「死者への冒涜って知ってる?」
 は、胸中で悪態を吐きながら目の前にいる男を見下した。彼女の指している言葉は、先日三人組を殺った惨殺死体のことである。
「こっち向いて、答えて」
「……」
 クロロは、に従うことなく無言を貫いたままだ。


 ふたりが居る場所は、以前とは違うマンションだ。マンションと言っても随分と年季の入った建物であり、そのせいか空室が多く、ふたりが居る一室の両隣には人の気配はない。
 来い、と指定されたマンションに来たのにも関わらず、どうやらクモとは無関係のようだ。クロロは前髪を崩し、ラフな格好でダイニングテーブルのチェアに座って、やはり本を読んでいた。電話で他の団員の名前が出て来ないことには不思議と思ったが、今回はクロロ個人が呼び寄せたようだった。理由は皆無。
 今度の部屋には、ソファはなかった。は部屋を一望すると仕方なくクロロの真向かいにあるチェアに座った。乱暴に座る様子からして彼女は、ご立腹だ。
「あたしは、この間のことを言ってんだけど」
「…」
「あそこまでする必要あった?」
「……」
 何度問うても、やはりクロロは口を閉ざしている。本に夢中のクロロは、なかなかそこから抜け出すこともせず、冒頭から今までの通りだ。何か気にかけるものがなければ、このクロロ=ルシルフルという男は頑として動かない。それ以前に答えなくないと空気が物語っていた。
 がテーブルを拳で殴打すると無惨にも窪みが出来た。もう少しで風穴でも開きそうだ。
 そこで、ようやくクロロは目線を本から目前にいるへと滑らせた。その表情は無表情でクロロ以外、誰も感情を読み取ることは出来ない。
 オールバックではなく髪を下ろしている様子からして、クロロは一個人としてここにいることだけが、にとって確固とした情報だった。
「怒るなよ」
「いい加減にして」
「……、オレはな…少し後悔してることがあるんだ。けど今さら消すことのできない過去を振り返るつもりもない。言うならば、これは懺悔みたいなものだ」
 クロロが語りだしたのは、への回答ではなかった。
「お前をクモに入団させるべきではなかった。お前の能力を盗んで終わりにすれば良かったと思ってる――なんでか分かるかい?」
「知るか」
 素っ気ないの一言に、クロロは口許に笑みを宿らせた。団長としての冷笑ではなく、少し幼い破顔だ。
「オレはお前のそういう素の表情が、ずっと見たかったんだ」
 柔らかに微笑むクロロに、は刹那にして釘付けになった。殺人中毒者とは到底思えない無垢な笑顔を見て、誰が幻影旅団の団長だと思うだろうか。
 ここではいつからか持った憶測を掘り起こした。それは、コルトピが放った一言だった。

