今更ながら墓穴を掘った、そう思った。 動物園でクロロと遭遇した時、せっかく知らない振りをしたというのに、わたしは自ら認めた。あの時ね、と。自分で自分を追い込んだ。自分の馬鹿さ加減に、気持ちが底なしに沈んでゆくのが分かる。 こういう時は、どういった対応をすればいいのか困惑していると、なぜかジンさんの横顔が浮かんだ。 マンションの近場まで送ってもらったことは何度かある。しかし、それは本当に数える程度であり、クロロはアルコールを嗜むため稀だった。たった数回でよくわたしのマンションを憶えていたものだと感心したくらいだ。 部屋には、クロロがいる。彼の本来持ち合わせている雰囲気のせいか異質過ぎて、わたしの部屋ではないみたいだ。 一度もクロロを部屋に入らせたことはない。わたしはクロロの仮宿に入り浸るが、彼を部屋に招き入れる気持ちは、なぜか1ミリも動かなかった。理不尽だと言われれば、その通りである。 「…ビール、冷やそうか」 「そうしてくれ」 部屋に入って早々にクーラーのスイッチを押し、クロロが持っていたビールを手にした。ビールは全部で3本。3本飲みきるまで居座るつもりか――と、更に底抜けになった気分で、それらを冷蔵庫に詰め込む。一人暮らしのため小さめの箱、且つ他の食材もあってか冷蔵庫の中は、そこそこ満杯だ。 とりあえず、おもてなしでもしようかと予定通りのチーズと生ハムを取り出した。適当にお皿を選び、綺麗に並べるだけの作業だ。今日は料理などしたくない。 「」 既にダイニングテーブルのチェアに座っているクロロは、本を広げてから言った。 「オレに遠慮せず、シャワーでも浴びてきたらどうだ」 「え」 「今日、暑かったろ……動物園」 手に持っていたチーズが、ぐにゃりと変形した。慌てて離すとチーズには、くっきりと指紋が付いている。何食わぬ顔で、それを口に放り込んだわたしは、綺麗に盛り付けたチーズと生ハムをテーブルに置いた。 ものすごく棘がある言い方に聞こえたのは、わたしが過剰反応し過ぎなだけだろうか。そう思いながら、ワインクーラーをシェルフから取り出し、氷を目一杯入れた。その中に安売りしていた赤ワインを刺す。 うちにはワインセラーなどないため、ワインはシェルフに並べている。10分でも冷やせば適温になるだろう。その辺の采配はクロロに任せようかと思う。 グラスも用意し、ワインクーラーをクロロの目の前に置いた。ビールがまだ冷えていないため、今はこれで我慢してというわたしなりの意思表示である。 「じゃ遠慮なく行ってくるけど」 ぺらり、と捲られたページ。クロロから言葉としての返答はない。 「…」わたしが、じっと見据えていると、ようやく口を開けた。 「ん? …ああ、心配するな。覗きの趣味はない」 そして興味もない――それも付け加えられたように聞こえた気がした。 わたしはルームウェアを用意すると、脱衣室に向かい、真っ先に鍵をかけた。洗濯機に向けて叫びたい衝動はあったものの、それは出来ない。絶対に聞こえる。 「ああ、もう…」 言いたいことは数多にある。 今日、動物園にいた違和感。クロロは動物園、また遊園地などに行くようなタイプには見えない。わたしの部屋に訪れたこともそう、これはいつもの罠ではないだろうか…? なぜ動物園にいたの。なぜ突然、来たの。なぜ不機嫌なの。 それらを全て飲み込み、わたしは自暴自棄に服を脱ぎ捨てたのだった。 シャワーを浴び終え、脱衣所から出ると何も変わらない風景がそこにはあった。ダイニングテーブルと、クロロ。ワインは開けられないまま、チーズも生ハムも手付かずだ。テレビも何も付けられていない。外界から辛うじてクラクション音が一度、飛んできた。 大体の予想は出来る。わたしがシャワーを浴びている間、クロロは本を読みふってばかりで何もアクションしていないのだ。本一択、それに尽きる。 わたしは、ワインのコルクを抜き、二人分のグラスに注いだ。それからジンジャエールを冷蔵庫から取り出して戻る。 「割る?」 無論、ジンジャエールでという意味だ。だがクロロは何も言わず、本をから目線を離さない。