目の前で頬杖をつきながら微笑む男は誰なのだろう。
 もはや自問自答することしか出来ず、しかしながらわたしは彼の名前を知っている。知っているからこそ今までをリセットされたような思いが圧し掛かり、どこかで認めたくないわたしがいるのだ。
 意図的に隠していたのか、もしくはわたしが呼び寄せたのだろうか。鋼鉄の鎧をはぎとったようなこの彼を、わたしは紐解かなければならない。

「返答する前に聞いていいかい?」
 頭を抱え、うんうんと唸っていると、わたしの様子など無関心のようにクロロは問いかけて来た。どうやら現状に戸惑っているのはわたしだけで、クロロからすれば何とでもないらしい。正直言うと腹が立つ。
 が、ここで憤慨したとしても仕方ないと思ったわたしは、頭を縦に振り落した。何が来るのか、戦闘体制になるのも忘れない。
「なんでオレだけ距離があるの?」
「…え?」
 唐突な質問は、わたしが勝手に設けていたパーソナルスペースの話のようだ。
 クロロと適切な距離を保たなければ友人ではなくなるという思いは変わっていない。とはいえ、これを彼に説明したところで理解してくれるだろうか。

 <友人ではいられなくなってしまう>

 この言葉は数多の意が含まれている。一つ、異性として意識してしまったら、わたしはわたしが求めた関係性は無意味になり、あの三箇条を破棄することに繋がってしまう。
(男女の友情――なんて甘美な夢だろう)
 もう一つは、今も継続している。わたしにとってクロロは、観察の対象になった。どういう人で何を好み嫌がるか、何を考慮し、いったい何を求めているか。これを得るには、あまりにも近過ぎる場合、何も見えなくなってしまう。
 今となっては、後者の方が圧倒的に欲している。ただ、あなたという人間を知りたいと。
 他、諸々とはあるが些細なことは割愛しよう。大部分を占めているのは、この二つなのだ。

「何かを眺めるときって遠くから見た方が全体を捉えやすくない?」

 わたしはワインクーラーから氷をひとつ取り出すと、それを卓上のど真ん中に置いた。人差し指で、それを軽くつつけば指先からダイレクトに冷たいと皮膚が伝えてくる。それでも、風呂上がりの身体にはちょうど良い塩梅だった。
「これ、なに?」
「氷」
「形は?」
「四角」
「触れると?」
「冷たい」
 ふ、とわたしが微笑すると、言いたいことが分かったのかクロロもまた口許を僅かに撓らせた。
「……なるほどね。近くよりも遠くから眺めた方が、オレを捉えやすいってことかな」
「うん、それ」
 ということに、しておこうと思った。
 この胸にある、この思いを説明したとして後に勘違いされてはたまらない。一歩間違えれば、まるで恋愛宣言だ。それに、うまく言葉に出来ないというのが、本音だった。
 少し違うが「動機の言語化が余り好きじゃない」と言っていたクロロに今なら共感できるような気がした。わたしは、クロロほど複雑ではないだろうけど。
「…言葉って難しいね、クロロ」
「そうだね」
 ふふ、と笑い、もうこの話を終わりにしようと思った時だった。「でも――」
 言いながらクロロは、わたしが未だつついている氷の上に自らの人差し指を置いた。爪先が触れる。わたしたちは、ふたりでひとつの氷を人差し指で触れている図だ。他人がいたのなら確実に奇妙な光景だろう。
 だが、わたしにとっては何かの儀式をしているような、神聖に思えた。まるで、今からわたしたちが始まるみたいだ。

「感触を得るには、触んねェと分かんねーよ」
「…」
「近づかなきゃだめなんだ」

(いや、わたしたちの関係は進化する)