『昔、クロロは”団長”じゃなかったんだ』

 初め、コルトピが何を言っているのか理解が出来なかったが、団員含めクロロと共にいることで、見えてきたものがあった。
 旅団を立ち上げる前、まだクロロがずっと幼い頃”団長としてのクロロ”は”現在のクロロ”とは別物だった――そう、理解した。
 そして、あの笑顔である。
「一緒に住んでるとき、ぬるま湯ではあったけど、楽しかったんだ。お前の、ころころと変わる表情が眩しくてね」
 クロロは目線を下げ、また本に焦点を置いた。それは文字を追いかけていないように思えるが、真実はクロロ本人でしか知り得ない。
 といえば、先程までの怒気をあっという間に過去へと置き去りにして、クロロの言葉に耳を傾けていた。
「オレはお前の能力も欲しいし、じゃ2つ一気に物にすればいいと思って入団させたけど、ここで誤算が生じた」
 ぱたん、と本が閉じられる。
「オレの欲しかったお前は団員になった途端、死んだ」
 頬杖を付いたクロロは、ゆっくりと小首を傾げた。
「なぁ、なんで? さっき見たあの頃のお前は、まだそこにいるんだろ?」
 からすれば、無理矢理に入団させられ、団員としてを欲求され、それを全うしているに過ぎない。だが、この口振りからするにクロロの欲しかったものは”団員の”ではなく””のようだ。
 ふたりの考えていることは、この時偶然にも見事に合致していた。
「……あたしは、あたしよ。いつだって、あたしはのつもりだけど。ていうか、あなたがあたしに団員になるように仕向けたんじゃない」
「そこなんだよ。あー、しくじった」
 がしがしと頭を掻いて眉間に皺を寄せるクロロは、誰だお前状態だ。
「でもオレは団長だしな、団員に贔屓も出来ねーし。やっぱ能力盗んじまおっかなーって何度思ったことか」
「…もうあんた誰」
「オレ? クロロだけど」
「ああ、うん…もういい」
 は軽く頭を抱え、未だああだこうだ言うクロロを見た。確かにふたりでいるとき時々こうした砕けた口調になるものの、突然来られると慣れないため面食らう。
 そして、今までクロロが何を言いたいのか心の中で整理した。団員としてではなく、個人としてのを欲している。同時に能力も欲しい。それは団員としては叶わなかった、ということだ。
 ここで、ようやくは気づいた事があった。思わず口にしてしまった。
「ん? ちょっと待って……ルシルフル、あなた…――」
「おせー…口説んてんだよ」
 目尻まで下げて、まるでその辺の青年と遜色無い笑顔をクロロは向けた。は真っ先に返答と向けられた笑顔の正体に、開いた口が塞がらない。
 やがて手のひらで顔を覆い隠したは、これが夢であって欲しいと思った。どう転んだとしてもデメリットしかない。どの道を通っても帰結するのは、能力を盗られることは確定なのだ。
「返事は、お前を倒すくらい強い奴が現れるまででいいよ。それまで、お前は幻影旅団の一員だ」
「倒すって…死ぬ気はないんだけど」
「倒すが死ぬまでとは限らない。
 ……いいか、オレはオレであると同時にクモの頭、そしてクモそのものだ。これを覆すことはしない。何があっても、これだけは譲れないからな」
「あなたの尊敬できるところは、そのブレないところだわ」
 誇らし気に口許を撓らせたクロロは、当然だと言わんばかりだ。
 例え好きな人が、例え愛した女性が、例え大切な何かを、自分さえも失ってでもクモを取る。
 目一杯、精一杯にクロロは団長なのだ。幻影旅団を優先するのがクロロ=ルシルフルなのだ。
「それとも、お前以上の奴を見つけて早々に退団させようか? 刺青も綺麗に取ってやるよ」
 クロロはテーブルに置かれていたの手首を捕らえた。驚愕したが握られている場所とクロロを交互に見る。彼女にしては、めずらしく動揺している。
 そしていつの間にか、団長に戻っているクロロに、いくら口調が変わったとしてもクロロ=ルシルフルには変わりないことを再認識した。
「よく覚えておくことだ――逃がさねーよ。能力もお前も、オレのものだ」
 は確かに構えていたはずだった。何を言われるのか、何が来るか、両足も踏ん張り、いつだって逃げれる準備はしていたはずだった。
 それだというのに、気が付けば口唇を齧り付かれていた。優しさの欠片など無い、まさに奪い尽くす勢いで、クロロの口唇に塞がれていた。
「んッ……バ、カじゃないの…!」
 は舌先が進入してくる寸前に、それ以上から逃げ出した。そして片方の手のひらは、クロロの頬目掛け弾ける。
 景気の良い音が鳴ってすぐにに視線を送る顔は、余裕の笑みだった。ニィ、と撓る口唇は、先程まで喰われていたそのものだ。
 避けれたはずだというのに、クロロはそれをしなかった。こういった動作、仕草、そして真っ赤に染まるの顔すらクロロにとって欲しいのだ。
「帰る!!」
 手を振り払えば、あっさりと解放された。
 は、火照る顔を隠すように下を俯くと、出口を目指した。とにかく、この状況から逃避したかったのだ。

