「…クロロ」 名前を呼び、駆け寄るとクロロもまた一歩、一歩と近づいてくる。両手をボトムの懐中に突っ込み、歩み寄るその姿は、どこか物語のワンシーンのような鮮烈とした印象があった。 1メートル程の距離を置き、わたしたちは立ち止まった。それでも相も変わらず、闇夜に溶け込んだ存在は何ら不自然さなく、まるで夜がクロロの世界かのように彼には宵が似合う。 「帰るの?」 「いや、今から行く予定だった」 「だった、てことは…」 「飲むつもりだったけど今日は行かない。……いるだろ、ジン=フリークス。奴と顔を会わせるのは面倒だ」 どうやら、というよりもやはり先ほどのジンとのやり取りは見られていたようだ。 「初めてじゃない? クロロが10時過ぎてから来るの」 「ああ。マチに今日行くなら遅めに行けって言われてね」 「ふふ、すごい。正解」 マチさんは予言者か何かか。全くその通りで、もしもクロロが通常通り、10時に来店していたのなら、確実にジンと鉢合わせていた。 「皆勤賞だったのにね、残念」 開店から、もうすぐ一年が経とうとしているが、あれから欠かさずクロロは火曜日に来てマティーニを呷っていた。今日、それがないということは初めてのことで、わたしは上記を言ったはず――が、案外クロロは涼しい顔をしている。 微かに、ふ、と笑う仕草は何の余裕か、それが滲んでいた。何を思ってるの、と聞くまでもなく、クロロの口唇がゆっくりと動く。 「そうでもないよ」 甘怠い、優しい声だった。どこから、そしていつからそのような声色を出せるようになったのかと疑問を携えながら、わたしは聞き入る。 「に会うのは、皆勤賞だろ」 それは、バーやマティーニではなく、わたしを軸にした答えだった。まるで、わたしに会うために来ているのだと言われている気分――いいや、きっと、恐らく、そうなのだろう。 しかしながら本当にどうしたのかと、わたしは唯々仰天している。普通の女性ならばここで頬を桃色に染めているところだが何か悪いものでも食べたか、既にアルコールが回っているのか、疲労ゆえの幻想か、数多の可能性をかき集めた。 結局わたしが滑らせた台詞はいつものからかい口調。「お口が上手になりましたね、クロロさん」 「本音だけど」 だったのだが平然とした態度と答えに、わたしはたじろいでしまった。 「ええ…っと、ありがとう?」 「どういたしまして」 そう言い切ったクロロは、懐中に突っ込んでいた手を取り出すと、手首に嵌めてあった時計を覗き込んだ。時刻を確認すると「じゃ行くよ」と残して踵を返す。名残など一切なく、去っていく後ろ姿を眺めていたわたしは何かに急かされるよう、彼の名前を呼んだ。 「クロロ」 ぴたりと止まった黒影は、ゆっくりと表を向くが暗闇がクロロの表情を遮蔽しているため、どのような表情をしているのか分からない。 しかしそれは、わたしにとって些細だった。クロロが何を思い、どの感情を持つのかは、今から言う言葉の後でいい。 「次、いつ会える?」 数秒、沈黙が舞い降りた後にクロロは言った。 「来月には時間を作るよ。一緒に食事をしよう」 少し間を置き。「必ず」 「うん、わかった。体に気を付けてね」 微かに笑みの気配がしたが、それは定かではない。再度、背を向けた黒影は、夜に馴染み、次第に溶けていった。クロロのいない空間の中、わたしは一人、佇むとエプロンの懐中に両手を突っ込み、目を閉じて口角を上げる。 クロロは虚言を吐いたことがないため、彼が必ずと言ったのだから来月、わたしたちは”必ず”ディナーを楽しんでいる事だろう。目蓋の裏に浮かぶ風景は、いつものわたしたちだ。 ここで、わたしもようやく店に向かって歩き出した。先ほどまでの躊躇と名付けた感情は、どこに消散されたのだろう。偶然だったがクロロと会い、会話をし、思う――やはり、わたしたちはわたしたちでしかあり得ない。 「…あ!」 忘れていたジンの存在を思い出し、思わず独り言を吐くと小走りをした。その勢いのままドアを開けると、弾かれたベルが高く高く舞いながら、甲高い音を頭上で鳴らしている。大した距離もないというのに、息切れしているのは焦燥ゆえか。 ドアの向こう側ではジンとカップル一組がカウンター席を埋めていた。シャルはというと、めずらしく無口となってグラスを拭いている。 己の手元を見る。そういえば、買った果物はジンが持ったままだった。ということは、何とも接点のないジンがシャルに渡したと思うのが自然だろう。 「ご、ごめん」 一体、どちらに謝罪したのか自分でも分からなかったが、わたしは慌ててジンとカップルの後ろを素通りするとカウンターの中に入った。即座に両手を洗いながら、窺うようにシャルを見る。 真剣にグラスを磨くその横顔は、相変わらず整っていた。シャープな鼻梁が僅かなライトによって際立って見え、男性にしては大きめの眸は、半分ほど目蓋を下ろし、いつものベビーフェイスを半減させている。