カーテンの隙間から辛うじて漏れる陽光で部屋は僅かに明るさを取り戻している。わたしは、携帯のアラームが起床時間を知らせる前に意識を浮上させていた。
 目覚めてから、いったい何分ぼんやりしていただろうか。ようやく枕元に置いてあるはずの携帯を探すが、どこにも見当たらない。
 仕方なく気だるい上半身を起こして、テレビの電源を入れた。液晶画面の右下には、午前6時9分と表示されていた。
 あまり寝ていない――それは自分の体調具合と、最後に見た時間帯が深夜の2時過ぎだったからだ。
 テーブルの脇には放り投げただろうバックがへたれて置いてあった。中を漁って携帯を取り出す。着信やメールはない。
「ごはん、食べようかな…」
 今日は土曜日、カフェに出勤しなければならない。あまりお腹は空いていないが、何か入れないと持たないので、わたしは仕方なしにキッチンに向かった。

 やる気が起きない朝食はパンとサラダ、あとは友人が進めてくれたアボガドにヨーグルトと蜂蜜を混ぜた食べ物だ。時間があるのでゆっくり食べ、最後はカフェオレで落ち着いている。ブラックにしようと思ったが、胃に優しくないのでやめておいた。
 落ち着きすぎて眠くなってきたものの、時間は中途半端な時間しか残されていない。わたしはメイクに取りかかると、ようやく昨日の出来事を思い返した。
 結果を言えば、わたしはテキーラを飲みきったのである。
 そこから一瞬一瞬、記憶が飛んでいるが、きちんとタクシーで帰り、メイクを落としてシャワーを浴び、ベッドにダイブした記憶はある。寝る前には「今日はバスタブにつかりたい」と呟いたことまで全部だ。
 ここで、わたしはようやくあの男――クロロ=ルシルフルに振り回されることはないだろうと思えば内心ほっとしている。同時に、少しつまらないとも思ったが、それは小さい内に、今の内に潰しておこう。
 メイクと着替えを済まし、通勤用のバッグを持って玄関に向かった。わたしは、またいつもの日常に戻る。
「……んっ?」
 はずだった。
 玄関の内ドアには一枚の紙が貼られていた。ぶん取って読んでみると、見たことのある走り書きでレストラン名とアバウトな時間帯が記されていた。
 わたしとあの男の物語は、ここで終わらないらしい。


「だからね、まず人の都合を考えてる?」
「だから、こうして迎えに来た訳だけど?」
 バーが9時開店のため、カフェは8時で閉店する。それから掃除など済ませ、わたしがラストまでいるときは、どうやっても8時半までかかる。それなのにこの男の待ち合わせ時刻は8時過ぎと書かれていた。
 裏口から出ると一台のクラシックカーが待機していたので、まさかとは思った。
「もうレストランは無理だと思う」
 男は、運転席から降りて助手席のドアを開けてから言った。
「予約は9時にしてある」
「……ていうか、昨日で勝負はついたはずだけど」
「そのことについて話し合うつもりだ。…が、その前に食事をしよう。腹が空けば人間は苛立つものだ。それに、こうまでしないと、君は車に乗らないだろう?」
 こうまで、というのは恐らくレストランの事を指している。また、納得しなければ、互いに折れないということだろう。
 認めたくはないが、わたしはもう男の手のひらの上だ。

 車中は静かにワーグナーの【ジークフリート】が流れていた。
 鼻歌でも歌い出しそうなほど、男の雰囲気から機嫌が良いことだけはわかる。
 どういうことだろう。わたしは昨日、確かにテキーラを男よりも先に飲み干した。燃えるように焼けた喉の痛さを、わたしは知っている。
「……昨日のことだけど」
「携帯を見ていないのかい? それについてはシャルから動画が送られてきているはずだ」
 そういえば、仕事を終えてから一度も携帯を確認していない事に気づいた。
 バッグから携帯を取り出して電源を付ける。確かにシャルから動画が送られてきていた。わたしは、それを恐る恐るタップする。
 ---
『おい、誰か動画でも撮ってやれよ』
『もう撮ってるよ』
『社長が負けるはずねェのにな』
 騒がしい雑音の中に社員たちだろうか、会話が入り交じっていた。画面の中心には、わたしと隣の男が映っていて、短いカウントダウンが始まった。スタートのかけ声と共に、わたしたちはテキーラを煽る。
 先に噎せたのはわたしの方だった。その間、男は水のようにテキーラを流し込んでいる。
 画面上のわたしに、まるで他人事のように心の中で声援を送っていると、ついに男が3杯目に手を付けた。わたしのグラスの中身は、あと半分も残っている。
 あまり記憶にないが恐らくこの時、わたしは危機を察したのだろう。意を決してグラスを煽っている。男もまたラストスパートをかけている。
『おお……!』周囲のどよめきが入る。やはり先にグラスを空にしたのは、わたしだった。
 動画のわたしは飲み切ったことに安堵したのだろうか、勝利の雄叫びを上げるとソファーに身を委ね、ぐったりと動かなくなった。
『あ、やばいな。救急車呼ぶ?』
『うーん、大丈夫みたいよ』
 近寄ってきた女性が何を根拠に言っているのか、わたしの顔を見てそう言っていた。
 ---
「ほら、やっぱりわたしが勝ったんじゃない」
「最後まで見てからそれを言うんだな」
 最後まで?
 これで終わりではないのかと、もう一度動画を見る。
 ---
 動画の中の男が、にやりと笑っていた。
 コン、とグラスを置いた男が意識の薄れたわたしに近寄って何か言っているが、動画からは何も聞こえなかった。
 ―ブツン
 ---
 映像は、ここで事切れた。
「どう見ても、わたしの勝ちなんだけど」
「オレより早く飲むだけがルールじゃない」
 わたしは昨日の記憶を懸命に手繰り寄せた。
 無理やりバーに着いてきた社員たち、気まずい雰囲気に不毛な争い、痺れを切らした男。そして一つの賭け。賭け事の最初、男はなんと言っていた?
 やがて、わたしはもう一つのルールに気づくと運転席に振り返った。