「なに?!」
「本、読んだ?」
「まだ!」
 突き進みながら、背後からの問いをばっさり答えて、ようやくドアノブを回した。開け放たれた先から湿気の孕んだ風が纏わり付き、まるで今のを代弁しているかのような不快さだった。
 クロロに言われた言葉が、されたことが嫌ではなかった自分に、不快だったのだ。
、お前は確かに優しいよ」
 唐突な台詞に思わず四肢は動かなくなったのは、無論だ。
「オレは知ってる…お前が金ではなくダイヤを要求する理由をな」
 いつの間にか、背後にクロロの気配がある。困惑顔で振り向けば、玄関の壁に両手を付いてを覆いかぶさるようにクロロが見下ろしている姿があった。これは明らかににとって監獄だ。
「情報を入手する度に人を殺す数だけダイヤを請求する。そしてダイヤは慈善団体、ホームレスやストリートチルドレンに渡す……まるで償いのようにな」
「…………調べたの? 悪趣味」
 クロロの口唇が、吐息と共に片耳に添えられる。
「だがそれは、ただの偽善だ」
 耳元で囁かれた確信が、の胸に言葉の刃として当てられた。彼女自身、熟知しているのだ。人を殺めた分だけ誰かを救い出したとしても、無くなった命は二度と戻ってくることはないと。
 仕事は仕事と割り切ることは容易でもなく、またも未だ若輩だ。簡単に切り離すことは出来ないのだろう。何よりも彼女は優しい。クロロは偽善と名づけたが、それは心が無ければ出来ない。
「…あなたは人を殺しても涼しい顔をしてるものね」
「関係ない奴にはな」
「…この間の死体、腕を切り落としたのはあなたのなりの報復?」
「正解、と言いたいところだけどオレじゃなくてクモとしてだ…が、クモがオレの意思だからこれはご名答と言うべきか?」
 するり、との頬に滑り込ませた手は、先程まで壁に手を付いていたものだ。逃れようと身を捩るだったが、降り注ぐ熱視線が意外すぎて身体の動きは、ぴたりと止んでしまった。
 初めて出会ったあの日、酷く澱んだ双眸だと思っていた眸が今はどうだ。吸い込まれそうなほど魅力的に、同時に危うくも煌々としている。半分持っていかれたのではないかと錯覚する。
「あたしのどこがいいの? 理由が全然わからない」
「好意に理由を求めるのはナンセンスだ」
「…そうかもしれないけど」
「知ってるかい? どこが好き、と聞かれた正解は答えてはだめらしい」
 クロロの視線は、どこまでもだった。強い意思を持つ大きな眸も、赤く熟れた口唇も、その陶器のように白い肌も、全てクロロによって絡め盗られる。
「わからない、と答えるのが正解なんだそうだ。……ま、オレも本当にお前のどこがいいのか分からないから、それしか答えられないんだけど」
 言葉を並べている最中、クロロは本当に自分でも訳が分からないといった表情で淡々と答えていた。これが好意について話しているなど雰囲気だけでは、誰もが首を傾げるはずだ。
 それでも想いは言葉通りなのだろう。次に囁いた台詞は優しい声色で、恐らく――舐めたら甘くとろける。
「もう一度キスしたい。次は、うんと優しいやつ」
「イヤ」
「…参ったな。拒まれると奪いたくなる」
 は、本日初めてにっこりと笑うとクロロの腕からすり抜けた。ドアの外で伸びをして振り向く。
 クロロは、どこか仕方ないといった表情でを見ていた。愛しみも兼ね備えた表情で、まるで人殺し集団のトップに見えない。
 しかし、彼も人間だった。命を消し、人を愛しむ。この矛盾こそが、彼の魅力の一つなのかもしれない。
「最後に聞いてもいい?」
「ああ」
「…もし、あたしがクモを抜けたいって言ったらどうする?」
 意地の悪い笑みを浮かべて、は尋ねた。この質問の奥底に沈んでいるのは、金色の青年が頭にあるからだった。
 いつか抜けるとも視野には入れていた。例え、どんな結末になろうとも――しかしながら、世の中にはタイミングというものがある。
 返答は即座だ。「決まってる」
「それは許さない。全部だ――能力もお前も、時に命すらも、全て奪いに行く」
 少し驚いた様子を見せたは「そう」と素っ気なく言うと、エレベーターを目指して踵を返した。高鳴る心臓に、早く止まれとも思っていた。”死”という単語があったものの、旅団にいる限り、否、これからも持ってはいけない感情だと押さえ込んだ。クロロの返答で拍車もかかる。
 その時、感情の水底からクラピカという存在が浮上し始める。幻想のクラピカが言うのだ。
 この胸の高鳴りの原因は、憎き相手であり、また関わりたくないと頑なに拒否していた相手ではないか、と。
 矛盾が感情を抱き潰していく。緋の目を探し終えたら、クラピカにとっては用無しだ。その時まで隠し通すか、真実を述べるか。いつかは答えを出さなければならない。

 廊下の半分ほど歩いたところで名を呼ばれ、は振り向いた。苦悩の中を助けたのは、その原因を作った人間などなんと皮肉だろう。
 玄関に突っ立っているクロロは言った。「今度から名前で呼べ」
「…団長命令ですか?」
「お前が納得するならそれでいいよ」
 何それ、と呆れつつは小さく頷いた。
「じゃあね」
「ああ、またな」
 ――後にが、彼の前で名前を呼ぶことはなかった。出来なかったのだ。
 また、とクロロは未来を求めたが、それが訪れることは無かった。
 これが、ふたりの決別だと誰が予想できただろうか。


