ストレッチのあるスキニージーンズにTシャツ、腰に上着を括り、言われた通りにスニーカーを履いた。リュックの中身は最低限の日用品とコンビニエンストアから泣く泣くおろした貯金。目指すは流星街から近い都市だ。
 飛行船に飛び乗り、上空から見下ろした景色は、それこそ宝石を散りばめられたような夜景だ。もしも、ただの旅行だったのならばは「綺麗」と素直に口にしていただろう。だが、向かう目的地は、あの流星街。隣には幽霊。
「レストランでも行ってくれば?」
「…うん、お一人様でね」
「寂しいの? オレがいるじゃん」
「……」
 残念ながら、シャルナークは以外の誰にも見えない。
 何度も言うが、彼は幽霊だ。

 数日間、飛行船にお世話になり、それから距離を縮めるため電車からタクシーへと乗り物を替え、ついには徒歩になった。肉眼で辛うじて見える荒野の向こう側には、塵山が聳えている。
 ここで用意していたマスクとゴーグルをは装着した。傍から見れば怪しい人物そのものである。
「ところで流星街って部外者OKなの?」
「何ものも拒まない、それが流星街だよ。ただし、あんまり目立つことはしない方がいい。面倒になるから」
 ふたりで歩いていると徐々に悪臭がの鼻に潜り込んできた。しかめっ面をした様子のとは逆にシャルナークは平然としている。
 彼に聞かなくとも、平然の理由をは存知する。シャルナークを睥睨し、は前進した。この状況から逃れられるのは、今はただひとつ。足早に駆けることだった。

 シャルナークに案内されたのは、流星街の中心部より少し離れた一軒家だった。年季の入った家は主をなくしたまま、閑散と佇んでいた。玄関の横には、襤褸屋に不釣り合いの、現代的な数字が並べられた機械が取り付けてあった。
「オレの言った通りの数字押して。間違えるなよ。3回間違えると大変なことになるから」
 笑顔で物騒な事を言うシャルナークに、は冗談ではないことを察した。横で一つ一つ言われた数字を確実に押す姿にシャルナークは密かに笑ってしまった。
 ドアが開錠され、中に入ると、玄関を抜けた先にはリビングルームへ続くドアが見える。そこへは行かず、すぐ脇にあった階段を上るよう指示され、不気味な音を響かせながら階段を上りきった。
「この部屋。入って」
 ドアノブを回して開け放たれた向こう側には、ベッドとデスクが部屋の大部分を占めていた。デスクの上にはパソコンが鎮座しており、シャルナークは即座にその前に立つ。
「あ、やっぱり」
「どうしたの?」
 上機嫌なシャルナークの横に立つと、彼の手には携帯が握り締めてあった。デスクに置いてあったものだろう。机上には携帯が、もう幾つか横並びにある。それをシャルナークが持っているということは、いくらでも予想が追いつく。
「もしかして、生前の自分の物だったら掴めるのかな?」
「かもね。これで効率良く作業が出来る」
 そう言うと、シャルナークはデスクに収まっていたチェアを引いて座り、パソコンのスイッチを押した。立ち上がるまで時間がかかると踏み、持っている携帯を弄っている。
「もう一度、団長に電話してみよう。このケータイからなら出るかもしれない」
「シャル、たくさん持ってるね」
「色々使うんだよ」
 携帯の奥からコールが鳴っていた。ふたりは、固唾を飲んでその画面を見つめている。
 4度目のコールが鳴り終わった直後だった。『誰だ』
 スピーカーマークを押したシャルナークは、即座に開口した。
「団長!」
『シャルナークか?』
「団長、オレの声聞こえてる?」
『…………まさかな』
 その返答でシャルナークの表情は固まった。冗談めかして笑う声の様子から、シャルナークの声は届いていないと断定した。
 ここで転機を利かせたのは、肩を落としたシャルナークの姿を目の当たりにしただった。電話を切られると危機を察したのだろう。女は度胸など、こんな陳腐な言葉が似合う情景はない。
「あ、あの! 団長さんですか?」
『……誰だ』
「初めまして、わたしはと言います」
『なぜこのケータイを持っている? これはシャルナークの物だ』
「それは……」
 ここで、は咽喉を詰まらせたかのように黙った。声を掛けたものの、この状況をどう説明するか、考えもしなかったのである。何分、シャルナークが掛けた理由は声が以外に届くかどうかだ。
 は、隣にいるシャルナークに目線を送った。シャルナークは頷くと「オレの言ったとおりに言って」と口許に笑みを浮かべた。
 隣で囁いてくるシャルナークの声を一句一句丁寧に伝えていった。
「‘わたしの念能力により、隣にはシャルナークさんがいます。どうしても、あなたに伝えたいことがあるので、お電話しました。疑うようでしたら、質問をください。何でも答えて見せます’」
『……』
「本当です」
『…………』
「信じて頂けませんか?」
 長い沈黙の後に放たれたのは、拒絶を表す命令だ。『少し黙れ』
 たった一言、は威圧感だけで電話を切りたい衝動に駆られた。隣のシャルナークは「やっぱり一筋縄じゃいかないか」とぼやいている。
 長い長い沈黙を破ったのは、やはり相手の男だった。
『この真偽を確かめるためには、障害がある。例えオレたちしか知らない質問をしたとしても電話越しから心を読める類の念能力だった場合、それは無意味だ。お前の言うことが真実だった場合でも疑問が残る。何が目的でオレに接触して来たか、だ。今オレが一番危惧してるのは――』
 ここで間髪入れずシャルナークが口を挟む。
「ヒソカの罠」
「ヒソカの罠?」
『ご名答。だが、これでお前への疑いが晴れた訳じゃない』
 鸚鵡返しをすれば男は話に食らい付いた。この様子にシャルナークが、にやりと笑う。そして、に再度言うように指示した。今度は、シャルナーク自身の言葉でだ。
「‘オレが伝えたいのはヒソカの戦い方だよ、団長。ヒソカの失った指や脚が何事もなかったようにあった。おそらく自分の能力で作った、見せかけのものだ。でも、それだけじゃない。奴はそれを利用して逆に脚力が上昇していた。メモリは使うだろうけど少し厄介に復活したもんだね’」
『……』
「‘復活の理由をオレは知らない。マチだけ最後に残っていたけど、無事?’」
『…ああ。全部聞いてる。ヒソカは死後の念で蘇ったそうだ』
「死後の念?!」
「ねぇ、シャル。死後の念ってなに? わたしだけ全然話について行けないんだけど」
「ややこしくなるからは、オレの言葉だけ言いなよ」
「…はい」
『くくく…独り言にしては巧いものだ』
 小ばかにされた台詞に気恥ずかしくなったのか、は萎縮する。
『……、と言ったな』
「はい」
『この際、お前の言うことが本当か嘘かは、どうでもいい。ただ、これはオレがオレを納得させるための…いや、オレを慰めるためか。そのために、1つ聞いていいかい?』
 電話越しの男の台詞は、少々回りくどく聞こえ、は半分ほどしか理解が追いついていなかったが、小首を傾げながら再度「はい」と返事をした。
『シャルが一番やりたがっていたことを聞いてくれ』
 がシャルナークに見遣ると、彼は哀愁を漂わせながら口角を上げた。少しの沈黙。
「みんなと旅行、行きたかったな」
「旅行?」
「いや、旅行じゃなくてオレは……――」
『旅行と言ったのか?』
 続く言葉を待っていたが、男が急かしてきたためは慌てて答えた。「あ、ちょっと待ってください」
「シャル?」
、団長にさ…ありがとうって伝えてよ。それだけで十分だって」
「……わかった」
 本心を隠しているのではないか。は刹那に過ぎった疑問を問うことなく頷いた。聞ける雰囲気では、到底なかったのだ。
「ありがとう。それだけで十分、だそうです」
『…そうか』やや沈黙があって最後に男は言った。『少し信じてみたくなったな』
 そう残して電話は切れた。ツー、ツー、と虚しく途切れた名残が聞こえる。
 男が最後に言ったのは能力か、自身か、シャルナークか。数多の疑問を残存しつつも、やり切れない空気が漂った。

