カウンターの内側にあるシンクの前で、慎重にグラスを洗う。神経を削がなければ、繊細なガラスは僅かな散漫で割れてしまうのだ。バーで仕事をして早々、当時のわたしはよくグラスを亡者にしていた。 水滴は残したまま、なるべく自然乾燥させた方が水跡が残らない。わたしは最後のグラスを洗い終え、色々な意味合いを込めた息を、そっと吐きだし、隣にいるシャルを見た。彼は、月に何度か来る常連の男性と会話をしている。 溜息を聞かれていないことを願いながら屈むと、足許にある小さめの冷蔵庫を開いた。カクテルに使う材料をチェックしている最中、頭上から声が降ってくる。 「グレープフルーツ、ないよね」 シャルだ。見下ろされている面貌は逆光であまり感情が読めない。 「ごめん、開店する前にチェックし忘れてた」 「いいよ。オレもに任せっきりだったし」 名前を呼ばれたことに一度、心臓が大きく唸った。コーヒーを奢ったあの日から、シャルはわたしを名前で呼ぶようになったのだ。未だに慣れないため、思わず屈んでいた態勢を、ぴんと伸ばした。 常連の客はトイレにでも行ったのか、カウンターテーブルに私物を残したまま、姿が見えない。わたしの様子に察したシャルが淡々と答える。 「客は電話しに外に行ったよ」 「そっ、か。うん」 「名前で呼ばれるの、慣れない? 別に悪いことをしているわけじゃないんだけど」 「嫌とかじゃないからね。新鮮っていうか……少し驚くの」 いつの間にか俯いていた顔を上げると、顔に”仕方ないな”と書かれているシャルと目が合った。「今日は、ずっとその顔してる」 「ため息も多いし、あんまり干渉したくないんだけど…なんかあった?」 今日は、というか心の整理が出来るまで、わたしはクロロとのことを誰にも言うつもりはない。悟られないようにと身構えているが、やはりどこかで綻ぶようだ。 「…ううん、何もないよ」 何も、何も――と心の中で虚偽を重ねる。 今の感情を何と表現すればいいのか分からないのが本音だった。クロロとはあの日以降、確実に距離が縮まった気がする。それに歓喜や嫌悪、落胆などの感情は湧き起らなかったが、どうしてかしっくり来ないのだ。躊躇、が今一番近しい言葉なのかもしれない。 「ま、話したくないならいいけど」 ふう、と息を吐いたシャルは、そう言うとタイミング良く帰って来た常連に目を向けた。それから今思い付いたと言わんばかりに「あ」と、わたしの方を見ず、小声で呼び止める。「買い物、お願いしていい?」 先ほどの空気などなかったように、わたしは口許に笑みを浮かべて答えた。「いいよ」 「グレープフルーツだけ?」 「あと、オレンジ」 「OK」 店長なのに買い出しかよ、と常連の男性は笑いながら煙草を一本取り出した。その様子を眺めながら笑顔で答える。 「名ばかり店長なので」 わたしは、エプロンも付けたまま、足早にバーを出た。乾いた音を鳴らしたドアベルが少し、ほんの少しだけ哀愁染みていた。 本来、店で使うものは業者から取り寄せてはいるが、こういった緊急事態のときだけ買い出しに出かけるは本当に極稀だ。今回は、在庫確認を失念したわたしが悪い。店を出て比較的近い24時間スーパーに向けて、歩を進めている。 この二日間、脳内はクロロのことばかり考えていた。名前を変えたところで、わたしたちの関係性など1ミリも変わりないというのに、なぜクロロは拘りを持つのだろう。自惚れなく、実直に言えばクロロから恋愛の匂いはしない。 分かっているのは、引き金が――そう、ジンの存在だ。彼の存在が、わたしたちに変化をもたらした。 何度も言うが、わたしとジンは上司と部下だ。ただ、これも二日前の出来事で何かが変わった――敬語を使わなくなったとか――が、特にこれといったこともなく。むしろジンは敬語なしが、しっくりくると言った。さすがに社内では敬語でいようとは思うが。 街灯を辿りながら、あれやこれやと考えているとポケットに忍ばせていた携帯が震えだした。立ち止まり、取り出して画面を見ると、そこにはジンから着信が来ている。なんてタイミングだ。 数秒、ブルーライトにしかめっ面をしたわたしは、重い指先でタップし、耳元に携帯を当てた。 『どこにいる』 第一声がそれかと、どこか呆れながら答える。「買い出しに出てるけど」 『買い出しだ?』 「注文するの忘れてて」 『お前にしてはめずらしいミスだな』 引き金が、あなたですなんて言えない。 『で、用件だが――』 電話越しで仕事の話をしていると、目的地に辿り着いてしまった。カゴを取り、フルーツコーナーを目指す。スーパーは仕事帰りの人で、いつもより人口密度が増している。 「ううん、その件に関しては会長から、らしいよ」 『ジジィから? じゃチードルに確認した方が早ェな』 面倒くせー、と耳元から聞こえてくる台詞。ジンは昔から、チードルさんと会話をすることに少し避けている節があった。理由は台詞通り、面倒だかららしい。 グレープフルーツを手に取り、吟味しながら思わず笑うと、「笑うな」と不機嫌な声が飛んでくる。わたしは、カゴにグレープフルーツとオレンジを入れレジに向かおうと――した。「あ」 ヤバい。 「もしもしジン、まだ電話繋がってる?」 『んだよ。切れってか』 「違う、むしろ来て欲しい。今どこ?」 『…会社の近く。ついでに言えば車ん中』 車、と聞いてわたしは心の中で救済を確信した。ここからシャルを呼ぶわけにもいかず、戻るよりもジンに車で来てもらう方が早い。