『付け加えるなら、飲んだらちゃんとグラスはテーブルに置くこと』

「飲んだらグラスはテーブルに置くこと?!」
「正解」
 男はそれだけ言ってウインカーを付けてからハンドルを捌いた。真っ直ぐに車が戻ると、アクセルを踏んでいる。
 動画の中のわたしの手には、ショットグラスが握られていたままだった。つまりは、そういうことなのだろう。
 わたしは大きな溜息を吐き、背もたれに寄り添った。窓の外を見ると、街頭の光が定期的に明かりを伝えてくる。その横で常に男の横顔が映っており、笑っているように見えた。

 最寄のパーキングエリアに車を停め、歩いて間もなくすると目的地はあった。
 正直に言えば、名前を見ただけで期待していたのは内緒だ。何せ男の指名したレストランは予約が取れないほどの人気店でコネクションがない限りは飛び入りでの予約は無理だろう。
 忘れていたが、この男は社長だった。店に入ると、カウンターにいた初老の人が飛び込んできたのがいい証拠だ。車のキーを受け取ることも忘れていない。
 案内されたテーブルに座る。メニューは任せた。わたしは賭け事のことで何を言われるのか不安で仕方なかった。
「オレはね、本当はビールが好きなんだ」
 ドリンクも全て男に任せていたため、わたしに注がれたのはシャンパンだった。男は言葉通り、ビールが満たされているグラスを持っている。どうやら乾杯のようだ。
 わたしは渋々グラスを取り、男に向けて傾けた。キン――とグラス同士が触れ合うと、男は美味そうにビールを飲んでいる。
 そういえば、男がうちのバーでビールを頼んだことは一度もないことに気づいた。今ビール好きを公言したというのに、なぜうちではマティーニなのか気になった。
「……マティーニを」
 澱んでいた口元を、きゅっと閉める。
「うちでマティーニを飲んでいたのは、"選択"したいから?」
「ああ、あそこでビールを頼むのはナンセンスだ」
「今日マティーニを飲まないのは選択するものがないのね」
 前菜が運ばれてくる。男は早速フォークを取ると、さくさく食べ始めている。
「食べないのか」
 それは答えではなかった。わたしはこの一言で理解する。
 男は、ここで何も喋る気はないのだ。
「いただきます!」
 半分自棄に、わたしはそう言うと前菜に手を付けた。どうせ今後入られるか未知数なレストランだ。今は舌だけでも楽しもうと次々に来るオードブルを前に、あっさりとひれ伏してしまった。

 車は後で誰かに回収させるようで、帰りはタクシーで帰ることになった。
「家にいいワインがあるんだ。厳密に言えば仮宿だけどね」
「結構です」
 さすがのわたしも、この後の流れで家とになれば、女としての危機管理が発動しサイレンが鳴く。男にとって尻軽に見られていたことが地味にショックだが、そういった態度は見せない。
 しかし、わたしの考えなど筒抜けなのだろう。きょとん、とした顔をした後、失笑された。
「何か勘違いをしているようだけど別にとって食う気はないよ」
 手を上げてタクシーは停まったが、男が乗る素振りはない。
「話をしよう。疑うなら、自分に相当自信があると受け取るけど…逆に言えば誘われてるのか、オレは」
 癇に障る言葉だ。そして、わたしのこのちっぽけなプライドを理解しているが故の台詞だ。
 わたしは、何も言わずタクシーに乗り込むと続いて男も乗り込んでくる。曰く仮宿に着くまで、わたしたちは無言を貫いた。