「オレは近づきたい。
 そう、もっと。いや…もう一歩でも」

 わたしは、予想外の返答に面食らっている。あのクロロが、このクロロが、わたしに近づきたいと言ったのだ。
 この理由を聞いても、恐らく鮮明とした回答は貰えないだろう。故にわたしは、困ったような表情をし、声を上げて笑った。
「ふふ、そう…そうなんだ。うん、分かった」
「これは、あの条件に引っかかるかい?」
「どうかな、まさしく距離感によるんじゃない?」
 疑問で返すと、クロロは何か思いついたのか「そうだ」と呟き、人差し指を立てた。生き生きとした、その姿は今までにない歓喜に溢れていた。
 本当に同一人物なのか、わたしは未だに疑念を持ちつつクロロの言葉を待つ。
「距離感だよ。と上司の距離感は”当然”なんだ」
 どうやらこれは、置き去りにされていた返答らしい。
「オレにとってのシャルたちのようにね」
 くしゃりと前髪をかき分け、クロロは爽快な顔付きをした。彼にとって、この問題は余程難解だったのか面構えもそうだが言葉の節々から胸のつかえが取れたように感じた。
「で、オレだけに距離がある疑問に帰結する」
「…なるほど」
「それほどまでににとってあの上司は気の許せる相手なんでしょ?」
 言いながら目線を落としたクロロは、グラスを取ると一気にワインを飲干した。
 グラスが空になると注がなければと思うのは、もはや条件反射で、わたしは壜の一番に窄まった部分を握った。ワインクーラーから壜を抜くと、密集していた氷たちがざわめく。
 コルクを抜き、クロロのグラスに躊躇なく中身を満たした。冷えすぎたワインは、少しエグ味が出ているだろうが仕方ない。
 この間、わたしはクロロに問われたことを整理してみたが曖昧な答えしか浮かばなかった。
 壜をワインクーラーに戻しながら答えた。「あまり考えたことなかったけど、そうかもしれない。ジンさんからは色々教わったから」
「色々?」
「うん、色々。こうして空のグラスを放置しない事とか」
 にこりと笑ってワインを指すと、クロロはわたしの指先を眸で追った。それから緩く頷き再度、頬杖を付いた。少し面白くなさそう、というか興味が無さそうに見えるのは、わたしの勘違いだろうか。
 そして恐らくクロロは、ジンさんのことをあまり良い印象を抱いていないように見える。こうしてジンさんとの話題をしているときもそう、フルネームを憶えているくせに”あの上司”と呼び、名前を口にしない。理由が思いつかないのが残念だ。
 クロロの様子も拍車がかかり、ジンさんの願いを話題にすることは止めようと思った。それでなくても、今日一日の出来事でわたしの脳内は、容量オーバーしている。
 わたしは、この空気を吹き飛ばすため、前々から思っていたことを、ようやく吐露した。「ていうかね」
「前から思ってたけど、こんな風に条件付きの友人関係ってないと思うよ」
「へェ…ま、だろうね。オレも初めてだし」
 クロロは溶けかけていた机上の氷に向けて再度、人差し指を近づけた――かと思えば、かつかつと軽くノックし、テーブルの木目を眺め始める。僅かな沈黙の後、指先がぴたりと止む。
 わたしとクロロの視線が蔦のように絡みついて繋がれた。逃がさないと言われている気分だった。
「前に”わたしたちなりの”と言ったね」
「…うん、言った」
「じゃ友人という名前を止めにしない?」
「うん?」
 良く分からない。
「オレたちは、”友人”という言葉に束縛され続けていたんだよ。だから、ややこしい」
「ん? うん…」
「オレたちの名前を変えようよ」
「……友人以外に何があるっていうの。わたしたちに、それ以上の名前なんてないわ」
 わたしたちは、友人にしては特殊で、恋人にしては程遠く、知人であればあまりにも互いを知り過ぎた。
 訝し気にクロロを見ると、彼は触れていた氷を掴み、それを指先で玩び始めた。氷塊は部屋の灯りに反射して、きらきらと光っている。
 数秒、一人遊びを終えたクロロは、氷を元いたワインクーラーに落とした。かつん、落下音が室内に反響する。

「EMANON」

 聞いたことのない単語に、わたしは自然とオウム返しをしていた。「エマノン?」
「ああ、EMANON…スペルにしてみて」
「えーっと、E・M――」
 恐らくという具合に文字を並べていく。
 EMANON、EMANON、エマノン――何度か心の中で唱えているとクロロがなぜこの名前にしたのか気付いた。
 わたしは、いつの間にか俯いていた顔を上げてクロロを見た。憎らしいくらい自信満々な面貌が、そこにはあった。うまいことを考えたものだ。
「名前なんてないって言ったの言葉でこれにしたんだ」
 首を僅かに傾けてクロロは、わたしの返事を待っている。
 名前がない――確かに、わたしたちに名前なんて存在しない。何もない。だが確実に何かを築き上げてきた。この、約半年間で。
「いいね、EMANON……うん…いいね、これ」
 EMANONを逆さにするとNO NAMEノーネーム――名前なんてない、わたしたちだけの名前。声にして反復すると、しっくり馴染んでくる気がした。
 背負いこんでいた友人という荷を下ろし、今は新たなものを抱え込んだ。これは未知を秘めた原石でありながら鉛のように重く、柔い。
 いつかのクロロの言葉が過ぎる。

『何かを得れば放棄しなければならないものが増えてくる。それは無意識における必然だ』続けて『変化とはそういうものなんだろう』

 そう、クロロは言った。あの時は理解が追いつかなかったが今なら分かる。”友人”を棄て、”EMANON”というものを得た。無意識に、会得するために必然と”友人”を棄てざるを得なかった。
 わたしたちは、ふたりで新世界に飛び込んだのだ。もう後戻りはできない。

 テーブルの中央には、溶けた氷の残骸があった。歪んだ水溜りが、まるでこの関係性の穴を指摘しているように、ひしゃげて哂っている。名前を変えたところで、どうにもならないと。
 この瞬間にも、一歩また一歩とクロロとの距離が縮まっている。
「とりあえずハグでもしてみるかい?」
「そろそろビール冷えたんじゃない?」
「逃げられると追いたくなるんだよね」
「じゃ、わたしは全力で逃げなきゃね」
 美々しい芸術が、ゆっくりと破顔してゆく。それはもう楽しそうに、まるで、この世のものとは思えない程だった。
 わたしは、彼に火をつけた。それは、どの類なのか断定できないがこれだけは言える。
 クロロ=ルシルフルという未知なる男を全力で受け止めるか、全力で逃げるかの二択しかないのだと。
「いいね……オレも全力で捕まえてやるよ」
 今更だが、とんでもない男と出会ってしまったものだ。

NO NAMEノーネーム

(クロロの台詞はゼノとネオンとの会話を参考に妄想しました)
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(20180302)

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