まあるいエメラルドグリーンは何を愁いているのだろう、そう思わせた。 「シャル」 「おかえり」わたしを見ずに、簡素な返答だ。 「遅れてごめんなさい。フルーツは」 「店長の上司から受け取ったよ」 上司という言葉に、わたしはようやくジンの方向へ焦点を絞った。彼はビールを呷っていたが、わたしの視線に気づくと「よぉ」と、どこか意味深に口許を撓らせた。 蛇口を下ろし、簡単にタオルで水滴を拭うとジンの目前に立つ。ふと声をかける寸前、テーブルにあるナッツ類が皿を埋めていた様子に、わたしは取って置きの物がある事に気付いた。 「ジン、さん」 シャルがいるため、何となく後付けで”さん”を付けると、ジンは上目使いでわたしを睥睨した後、シャルをちらりと見てからようやく返事をした。「なんだ」 「手作りジャーキー、食べてみません?」 「お前が作ったのか?」 「まさか。メンチさんが試してみたいって作ったのがあるんです」 云わばその試作品をわたしも食べてみたが、噛み応え抜群、程よい味付けにアルコールが進む。確か、まだ冷蔵庫にあったはずだと、わたしは厨房へと急いだ。 辛うじて三枚あったジャーキーを持って帰り、器に乗せて邪魔かなと思いつつも、カップルに一枚。二人は「ありがとう」と言い、また仲睦まじく密着し始めた。一枚しかないが、仲良く食べてくれるはずだ。 「はい、ジンさんの分」 「ん」 残った二枚の内、一枚渡すと彼は早速、豪快に齧り付いた。歯並びの良い口許から鈍い音が鳴る。やがて「うめェな」と小さく聞こえて来た。 わたしは、その様子に安堵してから残りの一枚を縦に割くと、半分になったそれをシャルに向けた。シャルはグラスを磨いていた手を止め、やがて微笑む。 「オレの?」 「うん。半分だけど」 ごめんね、とも付け加えるとシャルはグラスを片付けてから半分になったジャーキーを受け取った。店にいる皆、ジャーキーを頬張るという謎の光景だ。 カップルの内の男性が、「うまいよ」と言ってくれた。わたしはお礼を述べてから、「失礼します」とも言い、ようやくジャーキーを口に入れた。相変わらず、美味しい。やはり、アルコールが欲しくなる。 「オレたちも飲もうか」 わたしの心を読んだのか、それとも自分が飲みたくなったのか、シャルは既にシャイカーを用意し始めた。どうやら、私のカクテルを作ってくれるようだが今日はダメだ。ジンを送らなければならない。 「あ、ごめん。今日、運転しなくちゃいけなくて」 「ふーん? そうなんだ」 「こいつは今日、オレの運転手」 ジンがシャルに向けて言い放った言葉は、好戦的に見えた。ニィと笑う口許から、どこか面白可笑しく空気を震わすほどに。 「じゃオレだけ飲もうかな」 だが意に介せず、シャルは冷蔵庫からグレープフルーツを取り出した。果物ナイフで半分に切られる様を見てから、わたしはジンに振り返った。 「本当に閉店までいるんですか?」 「今日は飲みてー気分だったしな。そもそも運転手が目の前で働いている」 「…わたしはジンさんの便利屋じゃないですよ」 「今日、助けてやったのは誰だ」 「…………ジンさん」 もはや、ぐうの音も出ない。わたしは一人唸ると、握っていたジャーキーを口に突っ込んだ。行儀悪いかもしれないが、そのまま顎に力を入れ、引っ張る。 思いとは裏腹に、肉厚なジャーキーから旨味が滲み出て来た。明日、メンチさんに言おう、もう一度作って下さいと。 「アースクェイク」 「え?」 「はい、アースクェイクですね」 メンチさんの事を思っていたせいか、わたしはジンが何を言っているのか聞き逃してしまったため、再度訊ねようとすると隣のシャルが義務的な返事をしていた。手元には、いつの間にかシャルが作り終えたカクテルがある。 シャルは、注文されたカクテルを作る準備に入っていた。ここで、わたしはアースクェイクというカクテル名に疑問符を立てる。アースクェイク、アースクェイクと唱え、ようやっと思い出した事実に瞠目してジンを見た。 「アースクェイクって、けっこう度数の高いカクテルじゃないですか。明日お仕事ですよね…?」 ジンはクロロのようにザルというわけではないが、弱いわけでもなく普通の人よりは酒に強いくらいレベルだ。何度か酔っぱらったジンを見たことがあったため、わたしは憂慮の意味を込めて言ったのだが本人はどこ吹く風。 半分に減っていたビールを一気に流し込むと、早くと言わんばかりにグラスを空にした。そして顎に手を置き、眸だけでわたしに目線を寄こしてくる。何が言いたいことがありそうだが、さっぱりだ。 「今日は飲みてー気分だっつったろ」 どうやら、それが彼なりの理由らしい。シンプルイズベスト。 シンプルイズベスト |
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(20210623)