 シャルナークに促され、はバスルームを借りることになった。適当に使ってもいいと言われたため、タオルを拝借してガラス戸を開けた。
 シャワーのコックを捻り、お湯が出ることを確認すると、頭からシャワーを打ち付けた。抑揚の激しい水圧の中、ぼんやりと頭に浮かぶのは、ここ数日の怒涛の日々だ。死体、幽霊、念能力、祖母、そしてシャルナーク。全てが非現実的な世界の中、だけが置き去りにされているような気分だった。電話越しの男との会話も拍車がかかる。
「……お腹空いたな」
 それでも、置き去りの身でも腹は減る。
 独り苦笑したは、何もかもを洗い浚い排水溝に流した。黒く変色した水の様子から流星街が、どれほど不衛生な環境かを思い知らされる。同時に先の読めない未来を物語っているようだった。
 バスルームから出ると、リビングにいたシャルナークがノートパソコンを叩いていた。
「お風呂、ありがとう」
「冷蔵庫の中身、適当に飲んでいいよ」
「うん」
 濡れそぼった髪を拭きながら遠慮なく冷蔵庫を開けると、中はペリエとビールが入っていた。食材はない。は、迷いなくペリエの壜を手に取った。
「調べもの?」
「ちょっとね」
「ふーん?」言いながら、咽喉越しの良いペリエを流し込む。
「ところで疑問に思わない?」
 口唇から壜を引き剥がし、無垢に見つめてくる様子にシャルナークが笑う。
「オレ、成仏してないよ」
「あ」
 ふりだしに戻る。