「どういう事だ……説明しろ…!」
 背中を大きく開いたバックレスドレスは、破れたことで更に広がりを見せていた。下着スレスレまで丸見えのの肌は憤怒で震えている青年に見下ろされている。床に倒れている形で彼女は、そこから動けないでいた。
 恐怖、焦燥、困惑、そしてどこかで冷静に判断している自分もいた。いつかはこうなると想定はしていたはずだと。
……!!」
 憤怒と悲壮を同居させたクラピカの怒号は、ホテルの一室に虚しくも反響している。からの返答はないのだ。
 クラピカは彼らしくもなく乱暴にの腕を取った。反動で背中を向けていた体が表を向く。破れたドレスが、はらりと身体から落ちた。
 ドレス用のインナーは、形が普通の物よりも生地の範囲が狭い。そのせいか下着から、たわわになった胸が震える。
 いつものクラピカだったのなら、ここで冷静を装いつつ慌てるか、上着を貸していただろう。そのどれも無かった。
「いつからクモにいる?! ずっと私を騙していたのか!」
「違う!!」
 ここでようやく、が開口した。両手で胸を隠して起立するとクラピカに迫った。
「あたしはクラピカを騙そうとしたことなんてない!」
「しかしお前にクモの入れ墨があるということは、お前はクモなんだろう?!」
「そうだけど……ずっと言うか迷ってた。クロロが新しい団員を連れてきたら、あたしは…!」
 ここまで啖呵を切っておきながらは、ぱたりと言葉を紡げなくなった。
(クモを抜けたら、あたしはどうするの?)
 押し黙っていると、更に怒りを露わにしたクラピカは震えながら憎き相手の名を呼んだ。
「クロロ、だと…?」
 すう、と息を吸うとクラピカの双眸が赤みを帯びる。美しくも悲しい一族の証、緋の目だ。
 右手に鎖が具現化される様子を見て、は息を飲んだ。以前、ヒソカからクラピカの能力を教えて貰い、そしてクロロの心臓を刺した念の刃のことを思い出す。
 今、は幻影旅団の団員だ。クモだ。
「クロロと呼んでいるのか……そうか…団長ではなく、クロロと…!」
 これもまた「違う」とは言いたかった。なぜここでクロロと呼んでしまったのか、自身も分からなかった。
 ただ事態が悪化したのは明白だ。クロロの名前を聞いた途端、クラピカの周囲は一変し、禍々しいオーラが一面を占める。
「やはり、嫌でもお前を組に引きずり込めばよかった。以前お前が言ったように、陳腐な言葉でも吐いて繋ぎとめるべきだったな」
 瞳孔が見開いたクラピカの表情は、既にの知る彼ではなかった。ここにいるのは、クルタ族の末裔であり、同胞を皆殺しにされた復讐者であり、また嫉妬に塗れた男の姿だった。
 クラピカが中指の立てる――チェーンジェイルだ。
 逃げるか、受けるか。
「”君を愛している。私の傍にいてくれ”」
 それは以前、が提案した言葉そのものだった。
「――……酷いやつ」
 瞬く間に念の鎖が身体に巻きついた。衝撃で床に横転しそうになったは、寸のところで抱きかかえられる。誰と問うことなく、クラピカだ。
 注がれた眼差しは冷たくとも、その腕は熱く、いつかの日の熱を思い起こした。クラピカの部屋で、ふたり幸せのひと時を味わったあの時間帯。
 確かに通じ合った手が、そこにあるはずだというのに別物に思えるのは、憎悪と軽蔑とその他にも負の感情が交じり合っているからだろうか。
「…逃げなかったのだな」
「逃げないよ、あたしは」
 クラピカの手がの細腰を緩やかに撫でた。それは性的ではなく。
「…またこの数字のクモを捕らえるとは思ってもいなかった」
 の臀部には蜘蛛の入れ墨が刺されている――数字は11だ。

 日時は、クロロとの知らぬ内の決別の一週間後。
 この展開の詳細を語るには安易ではないため、次の回にて時計の針を左回りに撒き戻そう。


(しんどー、のクロロを一度打ってみたかった)
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(20161217)

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