「新卒んときのこと覚えてっか。お前、なんも出来なかっただろ。仕事もそうだが、発言も…これみたいに気ィ使うこともな」
 これと言ったのは、ぶらぶらと振っているミネラルウォーターのことだ。ペットボトルから、わたしたちの空気にはとても似つかわしくない間抜けな音が奏でられている。
 わたしは口許をきゅっと結び、頷いた。全く、その通りなのだ。

 大学生活とバイトで培った経験だけでは補え切れない――これが、ジンさんの下で味わった感情だった。
 カフェに行くまでの数年、わたしはジンさんに引っ張り回されていた。この人は、何をやるにも想定外ばかりで、同期がどれほど羨ましかったことか。本気で上に相談したこともあった。
 学生を終えたばかりだったが、確固とした仕事という概念を持っていたわたしにとってジンさんのフリーダムな言動は煩わしくもあり、また革命的だった。

 彼は、わたしの殻を破壊し、そして現在のわたしを生んだ人だ。

 ジンさんといて無意識の内に柔軟性を持ってしまった。自分でも自覚しているのだ。ある程度、いつどのようにも対応できると。これは今でも染みついたままだ。

「部下を育てようとして一緒に行動していたわけじゃねー…仕方なくだ。正直、オレは部下なんていらねェし、一人自由勝手にいる方が性に合ってる」
 知ってます。とても理解しています。社内では周知です。
「だが、お前はめげずオレに付いて来た。その場で適切な自己判断ができるようになった…ま、オレに言わせりゃまだまだだが客観的に物事を見れるようになった。
 だからゴンの保護者に選んだ……確かめたいこともあったしな。それが今日の理由だバカ野郎」
 視線が、わたしに向けられる。その表情は固く、どこか複雑な心境を携えているように感じた。
 いつもならここで「わたしは野郎ではありません」と突っ込んでいるところだが、わたしには出来なかった。ジンさんの表情が、空気が、通常のわたしを振り払っている。「んで、確信した」

「お前、少し変わったな」

 眉間に皺を寄せ、片方の口許が撓るジンさんの顔を見て、わたしの心臓が跳ね上がった。

「違和感があったのはパーティーのとき。疑問を持ったのは会員制バーのときだな。お前、あそこまで用心深かったか?
 仕草もそうだ。考え込むとき、顎を触るような奴じゃなかった。頭を傾げる…それが昔よくしていた癖だったはずだぜ」

 そうだったろうか、しかしジンさんが言うならそうなのだろう。
「確かめたいことっていうのは…」
「言うまでもねー」
 ジンさんが今日わたしを呼んだのは中和剤として、そして変わったらしい・・・わたしを確かめるため。なぜ、なんのために確かめる必要があったのだろうか――わたしが変わったのが何だというのか。
 ここで、わたしは気づいた。右手が知らずの内に顎に置いてあった。自分の仕草に寒慄しているわたしがいた。
 ――これは、クロロがよくする仕草だ。

 フィンクスは、クロロが変わったと言っていた。何が変化したのか、それは未だかつて知り得ない。あれからクロロに、どうして切り込もうか手を拱いているのが現状だ。
 ジンさんは、わたしが変わったと言った。考え方、仕草…探せば埃が出てくるほどに、わたしを。
 これを聞いて、今は歓喜や激震といった感情はわき上がってこない。何かと問われれば酷く冷静で、物事を受け止め始めている自分がいる。
 クロロは、わたしにとってジンさんの言うように影響力のある人間なのだろうか。確かにクロロを観察し、模索し、時間を共有して以前よりは、クロロ=ルシルフルという人間を分かってきたつもりだ。謎の方が、まだまだあるだろうが、これは”影響力”とは言えない。
 だが、考えたところで正解が目前にあることを、わたしは知っている。それは、ジンさんの言う事はわたしにとって絶対だと埋め込まれている事だけは変わらないため、彼が言うなら”絶対”そうなのだろう。
 ジンさんは、わたしが自覚するほど、わたし自身に多大な影響を与えた一人だ。