もはや、わたしは敬語と共にジンの存在を120度変えてしまったのかもしれない。 「xxxスーパーに今すぐ来てお願い財布忘れた…!」 捲し立てた言葉に、レジにいるお姉さんが驚愕してわたしを見ていた。 レジ袋の中は、可愛らしいフォルムにしては過重な果実が詰まっている。重いとは思ったものの、持てないわけではない。表情に出すことなく、スーパーの出入り口を潜り抜けると、目の前を歩いていた人物が振り向いた。 「ん」 そして片方の手のひらをわたしに向け、何かの意思表示。言葉にしなくてもわかる、(荷物を)持ってやるという事だろう。 「大丈夫。すぐそこまでだし」 「お前、ほんと可愛くねェな」 そう言って、ジンはわたしから袋を取り上げると歩き出した。思いの他、レディファーストが出来ることに少し驚いたが、それを本人に言っては失礼かと思い止める。一笑したわたしは、ジンの隣に並ぶため、小走りをした。 駐車場に停めていたジンの車は、二日前にわたしが運転したものだった。何食わぬ顔で助手席に乗ると、ジンがエンジンスイッチを押しながら言った。 「店まで送りゃいーんだろ」 「よろしくお願いします」 「ビールくらい奢れ」 「もちろん! …て言いたいところだけど車はどうするの?」 この会話を始めた時にはもう、わたしの末路は出来上がっていた。隣にいるジンを見上げると口角がつり上がり、目尻の皺があることから彼が心底楽しい状況だという事を理解する。 ひくり、と口許が歪んだわたしは、拒否の言葉を紡ごうと口を開けるが、この状況で断れるはずもない。今日は絶対に厄日だ。 「閉店まで飲んでっから、運転しろ」 「…代行という手があるはずだけど?」 「オレが嫌なんだよ」 「……」 シートベルトを引き寄せる手が重い。明日、普通に仕事でしょうとか飲み代全ては負担しませんなど言いたいことは多々あったが、そんな気力がわたしに残っているはずはなかった。 従業員用のパーキングに駐車し、わたしは裏口から入ろうとするジンを引き留め、出入り口まで歩いている。まさか今から飲む人物が裏口から来るなど、他の客がいる場合、違和感を抱かせないためだ。前回は客がいなかったため、今更ながら胸を撫でおろしている。 ふと、わたしはここで気づいた。本日シャルがいるということは火曜日だ。火曜と言えば誰が来るか、答えはひとつ――クロロが来る。 「ちょ、ちょっと待ってジン、今何時?!」 「自分で確認しろや。携帯持ってんだろ」 クロロと鉢合わせたくない! というわたしの思いなど露一つ知らず、ジンは大股で突き進んで行く。本気の危惧を抱いたわたしは、ジンの腕に掴みかかると無理やり速度を落とさせた。 「いや、待って…! 止まって!」 「な〜ん〜だ〜よ! なにかあんのかよ」 「ちょっと店の様子見てくるから、ここで待ってて」 「……」 咄嗟の嘘は、自分にしては上手に吐けたのだと思う。わたしを見下ろしているジンは、意外にも無表情だった。恐らく、今現在の違和感を模索しているに違いない。 ジンの腕を抱えたまま、携帯を取り出し、時間を確認すると10時を過ぎていた。クロロがいる可能性が大いに高いことは明白だった。 携帯を仕舞い、ジンの腕に縋り付くように引き寄せる。何とかならないかと、無意識のまま当の本人であるジンに助けを求めている形は酷く滑稽だ。 「理由はクロロか」 「え?」 「オレを店に行かせたくない理由」 「……お客さんがいるかもしれないからジンの座る場所がないかな、って」 否定も肯定もせず下手な嘘を言うと、は、と吐くように失笑をされた。この様子を見て、わたしは確信する。ジンは分かっているのだ、わたしのこの態度に。そもそも、隠せるはずなどなかったのだ。 「大体、理由はわかってっから、とりあえず腕」 「うで?」 「離せ。押し付けてくんな。誘ってんのかバカ野郎」 「え、あ…ああ、ごめん」 そんなつもりはなかったが、どうやらわたしは胸を押し付けるほどジンに密着していたらしい。必死過ぎてそれどころではなかったわたしは、今さら気恥ずかしくなると、ようやく両手の力を抜いてジンから一歩離れた。 だが、ここで現実に戻る――さて、どうするべきか。ここで揉めていても徒労のため、わたしだけジンよりも先に行き、クロロが居るか確認してきた方が最善か。 「ねぇ、ジン。少しだけ待ってて。今、様子見てく――」 「あーうぜェな」 言葉を遮ると同時、ジンはわたしを振り切るように颯爽と歩き出すと勢いよくドアを開けた。それはもうドアを破壊する勢いで突き進んでしまう。 全身が目の前の行動全てに衝撃を受けていると、言葉すらままならないわたしは手を伸ばしてみたが、ドアの向こう側にジンは消えていった。 からん、とドアベルの音がエコーする中、わたしは固まって動けないでいた。ジンとクロロが会うという事は、店に入りたくない。だが、戻らなくてはいけない。 「入らないのか」 幻かと思った。遠くかけられた声は、わたしのよく知る心地良いバリトンで、今まさに苦悩の種そのものだった。 いつの間にか項垂れていた顔を弾いたように上げると、街灯の光を避けるかのようにクロロが立っている。シルエットと声だけで判別できるようになったのは一体いつからなのだろうと、心は冷静にクロロを観察していた。 シルエット |
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(20181021)