 着いた場所はタワーマンションの最上階で、扉の向こう側は全てがワンフロアになっていた。タワーマンションと言っても言葉以上の高級感はない。とはいえ、決して低い家賃ではないことは予想つく。
 左側の奥にはベッドが、右側の方にはテレビとソファーが置かれていた。わたしのその右側のソファーに案内されると、そのまま本人はキッチンの方に行ってしまった。
 することもないので、ぐるりと周囲を見渡すと、ワンフロア故に色々見えてしまう。例えばこの夥しい本棚や放置されている山済みの本だとか。
 そういえばと、本を持ち歩いていたことを思い出す。男は本の虫なのだろう。目の前にあるガラステーブルにも栞が挟んである本が置かれていた。表紙を見る限り、異国の本だ。
「テーブルの上の本、寄せていい? 汚すといけないから」
 ワインセラーだろう扉を開けている男に向けて言うと、「ああ」と返事が返ってくる。
 数冊あった本をまとめて、どこに置こうか考えた先はテーブルの下だった。これで歩いても邪魔にはならないし、片付けた本の場所がよく見える。
「白でよかった?」
 そう言ってワイングラスを渡され、わたしは頷いた。赤ワインよりも白ワインの方が飲みやすい、男なりの配慮だろう。
 男は、ワインクーラーをテーブルに置くと、わたしの真向かいに座り「乾杯」と言ってグラスを掲げてから口付けた。その姿を見て、わたしも一口飲む。確かに飲みやすくて、しかし調子に乗ると危ないものだ。
 台詞を見れば分かるが、今日の男はフランクモードだ。真面目な話や議論するとき以外この調子だが、わたしにとってはめずらしい。何せ、わたしたちの会話に議論は尽きないからだ。
「早速、賭けの話をしよう」
 そう思っていると、男の雰囲気が変わった。
 ワインをテーブルに置くとタイを緩め、両手を組んでわたしを見た。
「だが、その前に確かめたいことがある。なぜ君が客との距離を頑なに置きたがるかだ…これはオレの想像に依るものだが、客という立場の言い寄る男に不信感を拭えない、そして過去に何か面倒に巻き込まれた可能性が高い」
 冷や汗が、どっと出た。
 わたしの過去はこれまで一度も言ったことはないからだ。
「以前、君は番号が書かれたコースターをへし折っていたな。それを見て直感した訳だが、どうだ」
 付け加えるなら仕事が多忙すぎて構っていられないのもあるが、敢えて口にはしなかった。まるで言い訳をしているみたいに思えるからだ。
 毎夜毎夜、誘いがあるわけではないが、それに答えていてはきりがない。嫌な噂も広まるし、陸でもないことは実感済みだった。それに、その壁を飛び越えてもいいと思える人もいないのだ。
「ボーイフレンドは?」
「…いない。店舗勤務になってから忙しくて別れた」
「…………そうか」
 そう言って男は押し黙り、何か考えているようだった。
 ――やがて口を開いたのは、ワインを一口飲んでからだった。
「友人になろう」
 何を言い出すのかと思えば、この重苦しい空気を打破したのは、予想外の言葉だった。
 わたしは驚愕のあまり口をぽっかりと開けてしまった。この男の事だ、もっと複雑でわたしには思いつかないことを言い出すのかと思ったが、提案はシンプルなものだった。
「ただし条件付きだ。要するに君は男と女になるのが嫌なんだろう?」
「う、うん……面倒、かな?」

「1.お互いのどちらかが恋愛感情を持った場合この友人関係は破約する。
 2.どちらか一方が特定の相手が出来た場合この関係を解除できる権利を持てる。
 3.何かの手違いで男女の関係を持ってしまった時は即座に解散」

 提示してきた条件は、わたしにとって願ったり叶ったりのものだった。なぜなら、何度も言うがこの男は嫌いじゃない。
 わたしは、テーブルに置いてあるワインを取ると、それを一気飲みした。今日、酒が美味しいと思ったのは今この瞬間だった。
「おいしい、今日飲んできたお酒の中で一番」
「このワインは君に飲まれるためのワインだったわけか」
「…ねぇクロロ。わたしたちは、もっと会話を重ねた方がいいと思う」
 空になったワイングラスを振る。男は――クロロは、少し驚いた顔をしてワインクーラーから壜を取るとコルクを抜く。「ああ、そうだな」
「ところで、それはOKサイン?」
 空のグラスにワインを注ぎながらクロロは言う。わたしは満面の笑みで答えた。
「ええ」
 わたしの答えにクロロは満足気に頷いてから、わたしたちは、ここで友人関係になって初めての乾杯をした。清々しいほどの、この関係性は、これ以上でも以下でもないのだ。
 しかし、わたしには疑問に思ったことがあった。なぜクロロは、こうもわたしに拘るのかと。
「それじゃ肝心なことを聞いてないから聞くよ」
 その疑問は、わたしたちのリスタートに相応しい問いで、あっさりと飛んでいった。
「――君の名前は?」

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(20160727)

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