「…ジンさんが言うなら、そうだと思います」
「……」
「それは悪い事ですか?」
「いや」

 咄嗟に聞いていた。ジンさんは即座に否定したが、それ以上の言葉を続けることなく、ただ頭を振るだけだ。
 今更ながらジンさんにとって”変わったらしいわたし”は、どういう風に映っているのだろう。喜怒哀楽の感情のどれかを考えてみるが、どれも違って思える。
「…さみしい?」
「あ?」
「ジンさんは今、寂しいですか?」
 頭上に降ってきた言葉はこれだ。
 わたしは、自分でも分かるほど目を輝かせてジンさんに迫った。後ずさりしそうでしないジンさんは、上半身だけを後ろに傾けている。
「ね、わたしが変わって寂しいんで――」
「寂しいわけあるかボケ」
「ジンさんって素直じゃない」
「うるせェな。いいから退け、離れろ」
「エレナさんが前にへそ曲がりで照れ屋だって言ってましたけど本当ですね。知ってましたけど」
「離れろっつってんだろ!」

「…おいゴン。お前の親父とあいつ、何やってんだ」
「仲良いよね。ジンとさんって」

 :
 回り切っていないエリアを見終えると、わたしたちは早々に帰ることになった。渋滞を避けるため、また3時のおやつは駅前のスイーツ店で食べたいと言うキルアくんに合わせるためだ。
 しかしどうだろう。子供たちの元気は底なしだと思われたが、今は車内の後部座席で仲良く眠っている。微笑ましい光景に、笑顔でいたいところだが、わたしの両手は塞がり、顔を背けることは出来ず、バックミラー越しでしか二人を窺えない。
「バカなの? そうなの、そうなんだよね?」
 ぶつぶつと独り言を言うが、誰の耳にも入っていないだろう。助手席に座っている生けるナビは、ナビ所かスイッチはオフ状態だ。

『バスの時間、確認してきますね』
『その必要はねーよ』
『え、ジンさん…車で来たんですか? だってさっきビール飲んで……え?』
『お前、免許持ってんだろ』
『バカなの?!』

 と、いうことでわたしが運転することになった。駅までの道が曖昧なため、隣の酔っ払いに道案内をさせるつもりが、ご覧の通り寝ている。もはや、わたしには本物のナビしか味方がいなくなってしまった。話しかけてくれるのもナビだけだ。
 他人の車ほど緊張するものはない。ハンドルの重さも違うし、アクセルとブレーキの固さに差異がある。また、車高の高さで視野に若干の違和感が出来、車の大きさで駐車に気を遣うのは当然だ。

「もう、この人と出かけたくない…」
【およそ500メートル先、右です】

 独り言は、ナビゲーションの声でかき消された。
 クロロとは、こんなことはなかった。彼は、わたしを頼るようなことはしないし、いつも悔しい程スマートで何だかんだとエスコートしてくれる――あまりにも真逆な二人。
 しかし、ここでわたしは、なぜ二人を比べてしまったのか。気づいてはいけない。
「ぐがッ」
「?!」
 赤信号で停まっていると酔っ払いが鼻音を鳴らした。驚いて隣を見ると両腕を組み、頭を垂らしてこくりこくりと寝ている姿がある。
 余程、疲れているのだろうか。もしかして無理をして来たのかもしれない。この人は多忙だ。
「…お疲れ様、ジンさん」
 恐らくゴンくんは夏休みを利用して、今ジンさんのところに滞在しているんだろう。一人暮らしに慣れた人が、息子とはいえ長期滞在をしているのなら気を遣うはずだ。そして恐らく、彼らにしか理解できない家族観があるのだと思う。
 ハンドルを左に捌いた。ナビが一瞬固まり、またルートを作り出す。時間は10分程伸び、ここでわたしは欠伸をひとつ。
 3人には、もう少しだけ眠らせよう。ぎこちない運転だが延長くらい、わたしにも出来る。