恐らく、いらないということだろう。 わたしは特に気にせず、自分のグラスにジンジャエールを入れた。マドラーを忘れたため、面倒を理由にグラスを器用に回してから飲む。風呂上がりには最高の一杯だ。 室内のダイニングテーブルは、4人座れるためクロロの仮宿よりは広い。定位置である特等席がクロロによって埋まっているため、仕方なく彼の目前に座り、生ハムを口に入れた。 ちらりとクロロを見る。本当、何しに来たんだよと腹の中で思っていると、予想よりも早く本は閉じられた。 徐々に上がってゆく目蓋――鈍光を放つ黒瑠璃が、わたしを射貫く。「……さて」 「それなりに時間はくれてやったがオレに何か言う事はあるか?」 この一言で、わたしは奥歯を、ぎりりと噛締めた。脱衣所で思ったことは、恐らく間違いなどない。 この男は、どこまでもわたしを試す。 出会いからそうだった。ミスリードまで付けて、クロロはわたしに選択肢を並べ、わたしの技量を推し測る。その意図の根源がどこから来るものなのか、やはり謎だがこれだけは確かだ。 わたしに要求するもの、それは――。 クロロすら知り得ない、クロロ自身ではないだろうか。 「動物園にいたのはわざとね。わたしが動物園にいるから来たんでしょ。情報網はシャル…今日の予定を知っているのは、あの場にいたわたし含め3人だけだもの」 「その根拠は?」 「女性を連れて歩くということに鍵があるとは思うけど少し自信がないわ」 「なんでもいい、言えよ」 「……わたしの反応を見たあとの自分」 この答えに行き着いたのは、今までクロロと共にいてクロロがする行動原理の欠片をひとつひとつ拾い、ピースをわたしなりに嵌めて見えて来た結果だった。クロロはいつだって、わたしの反応を咀嚼としているように見えて、自分すらも咀嚼している。わたしを鏡のように見立て、わたしの反応で芽生えた反射を接受する。 まるで知らなかったと言わんばかりに。 わたしの存在など、どこにでもいる女のはずが、クロロにとって何かが違うようだ。シャルたちとは違う、と言っていた言葉は、ここでも当てはまる。 あの日、わたしを選んだ理由――これだけは分からない。 「挨拶したのも、わざと。わたしが返答するか確かめたかった……というより、クロロにとってどちらでも良かったんじゃないの。 知らない振りをしたならそれで良し、もし挨拶をしたら女性の前でどんな対応をするか、わたしを観察するつもりだった。そして、自分がどう思うのか知りたかった」 ここまで捲し立て、わたしはグラスの中身を飲干した。口許に垂れた水分を親指で拭い、目線を伏せて考え込む。あと何を感じたか、バスルームでまとめた考えを、更に凝縮する。 「わたしの知るクロロ=ルシルフルという男は、女性と一緒にいるとき、わたしに手を振るようなへまはしない。確かに、女の友人に手を振らないルールはないけれど、あなたの性格上、面倒なことは極力避けるはず。 でも、あなたはわたしの名前まで呼び、手を振った。あんなにも安直なやり方で……これが冷静になった後、わたしが持った違和感よ」 わたしは自分が今、どういう感情でクロロにぶつけているのか分からなかった。この感情を言葉にするのは難しい。悔しいわけでもなく、激昂しているわけでもない。 ただ、出会った当初の、あの頃のわたしとは違うと言ってやりたかった。わたしはもうクロロの手のひらの上で踊ることはしたく無い。 そう、これは下克上だ。 「突然来たのは種明かしをするため…――ううん、違う。クロロはこの状況を、わたしがどう推理するか試した」 がつん、とグラスを置いたわたしは、睨みつけるようにクロロを見た。彼は口端を撓らせて、わたしを見ている。 再度言うが、もうわたしは手のひらの上で踊るようなマリオネットではない。 「これが、わたしが導き出した答えよ」 「……グッド」 ここまで言い切るとクロロは、そう呟いて口許を大きく湾曲させた。やがてスローモーションのように目線を下げ、何か考え込んでしまう。手は口許に置き、微動だにしない。 わたしは次に何が来るか構えている。これはもう条件反射だ。 「すごいな。