 ある人に、どうしても伝えたいことがある。
 シャルナークの言っていた事は、先程電話の男と内容だというのは理解出来た。ではなぜ、シャルナークは未だ現世に留まっているのだろう。
 ――結論はシンプルにただ一つ、現世に縛り付けられている"思い"があるからだ。
 それが何か、結局が悩んだところで解決策が見つかることはなく、とりあえず今日は休む事となった。ふたりは先程までいたベッドルームにいる。はシャルナークのベッドを借りることになったのだ。
 他人のベッドを借りる事実は、の中で少しの羞恥が芽生える。特に、これは男性のものだ。おずおずと潜り込んだシーツは、やはり他人の匂いがした。これが生前の、シャルナークの匂いなのだろうと合点は足早だった。
 空は夜陰に抱かれていた。窓の外から時折、誰かの怒号や笑い声が沸くそれだけならば、慣れ親しんだ住宅地と変わらない雰囲気だ。
「寝なよ。他人のベッドじゃ居心地悪い?」
「ううん、そういうのじゃなくて」
 見下ろされる視線が、どこか憂慮を持って降り注がれている気がするのは、の勘違いかもしれない。だが、それほどまでにシャルナークの声は柔らかく、表情は穏やかだ。だからこそ、ここでの中で大切に育てていた疑問が芽吹いた。
「ずっと聞くのを躊躇ってたんだけど」
「うん」
「シャルは、どうして死んだの? ううん、どう言えばいいのかな…殺される理由があったの?」
 表情が一瞬にして凍りつくのをは見逃さなかった。
「数日しか一緒にいないけど、わたしから見てシャルは恨みを買って殺されるような人に見えないよ? ちょっと強引だけど頭はいいし、何だかんだいって優しいし」
「…その言い直しは卑怯だったな。最初のでよかったのに」
 ひとつ頭を掻き、ばつが悪そうにシャルナークは言った。
「オレが殺された理由の1つは、おそらく恨み。それに、オレはクモだ。クモって知ってる?」
 は、ゆっくりと頭を振る。「ううん」
「幻影旅団って言えば分かるかな。オレは盗賊だよ。時々慈善活動もするけど、人殺しは日常だし。の常識の中でオレは"悪い人"だ」
 瞠目し、驚愕を隠し切れない表情にシャルナークは苦笑した。これが世間一般に言う反応だと事を了知しているはずが、なぜだか今は胸が酷く締め付けられた。
 それは殺された身になり、死を痛感してしまったに他ならない。しかしながら、思うよりも哀しみはなかった。死にたがりではないが、シャルナーク自身、否、流星街の誰もが死を隣人として享受している。
 では、この胸に去来した矛盾は、なぜ産声を上げたのだろう。シャルナークは思考に潜り込む。
「……人を簡単に信じちゃだめだ」
 だが、答えは彼方に旅立ったまま、思いは宙ぶらりんのままだ。
「オレのこと、幻滅しただろ」
 このという女性と出会い、数日。背理がスタンダードなシャルナークにとって、随分と生ぬるい日々だと思っていた。同時に、居心地が悪かった。人間の生死に関わることや、残忍な一面を見せれば大半の人間は小波のように引いていく。それが当然だと思っていたというのに、どうだろう。
 はシャルナークのために懸命だ。何も強い念や力が在る訳でもないというのに。
「――わからない」
 長い沈黙の後の、からの返答は、少し的を外していた。シャルナークが思いもよらぬ答えだった。「信じないんじゃなくて、わからない」
「わたしはシャルが人を殺したのを見たわけじゃないし、例えそれが本当だとしても実感がわかない。わたしにとってシャルは初めてのお客さんだもの」
「お客さん?」
「だって、全財産くれるんでしょ? それは報酬ってことよね。シャルが成仏するまで……これは取引よ。だから、お客さん。クライアントの生き様は関係ありません」
 シャルナークの脳内に、ご都合主義、楽観的、ポジティブという言葉が浮かんだ。そう思えばどうしてか笑いがこみ上げ、ついには、くすくすと笑ってしまった。
「すごいな、は。一周回ってバカだ」
「!?」
「オレが人間を紙屑のように殺す姿を見てもそう言えるのか、少し試したくなったよ」
 もしも、生身だったならシャルナークは、それを実行していたのかもしれない。
 以外の人間からは、シャルナークは無彩色だ。以前のようにブラック・ボイスを使って命を蹴散らすことは不可能。その事実に、なぜか安堵すると先程の矛盾が擡げ始める。
 たった数日だ。彼女に惹かれるものは何一つない。行き着いた光は、シャルナーク本人ですら意外過ぎる答えだった。
(嫌われたくないんだ)
 世界でたった一人、自分を認知するこの女性が存在を確固とする。
(――オレが)
 余程、疲れているのだろう。シャルナークの真下で、うとうとと瞼が開閉されている様子は、当然だった。飛行船に浮かれ、電車とタクシーを乗り継ぎ、流星街に来るまで歩き通し。その後、慣れぬ地に降り立てば、誰しも神経が削がれる。弱音を吐かずに、ここまで来れた事実はシャルナークも驚いた。
「もう寝なよ、明日もあるんだ。おやすみ」
 控えめな声で「うん」と返ってくる。は瞼を閉じると、やがてあっさりと夢の住人になった。
 には明日がある。シャルナークにはない、未来が。


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(20160819)

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