまり近く希望することがある」 なるほどさっぱりわからん。 「14って今日の事だと思ってた…だって今日14日だし。じゃあ‘Tu’は? 火曜日のTuesdayじゃないの?」 「‘Tu’は火曜日のTuesdayの略字のチューと見せかけてキスの意味だ。合わせて読めば――」 「ちょ、ちょっと待ってその解読、頭沸いてんじゃないの」 さすがに皆まで言わなくても解ってしまった。顔が火照ってきて隠しようがない。 わたしは、両手と頭を高速で振り、シャルの言葉を消そうとするが願いは届かなかった。 「――近い内にキスを希望するってことですね」 「だから逆に彼の態度がおかしかったってこと…? わたしが解読して何て答えるのかからかったのね?!」 先ほど一人照れたことに、わたしは情けなく思った。少しでも本気になった自分を殴りたい。 そう、彼の様子からして予想外にわたしが元気なものだから逆に恥ずかしくなったのだろう。顔には左程出ていなかったけれど。 「あ、でもなんか初めて勝った気分」 万歳すれば、シャルは苦笑して「良かったね」と言った。 「ついでに言えば小望月は、来るべき人を待つ宵のことを言うんだ」 来るべき人を待つ宵 |
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(20160621)