「…スイーツ食べ放題に行けば良かったのではないでしょうか」
「仕方ねェだろ。このバカデカいパフェが食いたいっつってんだ」
 わたしは苦笑しながら、ジンさんはどこか呆れながら、お互い目前にある巨大なパフェを見上げた。わたしたちの真向かいには、子供たちがいるはずだが今は姿が見えない。今、は。
 姿が隠されるほどのパフェを二人は夢中で食べていた。時々「それオレの!」や「イチゴちょうだい」など会話が聞こえる。微笑ましい事だが、このパフェの大きさと言ったらない。
 わたしは、注文したショコラケーキを口に運んだ。濃厚なチョコを舌で堪能しつつ、横目でジンさんを見る。彼は、またアイスコーヒーをストローで啜っていた。呆れ顔は変わらず、恐らく言葉が出て来ないのだろう。把握。
「…ジンさん」
「なんだよ」
 気だるそうな声色の次に来たのは、ジンさんの視線だ。

「わたしは、わたしですよ」

 フォークを置き、わたしもジンさんに振り返る。髪を耳裏にかけ、そのまま手を両膝に持って行き、こぶしを作った。
 絡まった視線の先が互いの双眸のはずが、わたしは一体ジンさんのどこを見ているのか分からなくなった。同時に、ジンさんが何を思っているのか知りたいと思った。この行動と思いを掛け合わせて出した答えは至極簡単だ。

 ジンさんの内的世界を覗いてみたい。この人の内側を見たい

 奇想天外な彼の思考回路は理解できない、と出会った頃から抱いていたものが、ここにきて予想外に紐解こうとしている。
 ジンさんが変化したわたしをどう思ったのか知りたい。理解したい。一歩、一歩と感情が這う。
「あなたに育てて頂いた、ただの部下なんですよ」
「…んなこと知ってら」
「根本的なものは、変わってないと思います」
「らしいな」
 すぐさま肯定した返事に、わたしは嬉しいという感情が芽吹いた。
 そう、わたしは少なからずショックだったのだ。変わったな、と言われた事に、ジンさんに突き放された気がした。
 先ほど寂しいとジンさんに向けて言った言葉は、わたしの感情だった。感情を同調して欲しかったのだと思う。なんて子供で、浅ましい――いつから、こんな人間に成ったのだろう。
 自分自身が思っているよりもジンさんの存在が大きいようだ。ぶっきら棒で、お礼や謝罪、挨拶だってままならないのに、この人を尊敬している。憧憬なんて言葉は、この人に似つかわしくはないが、わたしにとっては――。
「オレがオレであることに変わりはない……パラソルの下、ジンさんはそう言いました。だから、わたしもそれをそっくりそのまま返します」
 目を細め、大きく口角を上げたわたしを、じっと見据える視線は鋭利だが、その切っ先に殺傷能力などは無い。他に例えるなら、何を言うのか好奇心に富んだものであった。

「考え方や仕草は変わっても、わたしはわたしであることに変わりはない。あなたの部下、…わたしの礎を生成つくったのは間違いなくあなただ」

 きっぱり言い放つと、ジンさんは両目を目一杯開けた後、凛とした表情に生まれ変わった。口許は大きく弧を描き、どこか少年のように笑うその様子に、わたしが驚愕したのは言うまでもない。
 目蓋を下ろせば刹那にして、ブラックアウトする視界。ゆっくりと押し上げた先にある未来が、徐々に浮き彫りにされていく。曖昧な人型は上司、否――ジン=フリークスだ。逆光が眩しい。
変わったわたし・・・・・・・は、受け入れられない?」
「……いや」
 瞬きの瞬間、世界が変わった気がした。

瞬きの瞬間

変わりゆくクロロと主、と周囲
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(20180126)

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