静かにドアベルが鳴った。本日は木曜の12時過ぎ、店の看板はスイッチを切っているため夜に紛れているはずだった。
 わたしは、先ほど帰ったばかりの、シャルではないもう一人のマスターが帰って来たのかと思った。
「忘れ物ですかー?」
 カウンターの中にある簡易椅子に座り、慣れた手つきで札を数えながら叫ぶが、返答はない。
 一向に返事がないため、売り上げをバッグに仕舞ってから、ようやく顔を上げると出入り口には予想外の人が立っていた。
「今日は火曜じゃないですよ」
 驚いた素振りは隠しきれず、けれども平常を装って言えば、来訪者はゆっくりと近づいてきた。
「マティーニ」
 わたしは苦笑してタイを緩める。
「すみません。マスターは帰ってしまいましたし、もう店仕舞いなんです」
 唐突に現れた彼は、前髪を掻き分けて「残念」と呟いた。わたしは気まずさもあり、話題を変えることにした。
「今日は随分と遅いですね」
「ああ、二件ほど梯子してきた。最後はここのマティーニで締めたかったんだけど…君は作れないの?」
 誰もが思ったことだろう。お前も作れと。
 正直に言えばバーに立ってから興味程度にやってはみたが、所詮興味程度であり、客に金をもらえるほどの腕と自信はない。わたしがここで本気でカクテルを作れるようになってしまったら雇われマスターなどいらない。それに、こう見えても多忙の身だ。
「…すみません。多少の知識はありますが、お金を頂くほどのものではないんです」
 これで諦めてくれればいいと願いながら、困り顔で言う。すると彼は何か考えているようだった。嫌な予感しかしなかった。
 静まり返った店内がわたしの思い通りにいかないことを先に察していた。
「カウンターに入ってもいいかい?」
「はい?」
「オレが作る」
 予想外の提案である。否、彼ならば言ってもおかしくはなさそうだが、そもそも彼自身作れることに驚愕した。
 彼は、スーツの上着を脱ぐとスツールの背もたれに、それを放り投げた。無造作に片寄ったスーツが可哀相だった。
 わたしがそう思っている間に、彼はカフクボタンを外しながら歩き出している。
「あ、あの! 困ります!」
「金は払うよ」
「それも困ります!」
「じゃ付き合うか?」
 柔らかな印象から一変、彼は真面目な顔付きで問うてきた。カウンターの中に続く扉を開き、そこで足を止めている。
「オレは今すぐマティーニが飲みたい。他の店に行ってもいいが、今日は誰かと話したい気分なんだ。知らない野郎とはごめんだ」
 だから、わたしと他の店で飲もうと。彼はそう言いたいのだろう。
 わたしは椅子から立ち上がると、鮮明とした口調で言い放った。
「お断りします。わたしはアフターをしない主義です」
 そう、わたしは昼だろうが夜だろうが客とは外で会わないことにしている。番号やプライベートなことを聞かれても常にはぐらかして来た。
「だからオレが作ると言ったんだ」
 彼は少し呆れ顔をして、丁寧に両腕の裾を捲くった。それからタイを緩めると、カウンターの中に入り、ぐるりと見渡して背後にあるアルコールを眺め始めた。
「……わがままな人」
 思わず吐いた悪態は小さな声で言ったのにも関わらず、彼の地獄耳には届いてしまったようで。
「聞こえてるよ」
 にこりと向けられた笑顔に、目を逸らしてしまったのだった。

 居場所を追い出されたわたしは、目前で軽快な音を鳴らしてシェイカーを振るっている男を眺めている。
 マティーニはその店によって味もやり方も違うわけだが、シェイカーの中身はマティーニではないことをわたしは知っていた。半分に絞ったオレンジを入れていたので、どうやらわたしに飲ませるもののようだった。
 眠気もあり、ぼんやり傍観しているとカクテルグラスがテーブルに設置されているコースターに置かれた。そして目の前で、銀のシェイカーからクリームイエローの液体が注がれる。グラスの種類から、明らかに20度越えのアルコールだ。
「口に合うかわからないけど」
「眠いんですけど」
「飲みやすいように甘くしたけど辛口の方がよかった?」
 ぶんぶんと頭を振り「いただきます」と言って手に取った。グラスの底には赤いシロップが沈澱されていてイエローとのバイカラーに目を奪われる。
 すん、と匂いを嗅ぐと爽やかな匂いが鼻腔を満たす。わたしは、それを一口だけ含んだ。
「…美味しいです」
 伺うように彼を見ながら言えば、当然だと言わんばかりの顔がそこにはあった。
「ゆっくり飲めばいいよ。まだ時間あるだろ」
「もう12時過ぎですよ」
「あと少しつき合え」
 他愛ない話を続けていると、彼は自分のマティーニが出来上がったようで、それをわたしの隣に置くとカウンターから出てきた。やがて隣に座り、グラスを取る。
「乾杯」
 チン、と音がした。わたしのグラスに一人乾杯した彼の仕業だ。彼はオリーブをかじり、早速マティーニを堪能している。
「満足ですか」
「ああ、満足だ。自分のマティーニも悪くない。だがやはり他人の作るマティーニの方がいいな」
 わたしの言おうとした突っ込みは、間髪入れずに、すらすらと流れる声でどこかに消えた。
 真横を見れば、随分と近い彼がいる。思えば常にカウンター越しで、ここまで近距離はなかったと思ったが、それだけだった。
「酒もそうだが、オレはバーの雰囲気が好きだ。自宅で飲むよりも何かの閃きを生む一瞬があるんだ」
 閃きと聞いて単純に何だよそれと思ったが、彼の閃きはマティーニの事を指しているのだと思った。
「特にこの店はいい。マティーニも旨い、空気を読むバーテンもいる。ただ、他の客に話しかけられるのは厄介だ」
「だから女性に声をかけられるといつも帰るんですね」
「オレは女を漁りに来ているわけじゃないからね」
 ふたり同時に笑って、わたしは進んでいないカクテルを飲んだ。
「ああいう時いつも焦ります。女性客の気をシャルに向けさせることが」
「君は同性だから特に、だろ」
「そこなんですよ」
 時に同性同士は、無意識の内に敵意と対抗心を剥き出しにする。わたしが接客業をしている中で気を使うのは、カップルの女性だった。彼氏に愛想を振りまくと視線と態度が痛いことがあるので、そういう時は彼女の方に話しかけるようにしている。
 ただ、バーでは少し違ってくる。彼のことは、特にだ。
「助かってるよ、時々」
 奏でられたように聞こえた感謝の言葉は、優しい声色だった。
「それと、そのカクテルだけど」
「お世辞抜きに美味しいですよ?」
 そうじゃない。彼の顔には、そう書かれていて、わたしは小首を傾げる。
「飲めば飲むほど甘くなるよ」
 沈澱している赤いシロップの事を言っているのだと思った。
 まだ半分も残っているこれを全て飲み干してしまったら、わたしがもし彼を最後まで知ってしまったらどうするのだろう。どうしてか、カクテルと彼をイコールで結びつけてしまう。
 でもそれは当然なのかもしれない。これは彼が作ったカクテルだ。
 こんなにも不安になるカクテルは初めてで、わたしはこれを最後まで呷る自信はなかった。