大体、合ってる」 やがて紡ぎだしたのは、めずらしくわたしへの賛美と肯定だった。 「以前から少し確かめたいことがあった。で、タイミング良くシャルナークから、お前が動物園に行くと聞いた。 ……あの上司とやらとな」 「確かめたいこと?」 「……」 ワインを一口含んだクロロは、本をテーブルの端に置いた。そして生ハムを口に入れると、つ、と音を立てて指を舐め、わたしを見る。妖艶なその姿に、わたしは無自覚で生唾を飲み込んだ。 「時々、オレの前では見せない表情をする。シャルの時、フィンクスの時もそうだった。……だが歓楽街でのことが今回の決定打だろうな」 歓楽街と聞いてすぐに浮かんだのは、あの会員制バーに呼び出された日のことだ。あの日以外、わたしはそこを歩いてはいない。 ふと、ここで微かな記憶を手繰り寄せた。それはあまりにも些細過ぎて、来月には忘れていたのではないか。そう思わせるほどの秒間、ジンさんの台詞。 『…いや、随分と熱い視線が刺さると思ってな』 『まぁ勘違いだろ、オレの』 『…能天気なのは本人だけだな』 「クロロ…あの夜、あの場所にいたのね」 彼は無表情のまま、わたしを見据えた。 言葉に詰まっているわけではなさそうだ。わたしの表情を、次に続く言葉を待っているように見えた。 「声くらいかけてよ」 「かけられるわけないだろ」 「なに言って……」 心臓が、どくんと音を立てた。わたしの意思とは無関係に――いやこれは外からの衝撃だ。 重苦しいクロロの声質により殴打された衝撃。 「オレの気持ち、分かったろ」 そうだ。わたしが今日、クロロを見なかったことにしたように、あの宵のクロロもジンさんといるわたしを見て声などかけられなかったのだ。 だが、わたしとはどこか理由が違うよう思え、納得がいかない。わたしは隣にいる女性を恋人もしくは恋人候補かと思った。クロロの場合、ジンさんとわたしが、そういった間柄に当てはまらないことは分かっているはずだ。 「…ジンさんとは、そういう仲じゃない。それくらいクロロも知ってるでしょ? わたしとは理由が違う」 「ああ、知ってる。だが、そうだな…声をかけられなかった理由、か…」 そう言ってクロロは、天井を仰ぐと口唇を僅かに開閉させた。毎度の如く、理由を模索しているのだろう。 やがて、クロロは答えを掴んだようで再度、焦点をわたしに絞った。 「シャルやフィンとは違う、どこか異質で……二人だけの世界というべきか。話しかけられない雰囲気があった」 「…え?」 「あと距離が近いな。…それが悪いと言ってるわけじゃない。ただ、ただ……」 そこまで言って、クロロは考え込んでしまった。今日、何度この表情を見ただろうか。眉間に皺を寄せ、真剣に悩む姿は不謹慎かもしれないが、美を集結させた芸術品のようだった。 だが次の瞬間、一級品の芸術が背を反らせて唸る。紡ぎだされた言葉は、予想を遥かに超えた”誰か”だ。 「ふう、しんどー。甘いもん食いてーわ」 ……は? 「頭使うと糖分が欲しくなるのに、なんで生ハムとチーズ? 塩分だけってキツイよ」 「どちら様?!!」 腕組みをしたクロロ――と思わしき男は、上半身を前のめりにし、テーブルに体を預けた。そして表情はいたずらっ子のように無邪気に、不敵に哂う矛盾さがあった。姿形はクロロだが、雰囲気がまるで違うのだ。 わたしは魚のように、はくはくと口を開閉している。言葉など、舌先で消散されている。あまりの驚愕に、いっかな声にはならない。 そして、わたしがここで頭を抱えたのは、説明するまでもないだろう。確かに、時々クロロは言葉を崩すことはあったが、ここまではなかった。 ようやくクロロを掴んできたというのに、この仕打ち。トランプゲームでラストにテンション高くジョーカーを引いたあの落胆に酷似している。 第三者がここにいたのなら天高く人差し指を掲げ、その指をわたしに振り落してこう言うだろう――絶望、と。 ジョーカー (このクロロを出さなきゃ始まらない) |
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(20180218)