 :
 ほぼ空になったカクテルを置くと彼は「送ろう」と言ってきた。着替えも洗い物も済ませていないので断ったのだが、彼からの返事はなかった。
 これを否定と受け取ったわたしは、さっさと洗い物に取りかかり、グラスは明日拭こうとシンクの横に置いておいた。売り上げを金庫に入れ、ロッカールームで着替えを済ませ、最後に縛っていた髪を下ろす。髪は少しクセがついていたが放置しよう。
 春色のトレンチコートを羽織ると、わたしは待っているだろう彼の元に急いで走った。
「早かったね」
 彼は捲っていた裾を下ろし、カフクボタンをくぐらせている最中だった。それもすぐに済ませるとスーツの上着を着て歩き出す。
「先に出てください。ここの鍵を閉めて裏から出ますから」
 彼を扉の外に追いやると、わたしの気持ちを代弁しているかのような一言が投げられた。
「迷ってるの?」
 わたしは、それを聞きたくはなかった。ドアノブを握っている手に力を込める。
 本当、人と心をよく読む人だ。
「――困ってるの」
 敬語は、ここに置いていこう。

 裏の出入り口から出ると壁に背を預けて待っている彼がいた。わたしは無言で鍵をして、仕方なしに彼の方向に歩き出した。
「"店の外では会わない"現状がそれに入るのか迷ってるのかと思ったけど……そうか、困ってるのか」
「だってお客さん、融通がきかないんだもの」
「親切心を受け取っただけだと思えばいい。家まで送るつもりはないよ」
 彼を通り過ぎて、大通りに出るために、わたしはお構いなしに突き進んだ。春先の冷えた空気は、まだ肌寒い。お陰で、眠気はぶっ飛んでいた。
「遅くまで付き合ってもらったんだ。そのくらいはする」
「じゃあ、背後の警備よろしくお願いしマース」
 わたしを追いかける形で背にいる彼に叫んでみるが返事は無い。代わりにため息のようなものが聞こえてきたので、そこでこの会話は終わりにしようと思った。
 無言のまま、ようやく大通りに出ると、わたしは足を止めた。振り返るとすぐそこには彼がいて、とりあえず声をかける。
「もう、ここでいい。タクシー拾うから」
「そう?」
「一応、ありがとう。でもあまりこういうことはしない方がいいよ。他の女だったら勘違いするから」
 警告と忠告を込めて言うと、彼は薄っすらと笑うだけだった。
 本当に他の女が彼にここまでさせたらすぐに調子に乗って勘違いしてしまうだろう。何度か言っているが、彼は顔が良い。誰が見ても、好みでなくても格好良いと言うに違いない。
「そういえば、金を払い忘れたね」
「いいって。作ってもらったのこっちだし」
「権力とは使わなければ意味がない。それがまさに今使役された訳だ」
「誰のせいよ」
 お互い目が合うと小さく笑う。それが合図かのように彼が手を上げ、すぐにタクシーが停車した。後部座席のドアが開かれる。わたしが乗れば彼が運転手にドアを閉めろという言葉をかけている。
 パワーウインドウのボタンを押して見上げると彼は少し屈んでくれた。
「また火曜日に」
「相変わらず商売上手だな」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 頷いて、運転手に「出してください」と言い、窓を閉めようとパワーウインドウのボタンを長押しした。

「そういえば、名前さえ知らないんだな」

 ぱしゅん。窓は閉められた。わたしは手を二度振って、聞かないことにした。運転手に行き先を告げ、落ちてきた瞼に逆らうことなく目を閉じる。
 ああ、と。そういえばと、わたしも気づいた。
 わたしは毎週、名前も知らない人と会話していたのかと。そして、彼の作ってくれた物もまた名前のないカクテルだった。

名前のないカクテル

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(20160702)

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